落合地域や長崎地域、高田地域などの周辺域には、明治後期から昭和初期にかけ「東京牧場」Click!と呼ばれた、たくさんの乳牛牧場が存在していた。落合地域では、上落合429番地一帯にあった福室軒牧場Click!、葛ヶ谷374番地(のち西落合1丁目374番地)にあった斎藤牧場Click!、そして上落合と上高田の境界にあたる上落合(2丁目)882番地にあった牧成社牧場Click!の3ヶ所が現在まで確認できる。
この中で、戦争をはさむ1940年代まで事業を継続していたのは、当時は有名だった「キング牛乳」の加工を引き受けていたとみられる上落合の牧成社牧場だが、戦時中は乳牛Click!だけでなく馬(軍馬)の飼育も行われていたことを、上落合の古い住民の方からうかがっている。1930年代になると、上落合には住宅が密に建ち並ぶようになり、風向きで牧成社牧場から漂ってくる家畜の臭気が住宅街に流れこんで、何度か立ち退き問題にまで発展していることも取材させていただいた。
これら住宅街に近接した「東京牧場」Click!は、大正末から昭和初期にかけて、さらに郊外域へと次々に移転している。上記のように関東大震災Click!の影響から、建物が稠密な東京の市街地から郊外へ市民の移動が急増するにつれ、住宅街の中に取り残されていく牧場には、臭気や衛生の課題から白い眼が向けられるようになっていった。
また、警視庁による牛乳の衛生管理Click!が厳しくなるにつれ、より郊外への移転を断念し廃業した牧場も少なくない。行政による衛生管理規制では、牛が十分に運動できる広々とした敷地が求められ、より広い土地を確保できない面積の狭い牧場は廃業に追いこまれている。当時の様子を、1990年(平成2)に発行された「ミルク色の残像」展図録(豊島区立郷土資料館)から引用してみよう。
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一九〇〇(明治三三)年には、警視庁から「牛乳営業取締に関する施行規則」が公布され、牧場経営者は「公衆衛生」を軸にした国家の統制の下で、搾乳と販売を行わなければならなくなった。包装容器の標示や営業者の定義と許可、病気にかかった乳牛の規制や搾乳所の規制などが定められ、特にその後、搾乳所の構造を規定し運動場の設置を義務づけるなどの条件が付けられ、狭い市内では経営が立ち行かず、大部分の牧場が市外へ移転していく。明確なデータは提示できないものの、当時全くの郊外であった豊島区地域における牧場の数も、この時期を前後して上昇していくようである。
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上気の記述は、そのまま落合地域にも重ねて当てはまるだろう。この衛生管理の厳しさは、以前、守山商会Click!の牧場経営にからめて神奈川県の事例でご紹介しているが、東京でも事情はまったく同じだった。
当時、牛乳による食中毒の防止を名目に、各自治体や警視庁衛生部が次々と厳しい規制による管理・監督強化を実施しているが、これは裏返せば十分な衛生設備へ資本を投下できる大規模な乳製品企業による中小牧場の統合・吸収、ないしは中小牧場への事業つぶしとみごとにシンクロしている。現存する大手乳製品企業の多くは、警視庁や自治体による中小搾乳牧場への規制強化と比例して、急速に成長・発展をとげている。
やがて、東京郊外だった現在の豊島区や淀橋区(現・新宿区の一部)の市街地化が進んでくると、街中になりつつあった牧場は事実上追いだされ、より地価が安く広い「運動場」を確保できる外周域へと移転していった。その跡地は、大手ディベロッパーや地元の開発業者が入り、新たな分譲住宅地として販売されているケースが多い。
さて、落合地域とは道路1本隔てるだけで隣接していた、北豊島郡長崎村五郎窪4277番地(現・南長崎6丁目9番地)の籾山牧場Click!について、かなり以前に記事を書いてご紹介している。そして、籾山英次という人が経営していた、同牧場の写真をようやく手に入れることができた。(冒頭写真) 同牧場が記念絵はがきになっているのは、ずいぶん以前から知っていたが、なかなか現物に出あえなかったのだ。
籾山牧場は、東京市内で牛乳の需要が急増した明治後期から、大正末あるいは昭和の最初期まで営業していたとみられ、1928年(昭和3)ごろに「籾山分譲地」として宅地開発・販売されている。ただし、この時点で販売されているのは、牧場全体の北西部にあたる籾山牧場の本社屋が建っていた区画であり、全面積の約50%ほどだった。つまり、牛舎や運動場があった残り南東部の広い区画は、牧草地ともどもそのままの状態がつづくので、ひょっとすると昭和に入ってからも規模を縮小して乳牛が飼育されていたか、あるいは乳牛の繁殖所ないしは品種改良所として機能していたのかもしれない。
文字どおり、「牧歌的」な住宅地だった籾山分譲地は30の区画に分割され、面積は100坪前後から最大472坪までの敷地が販売されている。1928年(昭和3)の販売開始と同時に、すでに4区画が売約済みになっているので、同牧場の住宅地はかなり注目されていたようだ。武蔵野鉄道の東長崎駅まで徒歩5分という好立地も、人気が高かった要因だろう。籾山分譲地のパンフレットについて、1996年(平成8)に発行された「長崎村物語」展図録(豊島区立郷土資料館)のキャプションから引用してみよう。
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南長崎6丁目には、かつて籾山牧場という牧場があった。その牧場が住宅地として分離(ママ:分譲)されたときの案内パンフレットである。発行年の記載はないが、分譲地の一角(ママ:一画)を購入した方のお話から、1928年(昭和3)年頃の発行と推定される。パンフレットは三つ折り。分譲の場所(「清戸道沿い」とある)、交通、設備等が記され、すでに売買済の区画に「済」の押印がある。表紙の図柄は緑色、分譲地一帯は田園風景で、そのなかに洋風の建物が見える。富士山が望見され、当地が東京郊外の住宅地として適地であることを宣伝している。(ママカッコ内引用者註)
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籾山牧場は、その敷地内に千川分水(落合分水Click!=葛ヶ谷分水)が流れており、その小流れを含む牧場の北西敷地が開発されている。その落合分水の様子は、冒頭の籾山牧場絵はがきの門手前、道路沿いにもとらえられている。
おそらく、大正前期に撮影されたとみられる絵はがきの写真だが、撮影された場所の特定はかなり容易だった。籾山牧場への入口(門)がとらえられた同写真は、明らかに逆光ぎみで撮影されており、北側から南方面を向いて写された可能性が高いことがわかる。すなわち、画面の正面または左寄りが南の方角ということになる。そして、1926年(大正15)に作成された「長崎町西部事情明細図」を参照すると、籾山牧場への入口の記号は、北側の清戸道に面して3ヶ所あることがわかる。
その入口のうち、いちばん西寄りにあるのが籾山牧場株式会社の本社屋への入口であり、いちばん東寄りにあるのが牛を放牧する牧草地への入口だ。その真ん中にあるのが、おそらく牧場の関係者宅なのだろう、門から向かって右手に小川幸次郎邸が建っている入口だ。したがって、絵はがきの写真は籾山牧場への入口の中央門を撮影したものだろう。
門を入って、写真の右手に写っているのが小川幸次郎邸だとみられる。そして、写真の左手つまり東側一帯には、籾山牧場の広い牧草地(運動場)が拡がっていることになる。その写真部分を拡大してみると、乳牛らしい姿が何頭かとらえられているのが見える。そして、門の手前に小さな橋が架かっているが、その下を流れているのが直角に折れた千川上水Click!から分岐したばかりの落合分水(葛ヶ谷分水)の小流れだ。この門のある位置から見える奥の敷地は、のちに籾山分譲地として販売される一帯の土地だ。
昭和初期、牧草地の隣りに赤や青の屋根を載せた西洋館が建ち並ぶ風情は、のどかで美しい眺めだったろう。籾山牧場の周辺は、戦争による絨毯爆撃を受けていないので、西落合と同様に昭和初期に建てられた近代建築の住宅を、いまでも目にすることができる。
◆写真上:大正前期の撮影とみられる、「東京府北豊島郡長崎村籾山牧場」絵はがき。
◆写真中上:上は、1910年(明治43)に作成された1/10,000地形図にみる籾山牧場。中は、1926年(大正15)の「長崎町西部事情明細図」にみる同牧場。下の2枚は、絵はがきに写る小川幸次郎邸とみられる住宅と、牧草地に放牧されている牛たちの拡大。
◆写真中下:上の4枚は、1928年(昭和3)ごろに作成された「籾山分譲地」案内パンフレット。下の3枚は、同分譲地に残る昭和初期に建設された西洋館いろいろ。
◆写真下:上は、西落合1丁目306番地(のち303番地)にアトリエがあった鬼頭鍋三郎Click!のデッサン『牛』(1932年)。松下春雄アトリエClick!に残された作品で、近くの籾山牧場での写生と思われる。中上は、下落合1599番地にアトリエがあった江藤純平Click!『牛』。中下は、1928年(昭和3)夏に下落合2108番地の吉屋信子Click!が下落合2143番地あたりで撮影した木陰の乳牛。西武線の際なので、おそらく上落合の牧成社牧場に関係している乳牛だろう。下は、同じく1928年(昭和3)に描かれた長谷川利行Click!『朝霞のなかの牛』。