ずいぶん前に、早稲田大学キャンパスの南側にあった富塚古墳(高田富士)Click!を記事にしたとき、大隈重信邸Click!の庭にあった瓢箪型の突起について触れたことがある。戦前の学界では、「瓢箪型古墳」と呼ばれていた前方後円墳Click!だが、大名家や華族、おカネ持ちの庭園に古墳が崩されずそのまま残され、回遊式庭園の築山として活用されていたケースを、これまで拙サイトでも何度か取りあげてきている。
たとえば、江戸期には土岐美濃守下屋敷の庭園築山にされ、明治以降は華頂宮邸の庭にそのまま残された亀塚古墳Click!をはじめ、水戸徳川家上屋敷の庭園(後楽園)に築山として残され、大正期に鳥居龍蔵の調査で古墳であることが判明した小町塚古墳、江戸期には松平摂津守下屋敷の庭園築山にされ、明治以降は「津ノ守山」と呼ばれ公園のようになっていた新宿角筈古墳(仮)Click!、大名屋敷ではないが寛永寺Click!境内に一時は五条天神社や清水観音堂が建立されたあと、築山のまま境内に残された上野摺鉢山古墳Click!、尾張徳川家の下屋敷庭園にされていた戸山ヶ原Click!から、羨道や玄室と思われる洞穴が出現し「阿弥陀ヶ洞」(洞阿弥陀)Click!にされていた事例や、隣接する洞穴だらけの高田八幡(穴八幡)Click!……などなど、例をあげれば十指にあまるだろう。
冒頭の写真は、大隈重信邸の回遊式庭園にあったおそらく瓢箪型の突起の前で、1892年(明治25)ごろに撮影されたとみられるめずらしい記念写真だ。大隈重信Click!を中心に、東京専門学校(のち早稲田大学)の教師陣Click!を撮影したものだが、その背後に見えている小高い突起が大隈庭園の南東寄りにあった瓢箪型の突起地形だと思われる。もともと、明治期の大隈庭園には大小の築山がみられるが、これらが大隈邸の建設時に築山として造成されたものか、それとも元をたどれば松平讃岐守の高松藩下屋敷だった敷地なので、その庭園にあった築山をそのまま活かしたものか、正確には規定できない。
ただし、松平家の庭をそのまま活用しているらしいことは、園内に江戸期よりあった茶室を改修している資料が見えるので、敷地の随所に見える突起地形(築山)や庭をめぐる小径も、おそらく当初のままなのだろう。それらの小丘には、それぞれ江戸期からつづいているとみられる、「天神山」Click!「地蔵山」「稲荷山」「躑躅山」「紅葉山」などの名称があったことも記録されている。これらの名称は、このサイトをつづけてお読みの方々なら、すぐに古墳地名がいくつか混じっていることにお気づきだろう。また、昌蓮Click!が「百八塚」Click!に奉った祠と重ね合わせ、いくつかの「山」が昌蓮伝説の「百八塚」に含まれていたのではないか?……と想像される方もいるかもしれない。
大隈邸の庭園の様子を、1931年(昭和6)に戸塚町誌刊行会から出版された『戸塚町誌』より引用してみよう。ちなみに、ここに描写された大隈庭園の風情は、大隈邸を含め戦災で焼けていないため、明治期とそれほど大きくは変わっていないとみられる。
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同所は旧高松藩主松平讃岐守の下邸にて維新後松本病院、英学校等の敷地となり、明治七年侯の所有に帰した、(中略) こゝを過ぎて大書院前に出ずれば、此の庭園の中心とも云ふべく四辺の風趣、真に天下の名園たるに反かざるを味ふ、仰げば地蔵山の老松は清流の上に蟠屈し、寒竹は山の裾を這ふて居る具合は正に一幅の絵画である、大書院に続いて侯の居間があり、其の北方に洋館の寝室がある(、)其れより十字路に出て小逕を西にすれば侯の母堂が居られた、後に久満子刀自の住まれた室、現侯爵夫人の居室に当てられた部屋及び小供室がある、こゝより天神山に出づる路に松見の茶屋がある、亭は松平家時代のものに侯が改築された茶室にて、瀟洒淡雅、常に外客を引見して国風の特色を示された(、)天神山には大隈家の祖先たる菅公廟がある、次いで稲荷山、躑躅山、地蔵山、紅葉山等、優麗清爽、閑雅幽寂なる景致を展べて、一日の清遊を楽むに充分である、(カッコ内引用者註)
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文中に「松本病院」とあるのは、松本順Click!が開業した「蘭疇医院」Click!のことだ。
多彩な「山」名が登場するが、大隈邸の北東側にある高めの小丘が「天神山」(現在はリーガロイヤルホテルの下)、池の東側にあるのが「地蔵山」(現在は大半が大学51号館の下)、そして南の瓢箪型をしたいちばん大きな「山」が、明治期から現在まで「紅葉山」と呼ばれていることが判明している。ただし、「稲荷山」と「躑躅山」が、残る突起地形のどちらを指すのかは、資料が見つからないので曖昧なままだ。
1886年(明治19)に発行された1/5,000地形図に、はっきりと瓢箪型に採取された突起地形「紅葉山」のことを、大隈邸の建設以前(あるいは松平邸以前)からあった古墳ではないかと疑うのは、隣接して富塚古墳Click!(江戸後期には高田富士Click!にされていた)が存在すること、室町期からつづく昌蓮による「百八塚」の伝承が生まれた、大隈邸の門前に位置する宝泉寺の地元であること、このエリアは古くから戸塚地域(下戸塚村)と呼ばれているが、古い文献には「十塚」という漢字を当てはめた地名音が採取されていること、周辺の田畑開墾で出土した古墳の副葬品とみられる遺物が、付近の寺社に奉納されているエピソードClick!が多いこと……などなどの状況証拠からだ。
さて、冒頭に掲載した東京専門学校の教職員たちが写る記念写真は、大隈邸の庭のどこで撮られたものだろうか。教員の中に夏目漱石Click!の姿が見られるので、1892年(明治25年)5月以降の撮影であることがわかる。この時期、夏目漱石は学費を稼ぐために、いくつかの学校で英語教師のかけもちアルバイトをしている。撮影は曇天の日和りだったものか、画面にクッキリとした陰影は見られないが、光線の加減からカメラマンの背後、または左手が南側のようだ。そう考えると、瓢箪型をした突起地形「紅葉山」の東側に、かっこうの撮影ポイントを見つけることができる。
ちょうど、庭園の小径が左へとカーブし「紅葉山」の麓にあたる東側に、広場のようなスペースの芝庭が造成されていたあたりだ。カメラマンは、早稲田に拡がる田圃を背後に、西北西を向いてシャッターを切っていることになる。したがって、教職員たちの背後にとらえられた小丘は、「紅葉山」の瓢箪型地形から類推すると前方部が北を、後円部が南を向いているように見えるので、前方部の一部が写っていることになりそうだ。
記念写真のうしろ2列の人々は、写真館がセッティングした台の上に登っているとみられるので、前から2列目の地面に立っている人物の身長や、背後に写る小丘との距離を考慮すると、その高さはおよそ5~6mほどになるだろうか。もっとも、この突起状の地形が当初からまったく手を加えられず、そのままの姿で残されていたとは考えにくく、土岐美濃守下屋敷の亀塚古墳や、水戸徳川家上屋敷(後楽園)の小町塚古墳がそうであったように、造園師によって庭園の築山に見あうような形状に整えられた可能性を否定できない。瓢箪型の「紅葉山」全体を前方後円墳ととらえれば、そのサイズから想定できる前方部の高さは、もう少しあってもいいような感触があるからだ。
「紅葉山」全体を南北に計測すると、およそ100m弱ほどの瓢箪型突起になりそうだ。上野公園にかろうじて残された摺鉢山古墳(残滓)の現状、あるいは多摩川沿いの野毛大塚古墳Click!などとほぼ同程度のサイズだが、そのケーススタディにしたがえば後円部の直径は70~80m、墳頂の高さは10m超ほどあったのではないだろうか。もっとも、大隈邸の庭園にする際、芝丸山古墳Click!や新宿角筈古墳(仮)のケースがそうであったように、後円部の墳頂を崩して平らにならし、前方部と同様の高さに整地しているのかもしれない。
この瓢箪型の「紅葉山」は、かなり早い時期から崩されているとみられる。特に後円部は大学正門通り(早大通り)が敷設された1900年代の初期には消滅しており、早大通りと北側の沿道に並ぶ建物(商店街だろうか)の下になっている。そして、大正期に入ると古い大学講堂のリニューアルが計画されるが、関東大震災Click!で一度中断し、1927年(昭和2)になってようやく正門の正面に大隈記念講堂Click!が竣工している。現在は、瓢箪型の後円部が早大通りと大隈講堂の一部南東隅の真下に、前方部の大半は大隈講堂と大隈ガーデンハウスカフェテリア、さらに大隈講堂裏劇研アトリエの下になっているのではないかとみられる。
大隈庭園を散策すると、現在でも「紅葉山」の一部が残されていることに気づく。古墳でいうなら、前方部の北側にあたる部分だ。実際に丘上に立ってみると、5~6mではきかないかもしれない。後円部を崩す際に、その土砂を新たに前方部へ盛ったものだろうか。
◆写真上:1892年(明治25)ごろに撮影された、東京専門学校の教職員記念写真。
◆写真中上:上は、水戸徳川家上屋敷(後楽園)にある小町塚古墳。中は、明治初年に撮影された後楽園の同古墳(左手の山)。下は、現在まで残された紅葉山の山頂部。古墳だったとすれば、前方部の北端の一部が残されていることになる。
◆写真中下:上・中は、1886年(明治19)に作成された1/5,000地形図にみる大隈邸敷地の突起地形。同邸の庭園ばかりでなく、周辺には円形の突起物が数多く採取されている。下は、1910年(明治43)の1/5,000地形図にみる大隈邸。早稲田大学の専門前から東へ伸びる、のちの早大通りや沿道の建物が建設され、紅葉山の大半が破壊されている。
◆写真下:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる紅葉山があったあたり。中は、1974年(昭和49)の早朝に撮影された後円部があったあたりの早大通り。下は、現在の大隈庭園の北側から眺めた紅葉山の残滓(左側の樹木が繁る丘一帯が紅葉山の北端)。