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Clik here to view.![平塚運一「落合点描」1935.jpg]()
きょう取りあげる画面は、落合地域の作品ではあるけれど、描画場所は下落合ではない。西落合1丁目157番地(現・西落合3丁目)の平塚運一Click!アトリエの西側から眺める、荒玉水道Click!のために建設された野方配水搭Click!だ。以前、平塚運一による同配水搭のスケッチ『野方配水搭』はすでにご紹介Click!(オルタネイトテイクページClick!)しているが、今回の画面は新宿歴史博物館に保存されている黒白の木版画作品だ。『落合点描』とタイトルされた同版画は、1935年(昭和10)に制作されている。
この作品と非常に近似した画面は、尾形亀之助Click!『美しき街』の挿画として採用された、松本竣介によるスケッチ画Click!でも見ることができる。松本竣介が、塔の階段が通う採光窓を旧・街道筋あたりからほぼ真正面にとらえて描いているのに対し、平塚運一の画角はやや北寄りだ。手前には、耕地整理が済んだとみられる敷地に新築の住宅が建ち、その手前には旧・葛ヶ谷時代(1932年より西落合)から変わらない畑地が拡がっている。
東京35区Click!時代を迎えた1932年(昭和7)、淀橋区Click!(現・新宿区の一部)が成立するとともに葛ヶ谷地域は西落合へと地名を変更しているが、ちょうど新区制の施行と同年に描かれた平塚運一によるスケッチ『野方配水搭』もまた、やや北寄りの位置から野方配水搭を眺めているような雰囲気だ。同スケッチは、かなり遠景に配水搭がとらえられており、おそらく自身のアトリエ付近から西を向いて描いたものと思われる。同スケッチの3年後、1935年(昭和10)に制作されたのが、冒頭に掲載した配水搭の木版画『落合点描』だ。
葛ヶ谷(西落合)地域の耕地整理は、1925年(大正14)8月に葛ヶ谷耕地整理組合の設立とともにスタートし、新区制が施行された1932年(昭和7)にはいちおう結了しているが、組合自体は残務整理のために同年以降も活動をつづけている。当時の様子を、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
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葛ヶ谷に於ける耕地整理事業は大正十四年八月、地元有志貫井栄次郎、岩崎熊太郎、増田平五郎、岩崎仲次郎、岩崎傳五郎、鈴木七左衛門氏の発起によりて設立され、葛ヶ谷及び下落合大上、長崎町の一部旧田畑山林宅地広表七十一町二反九畝十二歩を一丸として、正しき道路系統の上に、理想的住宅地を編成したるものである。経費金七万余円、組合長は初代に川村辰三郎氏次いで岩崎熊太郎氏其衝に就き、現時副組合長荒川角次郎氏組合長代理として残務に従事す。
▲
下落合エリアや長崎町側への葛ヶ谷飛び地も含め、葛ヶ谷のみの耕地整理といっても、当時の町長だった川村辰三郎Click!が初代組合長をつとめているのを見れば、落合町をあげての大がかりな事業だったことがわかる。
また、葛ヶ谷エリアの耕地整理は、下落合や上落合に比べて遅かったため、東側と北側に接する長崎村(1926年より長崎町)のほうが、1922年(大正11)より耕地整理がスタートしていたので事業が進捗していた。そこで、長崎村(町)の第一・第二耕地整理組合による整理事業の進め方をケーススタディとして参考にし、葛ヶ谷地域へ適用していった記録が長崎側(豊島区)に残っている。
長崎地域は武蔵野鉄道(現・西武池袋線)が敷設され、東長崎駅(1915年開設)や椎名町駅(1924年開設)が設置されていたせいで、早くから耕地整理が行われていた。長崎地域の整理事業を参考にしたせいか、下落合や上落合のように古い街道や道筋をそのまま残すやり方ではなく、すなわち地主の所有地の形状を優先した耕地整理ではなく、住宅地の交通に便利なよう碁盤の目Click!のように整然とした直線道路が交差する、現代の宅地開発に見られるような耕地整理が実施された。同時に、葛ヶ谷の地名が西落合に変更されることになり、おそらく落合地域としての一体感も増していったのではないだろうか。
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Clik here to view.![平塚運一「駒沢村風景」1924.jpg]()
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Clik here to view.![野方配水搭1936.jpg]()
また、自宅の住所に「くず」という音が入るのを嫌った住民もいたと思われるが、葛ヶ谷Click!の地名は鎌倉期からの“鎌倉地名”相似だと考えているわたしは、やすやすと葛ヶ谷地名を変更したのにはちょっと惜しい気がする。葛ヶ谷に隣接する和田山Click!には、和田氏Click!の館があったという伝承が色濃く残る土地柄なので、鎌倉(幕府)との結びつきが強い地域だったのではないかと考えるからだ。葛ヶ谷から西落合への耕地整理で、改めて落合町の総面積は3,223km2となった。
さて、平塚運一の『落合点描』から葛ヶ谷の耕地整理へとスライドしてしまったので、野方配水搭の画面にもどろう。『落合点描』が制作された1935年(昭和10)前後の数年間は、平塚運一にとってかなり多忙な時期だったとみられる。1930年(昭和5)には、国画会の絵画部会員に選ばれ、翌1931年(昭和6)には国画会に版画部会が創設されて運営を任されている。また、同年には葛ヶ谷37番地(のち西落合1丁目)に住む料治熊太Click!と交流し、白と黒社から刊行されていた「版芸術」にたびたび寄稿している。また、梅原龍三郎Click!の版画『裸婦十題』の制作に協力したり、安井曾太郎Click!の版画『果物』『椅子に倚る女』をサポートしたのもこのころのことだ。
その間、織田一磨Click!らとの共著『創作版画の作り方』(崇文堂出版)を刊行したり、平塚運一の個人誌である「版画研究」創刊号を発行したりしている。さらに、1933年(昭和8)には料治熊太Click!から会津八一Click!を紹介され、蒐集していた武蔵国分寺跡の膨大な古瓦研究Click!や書道研究についての指導を受けた。翌1934年(昭和9)には、会津八一Click!や料治熊太の協力で限定50部の『国分寺古瓦拓本集』(私家版)を刊行、つづけて綜合美術研究所から『新しい創作版画の作り方』を出版している。そして、『落合点描』が制作された1935年(昭和10)には、東京美術学校Click!に版画教室が新設され、木版画担当の教師に就任している。また、同年は朝鮮にも旅行している。
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Clik here to view.![平塚運一「野方水道塔1932.jpg]()
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Clik here to view.![松本竣介「配水塔」.jpg]()
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Clik here to view.![平塚運一「落合点描」拡大.jpg]()
このように、平塚運一にとってはかなり多忙な、また反面とても充実した仕事の連続の中で、『落合点描』は制作されていることになる。「版画研究」の編集・出版をはじめ、国画会の部会活動や東京美術学校の教職などの仕事に追われ、精神的にもかなり疲弊していたのかもしれない。自邸の窓から、アトリエの庭先から、あるいは自邸近くの道端から眺められる野方配水搭を目にして、ふと気分転換に再び描いてみたくなったものだろうか。
1932年(昭和7)のスケッチとは異なり、平塚運一は野方配水搭へかなり近づいてとらえている。西落合1丁目157番地の平塚アトリエから、野方配水搭までは直線距離で約430mほどあり、スケッチ『野方配水搭』(1932年)が平塚アトリエの近辺だとすれば、『落合点描』(1935年)は200mほど配水搭へ近づいていることになる。以前にご紹介した斎藤牧場Click!の、放牧地の南端から南東方向へ100mほど下がった地点で、平塚はスケッチブックを広げているのではないかとみられる。
そして、平塚運一はなぜか、野方配水搭を実際のフォルムよりもかなり細長くデフォルメしてとらえている。絵画表現と精神分析の領域には無知だが、さまざまな役職で多忙な平塚運一の、より高みの次元へ向けた制作意欲の昂揚感、あるいはさまざまな時間的制約に束縛されず、さらにノビノビと自由に制作したい創作意欲の表れのようなニュアンスを、空へ極端に突出した配水搭の画面から、そこはか感じとれやしないだろうか。事実、気分転換のためか『落合点描』の同年には、朝鮮を遊歴する旅に出発している。
戦後、1962年(昭和37)から平塚運一は米国で暮らしているので、日本国内よりも米国での知名度のほうが高い。1945年(昭和20)の敗戦で、日本が連合国軍に占領されるのと同時に、創作版画で世界的に有名だった下落合2丁目667番地(現・中落合2丁目)の吉田博アトリエClick!には、マッカーサー夫人をはじめ欧米の兵士や家族たちが集まって版画を習ったり、GHQの軍属が「観光バス」を連ねて版画制作を見学しにきたりしていたのと同様に、創作版画への関心は国内よりもむしろ海外のほうが圧倒的に高かった。それは、江戸の浮世絵に対する関心の高さから継続している、欧米における一貫した日本美術への眼差しなのだろう。平塚運一もまた、米国では数多くの弟子たちを抱え、木版画の技法を教えている。
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タイトルの『落合点描』だが、どこか落合地域をとらえた別の「点描」シリーズがあるのではと期待してしまう。平塚運一が発行していた版画誌「版画研究」や、料治熊太が刊行していた「版芸術」の誌面には、地元の落合地域を描いた版画作品が掲載されているのかもしれないのだが、膨大な作品を残している平塚運一なのでいまだ発見できないでいる。
◆写真上:1935年(昭和10)に制作された、平塚運一の木版画『落合点描』。
◆写真中上:上は、1933年(昭和8)に西落合1丁目37番地の料治熊太邸における記念写真。背後には面白い人形や、アイヌ民族の太刀(エムシュ=emus)のようなものが見えて興味深い。中は、1924年(大正13)制作の平塚運一『駒沢村風景』(上)と1931年(昭和6)制作の『代々木風景』(下)。下は、1936年(昭和11)の空中写真で想定する描画ポイント。
◆写真中下:上は、野方配水搭が竣工して間もないころの1932年(昭和7)にスケッチされた平塚運一『野方配水塔』。中は、尾形亀之助の作品に挿画として採用された松本竣介『配水搭』(制作年不詳)。下は、1931年(昭和6)の竣工直後に撮影された野方配水搭(左)と『落合点描』(部分/右)の比較。実物に比べ、明らかに配水搭が細身に描かれている。
◆写真下:上は、配水搭の基礎工事。中は、クレーンや足場が撤去される直前の竣工間近な配水搭。下は、西落合1丁目157番地にあった平塚運一のアトリエ跡(左手)。
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きょう取りあげる画面は、落合地域の作品ではあるけれど、描画場所は下落合ではない。西落合1丁目157番地(現・西落合3丁目)の平塚運一Click!アトリエの西側から眺める、荒玉水道Click!のために建設された野方配水搭Click!だ。以前、平塚運一による同配水搭のスケッチ『野方配水搭』はすでにご紹介Click!(オルタネイトテイクページClick!)しているが、今回の画面は新宿歴史博物館に保存されている黒白の木版画作品だ。『落合点描』とタイトルされた同版画は、1935年(昭和10)に制作されている。
この作品と非常に近似した画面は、尾形亀之助Click!『美しき街』の挿画として採用された、松本竣介によるスケッチ画Click!でも見ることができる。松本竣介が、塔の階段が通う採光窓を旧・街道筋あたりからほぼ真正面にとらえて描いているのに対し、平塚運一の画角はやや北寄りだ。手前には、耕地整理が済んだとみられる敷地に新築の住宅が建ち、その手前には旧・葛ヶ谷時代(1932年より西落合)から変わらない畑地が拡がっている。
東京35区Click!時代を迎えた1932年(昭和7)、淀橋区Click!(現・新宿区の一部)が成立するとともに葛ヶ谷地域は西落合へと地名を変更しているが、ちょうど新区制の施行と同年に描かれた平塚運一によるスケッチ『野方配水搭』もまた、やや北寄りの位置から野方配水搭を眺めているような雰囲気だ。同スケッチは、かなり遠景に配水搭がとらえられており、おそらく自身のアトリエ付近から西を向いて描いたものと思われる。同スケッチの3年後、1935年(昭和10)に制作されたのが、冒頭に掲載した配水搭の木版画『落合点描』だ。
葛ヶ谷(西落合)地域の耕地整理は、1925年(大正14)8月に葛ヶ谷耕地整理組合の設立とともにスタートし、新区制が施行された1932年(昭和7)にはいちおう結了しているが、組合自体は残務整理のために同年以降も活動をつづけている。当時の様子を、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
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葛ヶ谷に於ける耕地整理事業は大正十四年八月、地元有志貫井栄次郎、岩崎熊太郎、増田平五郎、岩崎仲次郎、岩崎傳五郎、鈴木七左衛門氏の発起によりて設立され、葛ヶ谷及び下落合大上、長崎町の一部旧田畑山林宅地広表七十一町二反九畝十二歩を一丸として、正しき道路系統の上に、理想的住宅地を編成したるものである。経費金七万余円、組合長は初代に川村辰三郎氏次いで岩崎熊太郎氏其衝に就き、現時副組合長荒川角次郎氏組合長代理として残務に従事す。
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下落合エリアや長崎町側への葛ヶ谷飛び地も含め、葛ヶ谷のみの耕地整理といっても、当時の町長だった川村辰三郎Click!が初代組合長をつとめているのを見れば、落合町をあげての大がかりな事業だったことがわかる。
また、葛ヶ谷エリアの耕地整理は、下落合や上落合に比べて遅かったため、東側と北側に接する長崎村(1926年より長崎町)のほうが、1922年(大正11)より耕地整理がスタートしていたので事業が進捗していた。そこで、長崎村(町)の第一・第二耕地整理組合による整理事業の進め方をケーススタディとして参考にし、葛ヶ谷地域へ適用していった記録が長崎側(豊島区)に残っている。
長崎地域は武蔵野鉄道(現・西武池袋線)が敷設され、東長崎駅(1915年開設)や椎名町駅(1924年開設)が設置されていたせいで、早くから耕地整理が行われていた。長崎地域の整理事業を参考にしたせいか、下落合や上落合のように古い街道や道筋をそのまま残すやり方ではなく、すなわち地主の所有地の形状を優先した耕地整理ではなく、住宅地の交通に便利なよう碁盤の目Click!のように整然とした直線道路が交差する、現代の宅地開発に見られるような耕地整理が実施された。同時に、葛ヶ谷の地名が西落合に変更されることになり、おそらく落合地域としての一体感も増していったのではないだろうか。
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また、自宅の住所に「くず」という音が入るのを嫌った住民もいたと思われるが、葛ヶ谷Click!の地名は鎌倉期からの“鎌倉地名”相似だと考えているわたしは、やすやすと葛ヶ谷地名を変更したのにはちょっと惜しい気がする。葛ヶ谷に隣接する和田山Click!には、和田氏Click!の館があったという伝承が色濃く残る土地柄なので、鎌倉(幕府)との結びつきが強い地域だったのではないかと考えるからだ。葛ヶ谷から西落合への耕地整理で、改めて落合町の総面積は3,223km2となった。
さて、平塚運一の『落合点描』から葛ヶ谷の耕地整理へとスライドしてしまったので、野方配水搭の画面にもどろう。『落合点描』が制作された1935年(昭和10)前後の数年間は、平塚運一にとってかなり多忙な時期だったとみられる。1930年(昭和5)には、国画会の絵画部会員に選ばれ、翌1931年(昭和6)には国画会に版画部会が創設されて運営を任されている。また、同年には葛ヶ谷37番地(のち西落合1丁目)に住む料治熊太Click!と交流し、白と黒社から刊行されていた「版芸術」にたびたび寄稿している。また、梅原龍三郎Click!の版画『裸婦十題』の制作に協力したり、安井曾太郎Click!の版画『果物』『椅子に倚る女』をサポートしたのもこのころのことだ。
その間、織田一磨Click!らとの共著『創作版画の作り方』(崇文堂出版)を刊行したり、平塚運一の個人誌である「版画研究」創刊号を発行したりしている。さらに、1933年(昭和8)には料治熊太Click!から会津八一Click!を紹介され、蒐集していた武蔵国分寺跡の膨大な古瓦研究Click!や書道研究についての指導を受けた。翌1934年(昭和9)には、会津八一Click!や料治熊太の協力で限定50部の『国分寺古瓦拓本集』(私家版)を刊行、つづけて綜合美術研究所から『新しい創作版画の作り方』を出版している。そして、『落合点描』が制作された1935年(昭和10)には、東京美術学校Click!に版画教室が新設され、木版画担当の教師に就任している。また、同年は朝鮮にも旅行している。
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このように、平塚運一にとってはかなり多忙な、また反面とても充実した仕事の連続の中で、『落合点描』は制作されていることになる。「版画研究」の編集・出版をはじめ、国画会の部会活動や東京美術学校の教職などの仕事に追われ、精神的にもかなり疲弊していたのかもしれない。自邸の窓から、アトリエの庭先から、あるいは自邸近くの道端から眺められる野方配水搭を目にして、ふと気分転換に再び描いてみたくなったものだろうか。
1932年(昭和7)のスケッチとは異なり、平塚運一は野方配水搭へかなり近づいてとらえている。西落合1丁目157番地の平塚アトリエから、野方配水搭までは直線距離で約430mほどあり、スケッチ『野方配水搭』(1932年)が平塚アトリエの近辺だとすれば、『落合点描』(1935年)は200mほど配水搭へ近づいていることになる。以前にご紹介した斎藤牧場Click!の、放牧地の南端から南東方向へ100mほど下がった地点で、平塚はスケッチブックを広げているのではないかとみられる。
そして、平塚運一はなぜか、野方配水搭を実際のフォルムよりもかなり細長くデフォルメしてとらえている。絵画表現と精神分析の領域には無知だが、さまざまな役職で多忙な平塚運一の、より高みの次元へ向けた制作意欲の昂揚感、あるいはさまざまな時間的制約に束縛されず、さらにノビノビと自由に制作したい創作意欲の表れのようなニュアンスを、空へ極端に突出した配水搭の画面から、そこはか感じとれやしないだろうか。事実、気分転換のためか『落合点描』の同年には、朝鮮を遊歴する旅に出発している。
戦後、1962年(昭和37)から平塚運一は米国で暮らしているので、日本国内よりも米国での知名度のほうが高い。1945年(昭和20)の敗戦で、日本が連合国軍に占領されるのと同時に、創作版画で世界的に有名だった下落合2丁目667番地(現・中落合2丁目)の吉田博アトリエClick!には、マッカーサー夫人をはじめ欧米の兵士や家族たちが集まって版画を習ったり、GHQの軍属が「観光バス」を連ねて版画制作を見学しにきたりしていたのと同様に、創作版画への関心は国内よりもむしろ海外のほうが圧倒的に高かった。それは、江戸の浮世絵に対する関心の高さから継続している、欧米における一貫した日本美術への眼差しなのだろう。平塚運一もまた、米国では数多くの弟子たちを抱え、木版画の技法を教えている。
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タイトルの『落合点描』だが、どこか落合地域をとらえた別の「点描」シリーズがあるのではと期待してしまう。平塚運一が発行していた版画誌「版画研究」や、料治熊太が刊行していた「版芸術」の誌面には、地元の落合地域を描いた版画作品が掲載されているのかもしれないのだが、膨大な作品を残している平塚運一なのでいまだ発見できないでいる。
◆写真上:1935年(昭和10)に制作された、平塚運一の木版画『落合点描』。
◆写真中上:上は、1933年(昭和8)に西落合1丁目37番地の料治熊太邸における記念写真。背後には面白い人形や、アイヌ民族の太刀(エムシュ=emus)のようなものが見えて興味深い。中は、1924年(大正13)制作の平塚運一『駒沢村風景』(上)と1931年(昭和6)制作の『代々木風景』(下)。下は、1936年(昭和11)の空中写真で想定する描画ポイント。
◆写真中下:上は、野方配水搭が竣工して間もないころの1932年(昭和7)にスケッチされた平塚運一『野方配水塔』。中は、尾形亀之助の作品に挿画として採用された松本竣介『配水搭』(制作年不詳)。下は、1931年(昭和6)の竣工直後に撮影された野方配水搭(左)と『落合点描』(部分/右)の比較。実物に比べ、明らかに配水搭が細身に描かれている。
◆写真下:上は、配水搭の基礎工事。中は、クレーンや足場が撤去される直前の竣工間近な配水搭。下は、西落合1丁目157番地にあった平塚運一のアトリエ跡(左手)。