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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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御留山の相馬邸に展示されていた刀剣は?

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河内大掾藤原國定初代銘.jpg
 昨年の暮れ、江戸期にはいつも貧乏だった刀鍛冶の逸話Click!や、今年に入ってから雑司ヶ谷金山(のち赤坂が本拠)で鍛刀した石堂一派Click!、あるいは絵はがきにちなんだ弁慶の長巻Click!と、立てつづけに美術刀剣に関する記事をアップしたら、ある方から岩代国(会津藩)で江戸初期の寛永年間(1624~1645年)から、江戸前期の寛文年間(1661~1673年)ごろにかけ、数代にわたって藩工をつとめた「國定」の脇指をお譲りいただいた。
 拙サイトをはじめて16年になるが、こういう不思議なことがときどき起きるので非常に面白い。わたしが調べていた資料や、テーマとして設定していたそのモノが、なぜか記事を書こうとする前後にどこからかふと手もとへやってくる、いまだに不思議な現象だ。茎(なかご)には、「河内大掾藤原國定」の銘が切られ、磨り上げられていない(短縮されていない)うぶ茎(鍛刀当初の姿)で、長さ(刃長)は1尺7寸6分5厘(約53.5cm)あり、あと6.5cm強で2尺の大刀に迫る大脇指だ。また、刃区(はまち)と棟区(むねまち)の元幅が4cm近くもあり(通常の大刀よりも幅が広め)、重量は新刀期の大刀とほぼ変わらない。
 慶長から江戸最初期に鍛造された長寸の脇指で、江戸期も時代が下るにつれ脇指は1寸4分(約40cm)前後が主流となり、武家や町人を問わず幕府の規制もあって長脇指は幕末までほとんど作られなくなっていく。全体に出来が非常によく、日本美術刀剣保存協会(日刀保)の「特別保存」指定(重要刀剣の手前)の折り紙付きClick!(鑑定書)だ。
 造りは鎬(しのぎ)造りではなく、鵜の首づくりと呼ばれる変わったもので、通常の鎬造り以外に挑戦するのは、刀工の技量が高い証左だ。刃文は、尋常な新刀焼出しに新刀期に見られる典型的な相州伝を焼いており、互の目乱れに荒錵(あらにえ)小錵(こにえ)がよくつき、刃中は湯走りや銀砂を散らしたような砂流し、金筋銀筋、足などがよく入り“働き”が盛んだ。匂い口もしまり、刃文は明るく冴えており、鋩(きっさき)は小丸(こまる)に返りやや掃きかけごころとなっている。鵜の首に特有の棒樋(ぼうひ)が上手に彫られ、地肌はよく練れてつんだ小板目肌をしており、棟(むね)は正統な庵棟で鍛え傷や肌荒れなど、鍛錬技法上の破綻はまったく見られない完璧な出来となっている。
 また、特長のある巨大な大鋩(おおきっさき)を含めた体配(刀姿)は、幕末の新々刀期に大江戸(おえど)Click!で鍛刀した源清麿(四谷正宗)を想起させる意匠をしており、國定は鎌倉の名刀工である貞宗か美濃志津の兼氏あたりの相州伝作品を意識しているのかもしれない。白鞘(しらざや)に収まるが、鎺(はばき:鍔元で刀剣を固定する金具)は銀ムクの二重鎺で、もともと高級な拵え(刀の外装=刀装具など)が付属していたとみられる。
 登録証の数字はわずか3桁で、1951年(昭和26)の「大名登録」刀のひと口だ。「大名登録」とは、同年からはじまった刀剣登録所持制度により、美術刀剣は各地域の教育委員会か文化財保護委員会に届け出なければならなくなり、旧・華族や旧・大名家筋、刀剣愛好家などのもとにあった作品が、各地の自治体へ率先して登録された経緯をさしている。したがって、同年登録の刀剣には、きわめて質がよく重要な作品が多い。目白地域でいえば、相州正宗を含む刀剣の蒐集で高名だった目白の肥後細川家Click!尾張徳川家Click!の作品群は、そのほとんどが同年に発行された「大名登録」の登録証が付属している。
 さて、お譲りいただいた会津藩の藩工「國定」に、なぜ過剰に反応したのかといえば、現在では同じ福島県内となっているが会津藩(加藤家→保科=松平家)の藩工と、やや離れた中村藩(相馬家)の刀剣を鍛えた藩工がどこでどう連絡しているのか?……という課題が、ここしばらく抱えていたわたしのテーマなのだ。そしてもうひとつ、下落合310番地の御留山Click!に建っていた相馬邸Click!で催された、年に一度の太素社(妙見社)Click!の祭礼で展示され、地元の人々に強い印象を残している武具蔵の中には、どのような刀剣作品が含まれていたのかというテーマも同時に探ってみたい。
 祭礼Click!時には相馬家Click!の邸内が開放されて、武具蔵も公開され収蔵品が展示されているのを見学した記録が残っている。2006年(平成18)に地元で発行された『私たちの下落合』(落合の昔を語る集い)所収の、斎藤昭「わが思い出の記」から引用してみよう。
  
 私が小学生の頃、屋敷の執事の息子が同級生にいたので、ときどき(相馬邸へ)遊びに行き、入口に近い庭に入れてもらいましたが、奥のほうには行けませんでした。ただ、年に一度、屋敷内のお社のお祭りがあり、その時は門を開けて屋敷を開放してくれたので、邸内をいろいろと見物することができました。なかでも蔵の中を見せてくれて、槍やよろい兜などの武具を見たのが記憶に残っています。(カッコ内引用者註)
  
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 相馬家の武具蔵といえば、日本にたったひと口だけ残されていた埋忠明寿(うめただみょうじゅ)の太刀(銘:山城国西陣住人埋忠明寿/国重文)が思い浮かぶ。室町末期から江戸最初期にはじまる新刀鍛冶の祖であり、江戸後期までつづく新刀時代の先駆けといわれる埋忠明寿だが、ほとんどが短刀や脇指のみしか現存しておらず、奇跡的に1598年(慶長3)8月制作の太刀が、相馬家の武具蔵でひっそりと眠っていた。
 おそらく斎藤昭様Click!も、この唯一の超貴重な埋忠明寿の太刀を、落合第四小学校Click!時代に目にしておられるのではないだろうか。そればかりでなく、将門相馬家Click!は鎌倉期から江戸の幕末にかけて、世界でもっとも長くつづいた武門の封建領主ということでギネスブックにも登録されているので、先祖から伝わる刀剣作品をはじめとする武具が、邸の蔵内には豊富に保存されていた可能性が高い。上記の埋忠明寿の太刀は、現在、刀匠の出身地である地元の京都国立博物館に寄贈されている。
 さて、中村相馬藩の藩工(藩お抱えの刀鍛冶)には、摂津守源正友入道(正友)をはじめ、津田越前守助廣の弟子だった大和大掾源廣近や、幕末には江戸の大慶直胤Click!の門人である慶心斎直正(越前守直正)などがよく知られており、相馬邸の武具蔵にも彼らの作品が収蔵され祭礼時には展示されていたかもしれないが、もうひとり「國貞」「中村住國貞」と銘を切る相馬藩の藩工がいるのを近年になって知った。
 この優秀な技量を備えた刀工については、同藩の城郭があった宇多郡中村(城郭の北東側か)に住んでいたということぐらいしか判明しておらず、どのような系譜の刀鍛冶なのか門弟も記録されていないので、美術刀剣界では“謎の刀工”とされている人物だ。作品も少なく、相馬藩との藩工契約が短かったか、あるいは一時的に相馬藩の抱え刀工として鍛刀したあと、どこかへ移住(帰郷)しているのではないかと思われる。ひょっとすると、この「國貞」銘の名品が相馬邸の武具蔵にも展示されていた可能性がある。
 ちょっと余談だが、刀鍛冶が銘を切るとき名前の上にかぶせる「〇〇守」とか「〇〇介」「〇〇大掾」などは本来、その地域を治める守護(大名)や役人(地頭)などの職位に付与された受領名だが、江戸期にはカネで買える名目だけの肩書きになっていた。京の貧乏な朝廷や公家たちの重要な商売になっていたわけだが、「〇〇守」を受領(購入)するには刀鍛冶の場合、40~50両の大金が必要だったといわれる。価格は、ほぼ位階身分のとおりで「守」→「介」→「大掾」→「掾」または「尉」という順番で安価になった。
 これらの位階を受領する(購入する)には、申請の“代理店”として「日本鍛冶惣匠」の称号をせしめた、京の伊賀守金道を通じて代々行われているが、刀工としての伊賀守金道の作刀に関する技量は、「鍛冶惣匠」を名のっているにもかかわらず、同時代の優れた他の刀匠たちに比べ、かなり見劣りがする出来となっている。
 ちなみに、ショルダーとなった位階は、刀工の技量にまったく比例しない。江戸後期の美濃介を受領した下谷御徒町の荘司箕兵衛(大慶直胤)は、あまた「〇〇守」を受領している刀工たちの上をいく圧倒的な技量だった。同様に、“無冠”の刀匠だった日本橋浜町(館林藩中屋敷)の水心子正秀は門人を多数抱え、新刀を超えた新々刀の時代を拓いた祖として君臨している。また、幕末に出現した新宿四谷の源清麿(無冠)は、他工を寄せつけない飛びぬけた才能を発揮した。高価な「〇〇守」を冠したからといって、決して上手ばかりではないのだ。受領名は、技量が高くて信任が厚いという意味ではまったくなく、それを買える財力のある安定した経営であり、信用ある工房だとアピールする販促材のようなものだ。
 この受領商売のせいで、奥州中村藩の刀匠である正友が摂津守を名のり、摂津大坂の刀匠である津田助廣が越前守を名のるという、受領名と受領者の居住地がまったくバラバラで一致せず、ややこしい状態になっている。また、朝廷+公家による受領名ビジネスは刀鍛冶に限らず、さまざまな工芸分野にも販路を拡大しているので、刀工と金工で受領名がかぶるなど、よけいにわけのわからない混乱した状況となっていった。
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 中村相馬藩で鍛刀していた「國貞」だが、同時代の「國貞」には大坂の高名な和泉守國貞(親國貞)をはじめ、2代・和泉守國貞(井上真改)とその後代がいるが、いずれも新刀期の独自な錵(にえ)本位の相州伝を基盤にしてはいるものの、大坂の國貞一派は末代まで同地を動かずにいたとみられ、また地肌や刃文など鍛刀の技術や手法を観察すると、両者は明らかに異なっている。すると、中村相馬藩の「國貞」はどこからきたのか?……というのが、わたしの先年から抱えつづけていたテーマだったのだ。
 とりあえず関東や関西の「國貞」を調べていったが、それらしい刀鍛冶一派が見つからず、眼を中村相馬藩の周辺に移したとき、会津藩に「國定」一派がいることに気がついた。会津藩の抱え刀匠といえば、幕末までつつく「会津乕徹(虎徹Click!)」といわれた三善長道一派や、先祖が美濃関の出自である兼定一派があまりにも有名だが、同じ藩工の刀鍛冶に河内大掾を代々受領している比較的地味な「國定」がいる。初代の國定は、本名を古川孫大夫といい、同じ会津藩工の3代・兼定(入道兼定=古川孫右衛門)の弟だ。
 この会津藩工の國定について詳しく調べていくと、それぞれ鍛刀しはじめた若いころの初銘が「國定」ではなく、代々「國貞」と切っていたことが判明した。また、初銘の「國貞」は親の跡を継いで工房を引き継ぐと同時に、会津の藩工として「國定」の銘を切りはじめている。相馬中村藩の藩工だった「國貞」は、宝永年間あたりに作品を残しているが、この数代はつづく会津「國定」のうち、年代的に一致するのは3代「國定」だろう。この3代・國定が、会津から中村にやってきて修業がてら鍛刀し、初銘の「國貞」銘を切っていたのではないか。その上出来な評判が相馬家の耳に入り、しばらくは藩工に抜擢され城下の中村に屋敷と工房を与えられて鍛刀していたが、親の國定が年老いて引退するのでその跡を継ぐために、会津の工房へともどっているのではないだろうか。
 中村相馬藩の“謎”の藩工「國貞」と会津藩の代々つづく藩工の「國定」一派とでは、鍛刀の造りや流派がなぜか近似している。また、茎(なかご)に切られた銘でかぶる「國」の字体を比較してみると、会津藩の代々「國定」と中村相馬藩の「國貞」は微妙に異なっているが、刀工が銘を変更するときに鏨(たがね)使いを変化させるのはありがちなこと……などなど、そんな想像をしていた矢先に、なんと会津藩工の「河内大掾藤原國定」の脇指そのものをお譲りいただけたというしだいだ。
 本脇指は、江戸初期に鍛刀された初代・國定(古川孫大夫)の銘が切られており、日刀保が規定するとおりきわめて貴重な文化財だろう。これから、時間のあるときにより深く研究してみたい「國定」(会津)-「國貞」(中村)と、相馬邸武具蔵の収蔵品のテーマなのだ。
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 戦前、御留山の相馬邸で祭礼時に公開されていた武具蔵だが、どのような作品が並べられ展示されていたのか、興味はつきない。房州千葉→相州鎌倉→奥州中村と、900年余にもわたり武家の館(江戸期は城)をかまえてきた相馬家の武具蔵には、ひょっとすると埋忠明寿をはじめとする新刀期の作品ばかりでなく、鎌倉期の相州伝を代表する刀匠たちの作品群も混じっていたのではないかと思うと、蔵内の収蔵品リストか写真でも現存していれば拝見してみたいものだ。最後にもうひとつ余談だが、会津藩の武具蔵には「会津新藤五」と愛称で呼ばれる、正宗の師匠格にあたる鎌倉刀匠の新藤五國光(銘:國光/国宝)が眠っていた。

◆写真上:会津藩の藩工だった、初代・河内大掾藤原國定(古川孫大夫)の茎(なかご)銘。
◆写真中上は、御留山に建っていた相馬邸の玄関(手前)脇にあった巨大な蔵。黒門Click!の東側に位置して建つ、奥に見える蔵が武具蔵だろうか。は、御留山の相馬邸敷地に建つ同家の氏神である太素社(妙見社)。は、上から順に、中村藩相馬家に唯一保存されていた不動明王の彫りが美しい埋忠明寿の太刀(京都国立博物館蔵/重文)、相馬藩の藩工で寛文年間に制作された正友入道の茎、幕末(新々刀期)の相馬藩藩工だった慶心斎直正の大刀体配、忽然と姿を消したように見える相馬藩藩工の國貞が制作した脇指の体配、同じく相馬藩の國貞が切った茎銘、同じく相馬藩の國貞が焼いた相伝刃文。
◆写真中下は、相馬藩の國貞に近似する会津藩工の初代・河内大掾藤原國定による鵜の首造りの豪壮な体配。大刀よりも身幅がかなり広く、2尺を切る長さとはいえ大刀と重量は変わらない。同じくからへ、同刀匠の刃文と大鋩。会津の國定(初銘:國貞)は、初代から後代まで近似した地肌や刃文であり、相馬藩の國貞との関連が興味深い。
◆写真下は、会津藩の藩工を代表する政長(のちの三好長道の初銘)。からへ、通称「会津乕徹(虎徹)」で有名な三善長道の茎銘、会津藩を代表する和泉守兼定の茎銘、幕末(新々刀期)に会津藩の藩工だった道辰と道守のそれぞれ茎に切られた銘と大刀の体配。
おまけ
「会津新藤五」の愛称で知られる、鎌倉相州伝を代表する新藤五國光の短刀(国宝)。
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