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雑司ヶ谷金山の文藝春秋社(菊池寛邸Click!)で、「文藝春秋」の記者と菊池の秘書役をしていた大田洋子は、1928年(昭和3)に同社を辞めて故郷の広島に帰っている。故郷には、毎日新聞記者で妻子のある藤田某との苦い思い出があったが、帰郷ののち彼女は再び藤田との同棲生活をはじめ、藤田の離婚が成立すると正式に結婚している。
大田洋子が、せっかく入った文藝春秋社をなぜ辞めたのか父親に問われると、「菊池寛が夜這いに来たからやめた、小説家はいやらしい、だから文芸春秋社にはおれん」と話していたのを、実弟が記憶している。だが、文学に対する想いは日々募るばかりで、ついに藤田と離婚すると再び広島を出奔している。すぐに東京へはいかず、尾道や大阪でカフェのダンサーや女給をしながら作品を書きつづけている。そして、1929年(昭和4)に短篇『聖母のゐる黄昏』が、長谷川時雨Click!の「女人藝術」Click!に掲載された。
大田洋子は、昭和初期のブームになっていた「女給」という職業に目をつけ、自らの体験を「女給小説」というかたちで表現したかったのだろう。男性作家が「女給」をテーマに書く作品はいくらでもあったが、女性作家が自身の体験として描く「女給小説」は、いまだめずらしかった時代だ。佐多稲子Click!『キャラメル工場から』をはじめ、平林たい子Click!『施療室にて』、宇野千代Click!『脂粉の顔』、林芙美子Click!『放浪記』などが、新鮮な感覚とともに読まれていた時代だった。大田洋子は1930年(昭和5)、大阪でのカフェの仕事をやめて東京へ再びやってくる。
東京で彼女を出迎えたのは、長谷川時雨Click!をはじめ、小池みどり、熱田優子、生田花世Click!、小寺菊子ら「女人藝術」の面々だった。いつも不平不満を口にする(書く)大田洋子だが、この時代のことは懐かしい思い出とあたたかな雰囲気でしか表現していないところをみると、よほどメンバーたちからやさしく迎えられたのだろう。以降、大田洋子は「女人藝術」の常連メンバーになっていく。東京にやってきた当初は、とりあえず本郷にあった玄人下宿の2階に落ち着いている。
「女人藝術」の仲間と親しくなるにつれ、東京生まれの多い編集者たちよりも、むしろ外からやってきて苦労を重ねている同誌の作家たちと気が合った。武者小路実篤Click!の愛人だった下落合の真杉静枝Click!をはじめ、下落合1909番地の中井駅前で開業する医師・辻山義光Click!の妻だった劇作家の辻山春子Click!、同じく下落合1982番地の矢田津世子Click!、児童文学にも才能を発揮した田島準子、そして当時はいまだ尾崎翠Click!に紹介された上落合850番地の家に手塚緑敏Click!とともに暮らしていた林芙美子Click!らだった。また文芸春秋社時代から知己を得ていた横光利一や、下落合1712番地に建つ目白文化村Click!の邸宅に仮住まいをしていた片岡鉄兵Click!たちとの交流も復活している。
おそらく、落合地域に住んでいた作家たちに誘われたのだろう、1931年(昭和6)ごろ(一説には1933年)から、上落合(2丁目)545番地にあった梅田材木店の2階に間借りしている。場所的にいえば、上落合郵便局Click!の南裏手、落合第二尋常小学校Click!の教師・鹽野まさ子(塩野まさ子)邸Click!(上落合667番地)が建つ2軒南隣りの家であり、また1930年(昭和5)から新婚早々の上野壮夫Click!と小坂多喜子Click!が住んでいた借家のごく近くだ。
その時代に撮影されたものだろう、辻山春子を中心に左側に大田洋子が、右側に林芙美子が座る落合時代の記念写真が残っている。3人とも近所同士で、そろって「女人藝術」の執筆メンバーだった。中井駅前の下落合1909番地に建っていた、辻山春子の自宅(辻山医院)で撮られた1枚だと思われ、撮影者は夫の辻山義光だろうか。テーブルの上には大判の本が置かれているが、残念ながら題名は読みとれない。大田洋子と林芙美子は、辻山医院へ徒歩5分以内で着ける位置に住んでいた。
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大田洋子と矢田津世子、真杉静枝の3人は、このころから「美人」の女流作家として評判になり、なにかとゴシップを書きたてられた。大田洋子が、日本で初めてのボクシング試合を見にいっただけで、新聞に写真入りで紹介されたりする。このころは、なんらかの職業をもつ女性が「美人」というだけで、新聞や雑誌のネタ(餌食)になっていた時代で、それだけマスコミは「男の視点」のみで成立している時代だった。
このころから、大田洋子について妙なウワサが立ちはじめている。いわく、「大田洋子は、某雑誌の編集者といい仲だ」、「某新聞の某氏が毎晩、落合のうちに泊りにいく」、「作家の某ともできているそうだ」「某雑誌の社主が部屋から寝衣姿で出てきた」……といったたぐいの根拠のない流言だ。「男社会」だったマスコミは、これらのゴシップにさっそく飛びつき、あることないことを次々に報道していく。当時の新聞記者や雑誌記者の中には、大学を出た作家志望の人物たちも少なくなかったので、自身の表現力や実力のなさを棚にあげ、作家として有名になっていく大田洋子ら「美人」の女性作家たちを、「生意気だ」と感じていた男たちもたくさんいたのだろう。
ちょうど、帝展に入選しつづける渡辺ふみ(亀高文子)Click!に向けられた、「画見博士」こと芳川赳Click!のような差別と先入観だらけの薄らみっともない眼差しだ。彼らの頭の中には、「女が実力で帝展に入選できるはずがない」「女が書いた小説が文芸誌で評判になって売れるはずがない」、なにかカラクリがあるのだろうというかなり病的な偏見が根ざしていた。少し考えればわかりそうなものだが、梅田家の1室を“間借り”している大田洋子が、いっしょに住む大家とその家族に内緒で「男を引っぱりこめる」はずもない。
また、上記の根拠のないウワサ話にそっくりな流言パターンを、わたしは下落合でもうひとつ知っている。矢田津世子をめぐる、根も葉もないウワサだ。それらの多くが、新聞や雑誌から良いにつけ悪いにつけチヤホヤされる「美人」作家に嫉妬する、林芙美子Click!の口が出所だったことが、彼女の死後に開かれた文芸記者たちの座談会でしばしば暴露されている。故郷に帰った尾崎翠Click!を「鳥取で死んだ」と文芸誌に吹聴してまわり、二度と原稿依頼がいかないようにしたのも彼女の仕業だったことが露呈したが(戦後にNHKが生存を確認している)、矢田津世子もまた、母親や兄の家族とともに下落合の実家で暮らしていたので、気軽に「男を引っぱりこめる」環境でなかっただろう。
ただし、落合時代の大田洋子は、性格的にはかなり問題があったようで、晩年に大田洋子の家で書生としていっしょに暮らし、彼女の伝記を執筆した江刺昭子によれば、取材を重ねれば重ねるほど気が重くなっていったらしい。戦前の大田洋子を知る人物に取材すると、誰もがイヤな顔をして苦々しい思い出を語っている。江刺昭子が取材した元・新聞記者の小埜某もそのひとりで、1971年(昭和46)に濤書房から出版された江刺昭子『草饐―評伝大田洋子―』から引用してみよう。
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▼
実をいうと、私は、小埜氏に会うかなり前から、洋子の“いやらしさ”(原文傍点)に気付いていた。最初、洋子個人を離れて、原爆関係の作品だけを読み漁っていたころには、原爆の惨状をたたみかけるような強い筆で書きこんでいく、意志の強さには感心させられたけれども、その底に覗く作者のいやらしさには気がつかなかった。洋子の足跡を追いはじめて、戦前の作品を読むころになると、そろそろそのことが気になりはじめた。傲慢で、不遜で、けちで、偏狭で、我が侭で、陰惨で、残忍で、あまりに自己中心的で他への思いやりもない態度、それが歪んだ作家意識につながっていく。そのことは、次々と洋子とつきあいのあった人々に会う度に裏書されていった。/「お金には汚かったですねえ、金を持っていてもいなくても、きれいに使うということを知らなかった」/「彼女が遊びにきているとき、ちょうど私のところへ田舎から食べものを送ってきたりすることがあると、七対三に分けてさっさと自分が多いほうを持って帰るというようなところがありましたね」……(後略)
▲
大田洋子は落合時代、林芙美子をはるかに上まわる性格の悪さだったようでw、証言者の多くが彼女のことを悪しざまにいうのが数多く記録されている。
だが、改造社に勤める編集者で左翼の活動家であり、下落合2080番地(アビラ村24号)の金山平三アトリエClick!に出入りする黒瀬忠夫と知りあって結婚すると、少し性格が「穏和」になって落ち着いたようだった。だが、それもつかの間、金山平三アトリエで開かれる社交ダンス教室Click!のバートナーだった、金山平三の弟子で菅野某の未亡人に嫉妬し、結局は別れることになってしまった。再び同書から、今度は黒瀬忠夫の回顧を引用してみよう。
▼
幡ヶ谷では、日当たりのよい座敷を大田に提供し、僕は廊下一つ隔てた次の建物の一室を自分の部屋としました。ここでも二人は巧く行かず、大田は妊娠していたのでせう。臥り勝で、仕事は出来ていないようでした。二人の間を最も悪化させたのは、大田が僕と菅野さんとの間を邪推し、嫉妬していたからではないかと思います。食えるようになって後も先方から望まれて、週に二度位金山先生のアトリエでダンスのお相手をし、僕は心の垢を洗って貰いに行くことを楽しみにしていました。今度は菅野さんと御一緒に金山先生宅に往き来するようになった次第です。が、病弱の大田には、あてつけ、邪推の好材料になったことと想像されます。又、大田自身も最も行詰っていた時代だったでせう。/大田は、僕と菅野夫人との間を、近所の人々、医者などに、二人が出来合って「私を追出そうとしている」等言いふらすようになりました。こうなるとおしまいで、僕の面子、菅野さんの名誉のためにも許せなくなりました。
▲
大田洋子は、このころから自身でも被害妄想が極端に強く病的でおかしいと気づきはじめており、のちに何度か病院の精神科へ入退院を繰り返すようになる。
大田洋子の創作はしばらく低迷がつづくが、1939年(昭和14)の短編『海女』と翌1940年(昭和15)の『流離の岸』で一躍流行作家の仲間入りをし、文学界に改めて揺るぎない地歩を築いている。戦争のキナ臭さが漂いはじめ、なんでも自由に書ける時代が終わろうとしていたが、彼女の傲慢でわがままな「鼻もちならない」(同書)性格は相変わらずだった。
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その大田洋子の実存や人生を、根底から揺るがす事態が待ちかまえていた。1945年(昭和20)1月、彼女は東京での空襲を逃れ、故郷であり空爆がなかった広島市白島九軒町へ疎開している。8月6日午前8時15分、朝寝坊な大田洋子は蚊帳の中で熟睡していると、彼女の頭上600mで原子爆弾が炸裂し、身体が青い閃光に包まれた次の瞬間、吹き飛ばされた。
◆写真上:上落合545番地の大田洋子宅跡で、右手の角地一帯が梅田材木店。
◆写真中上:上は、1940年(昭和15)に朝日新聞社から出版された大田洋子『桜の国』(左)と著者(右)。下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる大田洋子下宿とその周辺。
◆写真中下:上は、大田洋子とは「女人藝術」で親しかった田島準子(左)と真杉静枝(右)。中は、やはり親しかった矢野津世子(左)と戦後に撮影された大田洋子(右)。下は、中井駅近くの喫茶店「ワゴン」Click!裏にある下落合1909番地の辻山春子邸(辻山医院)で1933年(昭和8)に撮影されたとみられる左から大田洋子、辻山春子、林芙美子の3人。
◆写真下:上は、米軍のF13Click!から原爆投下12日前の1945年(昭和20)7月25日に撮影された広島市街。下は、原爆投下2日後の同年8月8日に撮影された広島市白島九軒町界隈。
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雑司ヶ谷金山の文藝春秋社(菊池寛邸Click!)で、「文藝春秋」の記者と菊池の秘書役をしていた大田洋子は、1928年(昭和3)に同社を辞めて故郷の広島に帰っている。故郷には、毎日新聞記者で妻子のある藤田某との苦い思い出があったが、帰郷ののち彼女は再び藤田との同棲生活をはじめ、藤田の離婚が成立すると正式に結婚している。
大田洋子が、せっかく入った文藝春秋社をなぜ辞めたのか父親に問われると、「菊池寛が夜這いに来たからやめた、小説家はいやらしい、だから文芸春秋社にはおれん」と話していたのを、実弟が記憶している。だが、文学に対する想いは日々募るばかりで、ついに藤田と離婚すると再び広島を出奔している。すぐに東京へはいかず、尾道や大阪でカフェのダンサーや女給をしながら作品を書きつづけている。そして、1929年(昭和4)に短篇『聖母のゐる黄昏』が、長谷川時雨Click!の「女人藝術」Click!に掲載された。
大田洋子は、昭和初期のブームになっていた「女給」という職業に目をつけ、自らの体験を「女給小説」というかたちで表現したかったのだろう。男性作家が「女給」をテーマに書く作品はいくらでもあったが、女性作家が自身の体験として描く「女給小説」は、いまだめずらしかった時代だ。佐多稲子Click!『キャラメル工場から』をはじめ、平林たい子Click!『施療室にて』、宇野千代Click!『脂粉の顔』、林芙美子Click!『放浪記』などが、新鮮な感覚とともに読まれていた時代だった。大田洋子は1930年(昭和5)、大阪でのカフェの仕事をやめて東京へ再びやってくる。
東京で彼女を出迎えたのは、長谷川時雨Click!をはじめ、小池みどり、熱田優子、生田花世Click!、小寺菊子ら「女人藝術」の面々だった。いつも不平不満を口にする(書く)大田洋子だが、この時代のことは懐かしい思い出とあたたかな雰囲気でしか表現していないところをみると、よほどメンバーたちからやさしく迎えられたのだろう。以降、大田洋子は「女人藝術」の常連メンバーになっていく。東京にやってきた当初は、とりあえず本郷にあった玄人下宿の2階に落ち着いている。
「女人藝術」の仲間と親しくなるにつれ、東京生まれの多い編集者たちよりも、むしろ外からやってきて苦労を重ねている同誌の作家たちと気が合った。武者小路実篤Click!の愛人だった下落合の真杉静枝Click!をはじめ、下落合1909番地の中井駅前で開業する医師・辻山義光Click!の妻だった劇作家の辻山春子Click!、同じく下落合1982番地の矢田津世子Click!、児童文学にも才能を発揮した田島準子、そして当時はいまだ尾崎翠Click!に紹介された上落合850番地の家に手塚緑敏Click!とともに暮らしていた林芙美子Click!らだった。また文芸春秋社時代から知己を得ていた横光利一や、下落合1712番地に建つ目白文化村Click!の邸宅に仮住まいをしていた片岡鉄兵Click!たちとの交流も復活している。
おそらく、落合地域に住んでいた作家たちに誘われたのだろう、1931年(昭和6)ごろ(一説には1933年)から、上落合(2丁目)545番地にあった梅田材木店の2階に間借りしている。場所的にいえば、上落合郵便局Click!の南裏手、落合第二尋常小学校Click!の教師・鹽野まさ子(塩野まさ子)邸Click!(上落合667番地)が建つ2軒南隣りの家であり、また1930年(昭和5)から新婚早々の上野壮夫Click!と小坂多喜子Click!が住んでいた借家のごく近くだ。
その時代に撮影されたものだろう、辻山春子を中心に左側に大田洋子が、右側に林芙美子が座る落合時代の記念写真が残っている。3人とも近所同士で、そろって「女人藝術」の執筆メンバーだった。中井駅前の下落合1909番地に建っていた、辻山春子の自宅(辻山医院)で撮られた1枚だと思われ、撮影者は夫の辻山義光だろうか。テーブルの上には大判の本が置かれているが、残念ながら題名は読みとれない。大田洋子と林芙美子は、辻山医院へ徒歩5分以内で着ける位置に住んでいた。
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大田洋子と矢田津世子、真杉静枝の3人は、このころから「美人」の女流作家として評判になり、なにかとゴシップを書きたてられた。大田洋子が、日本で初めてのボクシング試合を見にいっただけで、新聞に写真入りで紹介されたりする。このころは、なんらかの職業をもつ女性が「美人」というだけで、新聞や雑誌のネタ(餌食)になっていた時代で、それだけマスコミは「男の視点」のみで成立している時代だった。
このころから、大田洋子について妙なウワサが立ちはじめている。いわく、「大田洋子は、某雑誌の編集者といい仲だ」、「某新聞の某氏が毎晩、落合のうちに泊りにいく」、「作家の某ともできているそうだ」「某雑誌の社主が部屋から寝衣姿で出てきた」……といったたぐいの根拠のない流言だ。「男社会」だったマスコミは、これらのゴシップにさっそく飛びつき、あることないことを次々に報道していく。当時の新聞記者や雑誌記者の中には、大学を出た作家志望の人物たちも少なくなかったので、自身の表現力や実力のなさを棚にあげ、作家として有名になっていく大田洋子ら「美人」の女性作家たちを、「生意気だ」と感じていた男たちもたくさんいたのだろう。
ちょうど、帝展に入選しつづける渡辺ふみ(亀高文子)Click!に向けられた、「画見博士」こと芳川赳Click!のような差別と先入観だらけの薄らみっともない眼差しだ。彼らの頭の中には、「女が実力で帝展に入選できるはずがない」「女が書いた小説が文芸誌で評判になって売れるはずがない」、なにかカラクリがあるのだろうというかなり病的な偏見が根ざしていた。少し考えればわかりそうなものだが、梅田家の1室を“間借り”している大田洋子が、いっしょに住む大家とその家族に内緒で「男を引っぱりこめる」はずもない。
また、上記の根拠のないウワサ話にそっくりな流言パターンを、わたしは下落合でもうひとつ知っている。矢田津世子をめぐる、根も葉もないウワサだ。それらの多くが、新聞や雑誌から良いにつけ悪いにつけチヤホヤされる「美人」作家に嫉妬する、林芙美子Click!の口が出所だったことが、彼女の死後に開かれた文芸記者たちの座談会でしばしば暴露されている。故郷に帰った尾崎翠Click!を「鳥取で死んだ」と文芸誌に吹聴してまわり、二度と原稿依頼がいかないようにしたのも彼女の仕業だったことが露呈したが(戦後にNHKが生存を確認している)、矢田津世子もまた、母親や兄の家族とともに下落合の実家で暮らしていたので、気軽に「男を引っぱりこめる」環境でなかっただろう。
ただし、落合時代の大田洋子は、性格的にはかなり問題があったようで、晩年に大田洋子の家で書生としていっしょに暮らし、彼女の伝記を執筆した江刺昭子によれば、取材を重ねれば重ねるほど気が重くなっていったらしい。戦前の大田洋子を知る人物に取材すると、誰もがイヤな顔をして苦々しい思い出を語っている。江刺昭子が取材した元・新聞記者の小埜某もそのひとりで、1971年(昭和46)に濤書房から出版された江刺昭子『草饐―評伝大田洋子―』から引用してみよう。
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実をいうと、私は、小埜氏に会うかなり前から、洋子の“いやらしさ”(原文傍点)に気付いていた。最初、洋子個人を離れて、原爆関係の作品だけを読み漁っていたころには、原爆の惨状をたたみかけるような強い筆で書きこんでいく、意志の強さには感心させられたけれども、その底に覗く作者のいやらしさには気がつかなかった。洋子の足跡を追いはじめて、戦前の作品を読むころになると、そろそろそのことが気になりはじめた。傲慢で、不遜で、けちで、偏狭で、我が侭で、陰惨で、残忍で、あまりに自己中心的で他への思いやりもない態度、それが歪んだ作家意識につながっていく。そのことは、次々と洋子とつきあいのあった人々に会う度に裏書されていった。/「お金には汚かったですねえ、金を持っていてもいなくても、きれいに使うということを知らなかった」/「彼女が遊びにきているとき、ちょうど私のところへ田舎から食べものを送ってきたりすることがあると、七対三に分けてさっさと自分が多いほうを持って帰るというようなところがありましたね」……(後略)
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大田洋子は落合時代、林芙美子をはるかに上まわる性格の悪さだったようでw、証言者の多くが彼女のことを悪しざまにいうのが数多く記録されている。
だが、改造社に勤める編集者で左翼の活動家であり、下落合2080番地(アビラ村24号)の金山平三アトリエClick!に出入りする黒瀬忠夫と知りあって結婚すると、少し性格が「穏和」になって落ち着いたようだった。だが、それもつかの間、金山平三アトリエで開かれる社交ダンス教室Click!のバートナーだった、金山平三の弟子で菅野某の未亡人に嫉妬し、結局は別れることになってしまった。再び同書から、今度は黒瀬忠夫の回顧を引用してみよう。
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幡ヶ谷では、日当たりのよい座敷を大田に提供し、僕は廊下一つ隔てた次の建物の一室を自分の部屋としました。ここでも二人は巧く行かず、大田は妊娠していたのでせう。臥り勝で、仕事は出来ていないようでした。二人の間を最も悪化させたのは、大田が僕と菅野さんとの間を邪推し、嫉妬していたからではないかと思います。食えるようになって後も先方から望まれて、週に二度位金山先生のアトリエでダンスのお相手をし、僕は心の垢を洗って貰いに行くことを楽しみにしていました。今度は菅野さんと御一緒に金山先生宅に往き来するようになった次第です。が、病弱の大田には、あてつけ、邪推の好材料になったことと想像されます。又、大田自身も最も行詰っていた時代だったでせう。/大田は、僕と菅野夫人との間を、近所の人々、医者などに、二人が出来合って「私を追出そうとしている」等言いふらすようになりました。こうなるとおしまいで、僕の面子、菅野さんの名誉のためにも許せなくなりました。
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大田洋子は、このころから自身でも被害妄想が極端に強く病的でおかしいと気づきはじめており、のちに何度か病院の精神科へ入退院を繰り返すようになる。
大田洋子の創作はしばらく低迷がつづくが、1939年(昭和14)の短編『海女』と翌1940年(昭和15)の『流離の岸』で一躍流行作家の仲間入りをし、文学界に改めて揺るぎない地歩を築いている。戦争のキナ臭さが漂いはじめ、なんでも自由に書ける時代が終わろうとしていたが、彼女の傲慢でわがままな「鼻もちならない」(同書)性格は相変わらずだった。
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その大田洋子の実存や人生を、根底から揺るがす事態が待ちかまえていた。1945年(昭和20)1月、彼女は東京での空襲を逃れ、故郷であり空爆がなかった広島市白島九軒町へ疎開している。8月6日午前8時15分、朝寝坊な大田洋子は蚊帳の中で熟睡していると、彼女の頭上600mで原子爆弾が炸裂し、身体が青い閃光に包まれた次の瞬間、吹き飛ばされた。
◆写真上:上落合545番地の大田洋子宅跡で、右手の角地一帯が梅田材木店。
◆写真中上:上は、1940年(昭和15)に朝日新聞社から出版された大田洋子『桜の国』(左)と著者(右)。下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる大田洋子下宿とその周辺。
◆写真中下:上は、大田洋子とは「女人藝術」で親しかった田島準子(左)と真杉静枝(右)。中は、やはり親しかった矢野津世子(左)と戦後に撮影された大田洋子(右)。下は、中井駅近くの喫茶店「ワゴン」Click!裏にある下落合1909番地の辻山春子邸(辻山医院)で1933年(昭和8)に撮影されたとみられる左から大田洋子、辻山春子、林芙美子の3人。
◆写真下:上は、米軍のF13Click!から原爆投下12日前の1945年(昭和20)7月25日に撮影された広島市街。下は、原爆投下2日後の同年8月8日に撮影された広島市白島九軒町界隈。