1933年(昭和8)からしばらくの間、下落合4丁目2080番地(現・中井2丁目)の金山平三アトリエClick!では定期的にダンス教室が開かれていた。それは、金山平三Click!が生徒にダンスや踊りを教えるのではなく、金山やらく夫人Click!を含め周辺の仲間たちが社交ダンスを習うために開いた教室だった。
社交ダンスを教えていたのは、ほどなく大田洋子Click!の夫になる、改造社をクビになったばかりの黒瀬忠夫だった。東京帝大に通学していたころからマルキシズムに惹かれ、改造社に勤務してからは社内で「戦旗派」を形成していた。高校の後輩である宮本顕治Click!が東京へやってくると、松本鶴三らと研究会グループを組織したため、特高Click!に検挙されて数ヶ月も拘留されている。それが原因で、黒瀬は改造社をクビになった。
解雇されてすぐのころ、同様に改造社を辞めさせられた仲間とともに、出版社「時代社」を起業するがうまくいかず、当人の表現によれば「ルンペン的な生活」を送り、ダンスの教師になって食いつないでいた。そんなとき、下落合の金山平三から声がかかった。金山夫妻を含め、画家の友人たちに社交ダンスを教えてほしいとの依頼だった。
ちなみに、大田洋子と出あったのは、改造社をクビになる前後のころだった。黒瀬忠夫が、江戸川Click!(大滝橋あたりから舩河原橋までの名称で1966年から神田川)の大曲(おおまがり)近くにあった同潤会江戸川アパートメントに、大田洋子が「高田馬場駅近くの下宿」(黒瀬証言)に住んでいたころだ。黒瀬は山手線の「高田馬場駅近く」と記憶しているが、この下宿は高田馬場駅から早稲田通りを歩いて2kmほど、たっぷり20分ぐらいはかかる喜久井町21番地の稲井方のことだろう。現在は、地下鉄東西線・早稲田駅のすぐ近くだが、当時の最寄り駅は確かに高田馬場駅だった。
やや余談になるが、小川町2丁目5番地の同潤会江戸川アパートメントClick!に住んでいた『チボー家の人々』の邦訳などで知られる早大のフランス文学者・山内義雄のもとへ、金山平三が「障子を張り替えた」と聞いて、さっそく張りなおした障子に、指先にツバをつけて破りに出かけている。社交ダンスの先生・黒瀬忠夫といい、江戸川アパートメントに住む友人知人に金山平三は縁があったものだろうか。
金山アトリエでの様子を、1971年(昭和46)に濤書房から出版された江刺昭子『草饐―評伝大田洋子―』より、元夫の黒瀬忠夫の証言から引用してみよう。
▼
大田の親戚であった住友関係の幹部稲井氏の家でご婦人方を相手(大田もその中の一人)に(社交ダンスの教授を)したこともありましたが、主として下落合の金山先生のアトリエで教えました。金山平三先生はマスコミで有名ではなく御存知ないかもしれませんが、当時洋画壇では、藤島武二、岡田三郎助、和田三造氏等と共に日本の洋画壇の五指に屈せられる人でした。お弟子は、金山先生御夫妻、甥ごさん夫婦、耳野卯三郎氏夫妻、その他洋画壇関係の人々。中に菅野清といふ画家の未亡人も一人居ました。時々、伊原宇三郎、大久保作次郎夫妻、南薫三(ママ:南薫造)氏もみえられて、お相手をしたことがあります。(「大田もその中の一人」以外のカッコ内引用者註)
▲
このサイトではお馴染みの金山平三Click!の周囲にいた人々、耳野卯三郎Click!や南薫造Click!、大久保作次郎Click!らが夫人同伴で、黒瀬忠夫に社交ダンスを習っていたのが分かる。このぶんだと、おそらく「人君もおいで」と刑部人夫妻Click!や、島津一郎Click!など島津家Click!の人々も、誘われるままにダンス教室に通っていたのかもしれない。
耳野卯三郎は下落合の西隣り、上高田422番地のアトリエClick!から、南薫造は落合地域の南側、大久保百人町のアトリエClick!から、大久保作次郎Click!は下落合540番地のアトリエClick!から通ってきたのだろう。ひょっとすると、娘のような宇女夫人Click!と結婚した下落合753番地の満谷国四郎Click!も、このような集まりが好きだったようなので、若い夫人を見せびらかしに通ってきていたのかもしれない。
金山平三は、「改造」編集部の黒瀬がマルキシズムの研究会グループに属していて、特高に検挙されたことももちろん知っており、アトリエでの社交ダンス教室は困窮する彼の生活を支援するために開いた、救援活動のサークルだったようだ。金山は、彼にマルキシズムの政治的な視点とは異なる、純粋な芸術面からの視点やモノの考え方を教えたようで、後年、それらの言葉が黒瀬の生活を大きく支えることになった。
つづけて、同書より黒瀬忠夫の証言を引用してみよう。
▼
金山先生は私に芸術面、精神生活面で最も大きな影響を与えられた尊敬する方で、先生宅ではブタ箱から出てきた後も、私への失業救済的な御意図は分りきっていたのですが、私は週に二~三度お伺いすることによって、心の垢を流す洗心的な有難さの故に、おじゃまさせて頂いていた次第でした。在神戸の金山未亡人とし今も時々音信しあっています。令夫人は、林鶴一門下の、日本第一番目の理学士(奈良女高師→東北大学)で、御結婚後は、夫君に仕え、夫よりも偉くなることを避けて博士号を敢えて取らなかった、僕に云はせると賢夫人で、御主人に仕え、御主人をたてることに終始した立派な方です。
▲
このあと、大田洋子と結婚してさんざんひどい目に遭う黒瀬忠夫は、この証言が大田洋子についての書簡による江刺昭子のインタビューだったがゆえに、らく夫人を「夫より偉くなることを避け」て「夫君に仕え」「御主人をたて」た「賢夫人」と、自身の理想的な女性像として偶像崇拝的な描き方をしているように見える。
だが、頭のいい牧田らくClick!にしてみれば、東北帝大で高等数学の博士号を取得し教師などになるよりも、金山平三といっしょにいたほうが人生面白そうだし、楽しそうだと感じて結婚したような感が強い。らく夫人の実像以上の理想化は、別れたあと大田洋子にあることないことを作品の中で書き散らされ、生涯にわたり苦汁を飲まされつづけていた黒瀬忠夫の、積もりに積もった怒りの裏返しのような気がするのだ。
大田洋子は、自身が体験した身のまわりのエピソードを書く“私小説”で食べていたので、夫(あるいは元夫)の気に入らない言動や行為は侮蔑し、口をきわめてののしるような書き方をしている。黒瀬忠夫が、金山アトリエで社交ダンス教室を開いていたとき、改造社の時代から大田洋子とはつき合っていたが、このあと1936年(昭和11)に同棲しはじめて結婚し、江戸川アパートで暮らしはじめている。
さて、この時期に金山平三はアトリエで、なぜ浮かれたような社交ダンス教室などを開いたのだろう。それは、明治神宮の聖徳記念絵画館(神宮外苑の絵画館)の壁面に納める、下準備から途中の大病による中断を含め、都合10年間もかかった大画面『平壌の戦』に、ようやく完成のめどが立ったからではないだろうか。同作品は、1933年(昭和8)の暮れに納品され、長年にわたる宿題が解消し肩の荷が下りたせいで、急に気分が高揚して“踊り”Click!たくなったような気がするのだ。
特に生命さえ危うかった、虫垂炎をひどくこじらせた大病は手術後も経過が思わしくなく、絵画館の壁画を制作しつづけることができないのではないかとさえ思われた。また、手術費や入院費の捻出ができず、初めて作品を自ら売ろうとストックタブローのリストづくりなどもしている。当時の様子を、1975年(昭和50)に日動出版から刊行された飛松實『金山平三』から引用してみよう。
▼
その間、平三は一旦死を覚悟したこともあった。これまでの作品中、代表作自信作のリストを作って、所在、所有者などを明らかにしたり、手持ち作品の一覧を作ったりしている。また、入院費の捻出についても苦慮し、最悪の場合には新居を手放そうとらくと話し合ってさえいた。幸いそうした事態を免れ得たのは、この年の第九回帝展に審査員として出品した『菊』が好評を受け、すぐに買受け希望者が出たからであった。
▲
このような経験をへてきたあと、ようやく作品を絵画館へ納品できる前後の時期なので、金山平三が浮かれて社交ダンスを踊るのも無理からぬことのように思える。また、大病から恢復した金山平三は、ほどなく健康を完全に取りもどし体調ももとにもどっていた。
黒瀬忠夫が金山平三アトリエで社交ダンスを教えはじめたころ、大田洋子はそれまで住んでいた上落合545番地の梅田材木店2階の下宿を引き払い、喜久井町21番地の稲井方へ転居している。喜久井町の下宿から、黒瀬が住む同潤会江戸川アパートメントまでは直線距離でわずか1,500mほどしか離れていない。林芙美子Click!とともに、なにかと周囲の評判がよろしくない大田洋子だが、上落合で暮らした彼女については、それはまた、別の物語……。
◆写真上:アトリエ南側の庭で、チロリアンダンスを踊る金山平三とらく夫人。
◆写真中上:上・中は、下落合4丁目2080番地の金山平三アトリエと北面の採光窓(解体)。下は、アトリエではどのような社交ダンスが踊られていたものだろう?
◆写真中下:上は、1934年(昭和9)建設の黒瀬忠夫が住んだ同潤会江戸川アパートメント(解体)。金山平三が、張り替えたばかりの障子を破りにきたアパートとしても「有名」だ。中は、昭和初期に撮影された金山平三とアトリエ内部。下は、1933年(昭和8)12月に撮影された絵画館へ『平壌の戦い』を搬出直前の金山平三。
◆写真下:上は、入院費のためにアトリエを手放さなくて済んだ1928年(昭和3)制作の金山平三『菊』。下は、らく夫人と踊る金山平三だが社交ダンスではないだろう。w