1918年(大正7)の目白通りに面した下落合(字)中原へ、高知県から父親を亡くした母子が住み着いた。父親の出身は高知だが、母親が中野出身だったので、親戚のいる東京へ帰郷したことになる。母親はそこで、娘を育てるために悉皆(しっかい)屋をはじめた。悉皆屋という言葉はすでに死語に近いが、着物の染めや洗い張りを請け負う店のことだ。
下落合の字名である中原は、現在でいうと子安地蔵あたりを中心に、下落合4丁目の北部から中落合2丁目の北部にかかる目白通り沿いの一帯だ。江戸期からつづく清戸道Click!(せいどどう:目白通り)沿いに長崎村と落合村の双方で発展した、椎名町Click!の東側にあたる地域で、1918年(大正7)の1/10,000地形図を参照すると、省線・目白駅の周辺よりも商店街が発達していた様子がうかがえる。
だが、街道を少し外れると、両村とも一面に田畑が拡がっていた時代で、下落合では目白崖線に沿った雑木林や田畑の間に、華族の大きな邸宅や別荘がぽつりぽつりと建っているような風情だった。当時の目白通り沿いの様子を、1997年(平成9)に新宿区地域女性史編纂委員会から発行された『新宿に生きた女性たちⅣ』所収の、三宅さと子「和裁一筋の暮らし」から引用してみよう。
▼
落合のあの辺りは、長崎田んぼって言ったんですよ。目白通りができるんで道路改正になったんですけどね。そのころまわりは、暑いときなんかドブの水をひしゃくでまくようなそういう処でした。私のとこは、悉皆屋をやっていたんです。お客様が古い着物をお持ちくださると、それを母がほどいて一反の反物にはぎ合わせるのね。それを巻いて中野に持って行くと、職人が洗って張ってきれいにして、それをお客様にお返しする、そういう商売。(中略) でもね、なかなかそんな商売で食べてくっていうのはたいへんですよ。私の月謝払うのだって、ようようだもの。学校へ行っていいって言ったって、お金くれるわけじゃないから、母がお店やってぽつぽつ貯めるのと、あとは私がお風呂屋さんのおばさんにお願いして方々のお仕事させてもらって、夜なべにそういうものを縫ってそれで月謝稼いだの。今のアルバイトよね。
▲
ここに登場しているアルバイト探しを依頼した銭湯は、大正期から今日まで下落合(中原)635番地で営業をつづける「福の湯」Click!のことだろうか。
母と娘の生活は苦しかったらしく、落合尋常高等小学校Click!(現・落合第一小学校)を卒業した彼女は、豊島師範学校Click!へ進学して教師になりたかったが、中野の実家である染物屋の親戚たちが許さなかった。母親は進ませたかったようだが、「家長」の伯父が「仕事のできる子に育ってもらわなきゃ困る、字で飯を食うんじゃない、学校なんて尋常六年まで行けばたくさんだ」と、上の学校への進学は認めてくれなかった。
このあたり、(城)下町Click!と近郊の家庭(もとは別の地方?)とでは、環境が正反対の見本Click!のような話だ。下町では多くの場合、男子(父親や親戚の男たち=いわゆる「家父長」Click!たち)がなにをいおうが、実質「家長」Click!でマネジメントをつかさどる女子(母親や親戚の女たち)が「それはけっこうなこと、お行きなさい」といえば、それでしまいの世界だった。うちの親父も、府立中から高等学校、大学への進学は祖母が意思決定している。父親や伯父(叔父)たちは、彼女たちの意思決定のあと、個々に発生する課題をクリアするアドバイザーないしは助力者、ときには「財源」としての役割が待っていた。
これは、新モンゴロイドの大陸系(北冷地適応系)の民族に由来する、中国や朝鮮半島の差別的な教義・思想を、いくら歴代の国家や薩長政府が根づかせようとしても、江戸東京(に限らず東日本ではおしなべて)ではほとんど浸透しなかった底流文化だ。文化人類学的にいえば、古(いにしえ)の千年単位におよぶ日本の基層Click!に近い文化的な側面Click!だろう。
三宅さと子は、おそらく落合尋常高等小学校でもかなり成績がよく頭のよい女性だったのだろう、それでも上級の学校をあきらめきれず、母親と親戚を説得して柏木125番地(現・西新宿7丁目)にあった武田裁縫高等女学校へ進学している。彼女はそこで和裁だけでなく、高等科へ進み習字と礼法を学んでいる。つづけて、同書から引用してみよう。
▼
学校へは、目白の駅から山手線で新宿の西口へ出て通いました。校長先生は竹田太郎吉って名前で、もうだいぶお年でしたから、ちょっと教えてくださるだけで、実質的には副校長の川北先生が指導してましたね。先生はみんな卒業生で女の方ばかり。男の先生は、課外のお習字の先生だけ。私のいるうちに、高等女学校になったんですよ。四年制の二部ができたんです。そちらはお勉強があるんです。高等女学校になったんで、そういうようになったんじゃないかと思います。(中略) 課外で希望者だけ、お習字と生け花とお作法がありました。私は、お習字とお作法だけやらしていただいたんです。小笠原流のお作法ですけどね、今じゃ足で障子あけますもんね。アハハハー。
▲
女学校を卒業してから、下落合でお屋敷の手伝いの話もあったようだが、彼女は母親のもとで習いたての和裁教室を開くことにした。母親が、家を出て働けば着物や履き物などにおカネがかかるし、「出て十円稼ぐならうちで八円稼いだほうがいい」といって、娘を手もとにおいておきたかったようだ。目白通り沿いで和裁教室を開き、評判もよかったらしく生徒もぽつぽつ集まるようになっていった。
和裁教室の月謝は、ひとり1円20銭だったようで、評判を聞きつけた娘たちが通ってくるようになる。毎日通ってくる生徒の中には、目白通りを走っていたダット乗合自動車Click!(のち東環乗合自動車Click!)のバスガールClick!たちが大勢いた。バスガールたちは、乗務の合い間をぬっては和裁教室へ通っていたようだ。以前、こちらでご紹介したダット乗合自動車のバスガール・上原とし様Click!や、その同僚たちも和裁を習いに通っていたかもしれない。当時の様子を、同書より引用してみよう。
▼
お弟子さんは近所の娘さんが多かったけれど、そのころ、表通りをダット乗合ってのが通っていたの。その女車掌さんがみんな来てました。二〇人くらい乗れる、昔としては大きいバスでしたよ。目白から籾山牧場Click!っていうところまで通っていたと思いますよ。車掌さんは入れ替わり、立ち替わりで、八、九人は来てましたよ。勤務時間が不規則だから、なかなか普通のところでは教えてくれないでしょう。私は家にいるから、いつでもいいよっていうもんですから、三時から来て五時までいるとか、五時に来て八時までいるとか、仕事の合間に教えるという方式で教えてあげたんですよ。だからこの間も、とてつもないところで「先生、先生」って呼ばれたの。私のこと先生って呼ぶなんて誰だろうって思ったら、生徒さんだった人なの。うれしかったわね。教えたものの醍醐味ね。
▲
1933年(昭和8)に目白通りの拡幅工事で、母親の悉皆屋は立ち退くことになり、下落合2丁目(現・下落合4丁目と中落合2丁目の一部)に新しい家を見つけて転居している。そして、同時に彼女は警察官と結婚した。
彼女の家は母子家庭だったので、防犯上から警察官がちょくちょく立ち寄ってくれていたらしいのだが、その警官の仲介で独身の同僚を紹介されたようだ。戸塚警察署Click!に勤務していた、若い警察官だった。夫は戸塚警察署から中野警察署、そして警視庁の本庁づとめにもどっているが、1938年(昭和13)に本庁の特高第二課に配属された。戦時中もそのままだったので、敗戦後は思想弾圧Click!を追及され公職追放で警視庁をクビになっている。
当時の和裁に対する手間賃は安く、浴衣を1枚縫って仕上げても50銭だったという。祭りの日が近づくと、「さとちゃんとこへ持ってけば」と浴衣縫いの注文が殺到したらしいが、毎日寝ないで浴衣を8枚仕上げてもわずか4円にしかならなかった。今日の貨幣価値に換算すると、浴衣1枚縫っても5,000円ぐらいにしかならなかった。
結婚後も和裁はつづけていたが、子どもが生まれていたので和裁教室はやめて、授産場Click!で働いたりデパートからの注文品を縫ったりしていたようだ。着物やちゃんちゃんこなどを縫っては、大手デパートへ納品していたようだが、「ちゃんちゃんこは一〇枚縫ったっていくらにもなんなかったわね。まあ、五〇銭じゃなかったけど…」とこぼしているところをみると、かなり買いたたかれたのだろう。授産場での和裁教授は、ひょっとすると下落合の近衛町に隣接して建っていた目白授産場Click!なのかもしれない。
1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲で、国際聖母病院Click!近くの三宅邸は焼夷弾爆撃で全焼している。それから、また戦後までつづく苦難の時代がはじまるのだが、新宿区地域女性史編纂委員会のインタビュー時にも彼女は中落合(旧・下落合中部)に住んでいるので、大正期から馴れ親しんだ母校のある下落合の街を離れがたく感じていたのだろう。
◆写真上:めったに見かけなくなった、和ばさみとやたら縞の木綿地。
◆写真中上:上は、下落合中原(のち下落合2丁目/現・下落合4丁目)の目白通り沿いにある子安地蔵尊。中は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる下落合村椎名町界隈の様子。下は、1935年(昭和10)の「淀橋区詳細図」にみる柏木125番地の武田裁縫高等女学校。すぐ南側には、青梅街道をはさんで淀橋浄水場Click!があった。
◆写真中下:上は、織田一磨『江戸川河岸』(部分)に描かれた江戸川(現・神田川)沿いの洗い張り風景。中は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる下落合中原エリアの目白通り。このどこかに、通りに面して三宅さと子の母が経営していた悉皆屋と、彼女の和裁教室が開業しているはずだ。下は、現代の和裁道具いろいろ。
◆写真下:三宅さと子が開いていた和裁教室へ、大勢通ってきていた昭和初期のダット乗合自動車のバスガールたち。(小川薫様Click!ご提供の「上原としアルバム」より)