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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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円空仏が祀られた都内唯一の中井不動尊。

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中井不動尊.JPG
 子どものころ、両親に連れられて円空仏を見て歩いた記憶がある。公開されている作品は東京都内には少なく、隣りの埼玉県や神奈川県のほうが多かったような憶えがある。もっとも、親父は鎌倉期から室町期にかけての仏師による仏教彫刻や武蔵野の石仏が好きだったようなので、それほど数多くの円空仏を訪ね歩いたわけではない。特に神奈川県には、平安期から鎌倉期にかけての鉈彫りのいい仏像が多い。
 下落合4丁目2290番地(現・中落合4丁目)にある、中井出世不動尊を親とともに訪ねた記憶がないので、おそらく子ども時代には拝観していないのだろう。もっとも、わたしの記憶が抜け落ちている可能性も否定できないので、昔のアルバムに写真が貼ってあったりすると、物心ついたばかりのわたしを連れて目白崖線の急坂をのぼったことになる。
 さて、落合の地誌本にはたいがい紹介されている中井不動尊だが、下落合で暮らしていた人々が中心の拙サイトでは、すっかりご紹介しそびれていたので改めて取りあげてみたい。同不動尊は、明治の初めまで中井御霊社Click!の別当・不動院に安置されていたもので、もともと現在地にあったものではない。明治政府の神仏分離令が発布されると、中井御霊社の不動尊(三尊像)はいき場を失い、近くの小野田家で保存されることになった。この小野田家とは、下落合(4丁目)2286番地にあった下落合でも有数の旧家のひとつで、『落合町誌』Click!(1932年)の時代には小野田錠之輔と記録されている大屋敷だろう。
 明治期には同家に保存されていた不動明王三尊だが、1914年(大正3)に同家の敷地内に堂を建立して祀られている。だが、中井不動への参拝者は日本各地におよび、遠くは鳥取県の米子から、近くは神奈川の横浜や多摩の秋留(現・あきる野市)から参拝に訪れるので、1916~17年(大正5~6)に小野田家所有の畑地の中に石柱を建てて記念し、同時に不動尊の傷んでいた箇所を補修している。1922年(大正11)に、小野田家が敷地30坪と200円を寄進して、現在の場所に一宇を建立した。
 さらに、戦後になると堂宇の傷みが激しくなり、1969年(昭和44)に小野田弥兵衛や信者たちが協力して、集会場を含む新たな不動堂を建設して現在にいたる。不動三尊像の調査は、女子美術大学の岡田芳朗教授が中心となって行われ、正式に円空の作品であると鑑定されている。東京都内で、円空仏が個人蔵ではなく本尊として祀られている堂宇は、中井出世不動尊が唯一のものだ。
 不動本尊および脇侍(きょうじ)像の2体、すなわち矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ)は、江戸期に円空が下落合にやってきて彫刻したものではない。文化文政年間に、尾張中嶋郡にある一宮真清大神宮の神宮寺が1733年(享保18)に廃寺となり、般若院に祀られていた不動三尊像を下落合の御霊社へ遷座させた記録が、同不動の台座裏に記録されている。なぜ、遠く尾張国から下落合村へ遷座(勧請)されているのか仔細は不明だが、3体の台座は江戸で彫刻・寄進されているので、尾張から運ばれてきた当初は円空仏の像本体のみだったと思われる。
 ふつう仏像を勧請するのは、室町末ないしは江戸最初期に足利から勧請された目白不動尊Click!がそうであるように、まず本尊を遷座させて祀るのが“お約束”のはずだが、中井不動尊は脇侍像2体から運ばれている。すなわち台座の銘書きによれば、矜羯羅童子像と制多迦童子像は1816年(文化13)に尾張の神宮寺般若院より、杉山平馬と古川喜十郎というふたりの供人(ともびと)が、東海道を背負って(おそらく)下落合村の御霊社まで運びこんでいる。矜羯羅童子像は身の丈64cm、制多迦童子像は身の丈67cmの小像なので、馬や大八車Click!を用いなくても楽々運べたのだろう。
 一方、本尊の不動明王像は、3年後の1819年(文政2)に下落合村へ到着している。本尊は身の丈128cmとサイズが大きく重いので、背負ったとすればかなりたいへんな旅路だったろうが、台座の裏には供人の名が記載されていない。ひょっとすると、東海道の荷運び伝馬を使って運搬したため、先の脇侍像を背負い苦労して運んだ重労働の供人たちとは異なり、不動明王像は付添人の名前を記載しなかったものだろうか。
円空不動尊造像1980.jpg
中井不動三尊像.jpg
中井出世不動尊1947.jpg
 不動三尊像の台座裏に記載された銘について、1980年(昭和55)に新宿区教育委員会から発行された「新宿区文化財総合調査報告書(5)」より引用してみよう。
  
 本尊の台座銘は次のように解釈できる。つまり、文政二年(一八一九)六月十七日に不動尊像が御霊神社に到着し、同年十二月二日に四谷の吉見に依頼した台座が完成した。台座の寄進者は般若院峯重である。/また矜羯羅童子像の台座銘は次のように解釈できる。つまり、文化十三年(一八一六)六月十一日に尾州中嶋郡松降埜荘(まつふりのしょう)青桃丘(せいとうがおか)の一宮真清田神宮別当神宮寺般若院より、杉山平馬と古川喜十郎の両名がお供として東海道を下向して、本二像が到着した。/なお、制多迦童子像の台座銘は、矜羯羅・制多迦二童子像の両岩座を、文政四年(一八二一)十二月に御霊神社別当不動院の勇山が寄進したことを記し、併せて台座作者小石川音羽町七丁目西村藤吉の名を記している。
  
 この文中には「御霊神社」と書かれているが、「神社」Click!という呼称は明治政府がこしらえた近代の造語なので、イザナギとイザナミの第七天神Click!2柱が祀られていた江戸期の当時は(鎌倉期以前からの五郎祖霊も奉られていたかもしれない)、御霊社(ごりょうしゃ)Click!とよばれていただろう。また、本尊の台座作者に「四つ谷/吉見作」と書かれているが、この「四つ谷」が外濠も近い四谷町Click!のことか、または高田(あるいは雑司ヶ谷or小石川)の四谷(家)町Click!のことかさだかではない。
 脇侍像2体の台座には、小石川音羽町にいた彫師(仏師)の名が見えるので、わたしは後者ではないかと考えている。小石川四谷(家)町や音羽町界隈には、幕府の巨刹・護国寺が近いせいで、仏師たちが集中して工房をかまえていたと思われる。
 さて、矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ)の彫像といえば、まずもっともポピュラーな運慶作と伝えられる高野山(金剛峯寺)の2像が思い浮かぶ。各地の博物館などで展示公開されており、ご覧になった方も多いのではなかろうか。だが、円空が制作した脇侍像2体は、それらとはまったくイメージが異なり似ても似つかない風貌をしている。円空が彫る仏像は、仏の柔和な表情に仕上げるためにか、そのほとんどが両眼を閉じるか薄眼の彫り方をしており、あえて大きく開眼した像はめずらしい。
 中井不動尊は、尾張の時代からか、または江戸の下落合村へ運ばれてからの仕事かは不明だが、眼とそのまわりを白い顔料で塗りつぶし、大きな瞳を描きこむという余計なことをしてしまった。したがって、その異様な顔貌のせいか、どこか妖怪じみた雰囲気を醸しだしているようだ。描き加えられた両眼を無視して鑑賞すると、不動明王(2体の脇侍含む)にしては穏和な、円空仏ならではのやわらかい表情をした、どことなくユーモラスで微笑ましい風貌が見えてくるのだが、残念な現状となっている。
円空不動明王像.jpg 円空不動明王台座銘.jpg
矜羯羅童子.jpg 矜羯羅童子台座銘.jpg
制多迦童子.jpg 制多迦童子台座銘.jpg
 ここでちょっと脇道にそれるけれど、明治初期まで不動明王三尊が安置されていたのは、御霊社の不動院であって現在地ではない。目白文化村Click!(第一文化村)から、南東方向へと口を開けた谷戸について、「中井不動があるから不動谷と名づけられた」と説明される方がいるが、すぐにもおかしいことに気づかれるだろう。しかも、明治時代を通じて不動尊像は小野田家に保存されていたのであり、いまだ堂さえ建立されていない。大正中期から「不動谷」と呼ばれるようになったとみられる、落合第一小学校Click!前の谷間と中井御霊社にあった不動院とは、直線距離で1kmも離れている。
 おそらく「前谷戸」(本来は鎌倉などの発音と同様に「まえやつ」と発音されたかもしれない)と呼ばれた谷間は、すぐ近くに鎌倉期からの旧家である宇田川家の「前」の「谷戸」なので古くからそう呼ばれていたのであり、本来は付近の土地全体を表す地名ではなかったはずだ。江戸東京の各地に残る、谷戸の近く(前後)にある土地を表現する地名は、「前谷戸」ではなく「谷戸前」であることにも留意したい。「前谷戸」は、谷そのものを指す名称であり、この谷戸が「不動谷」と呼ばれるようになったのは大正の中期以降、つまり初期の小さな中井不動堂が建立され、堤康次郎Click!が目白文化村の前身となる「不動園」Click!を開発したころからだと思われる。しかも、旧家の小野田家は姻戚が住む大泉村(東大泉)Click!を堤康次郎に紹介しており(小野田セメントとの関係も気になる)、箱根土地による大泉学園Click!の開発へ積極的に参画している非常に近しい関係だ。
 従来の「不動谷」は、東へ250mほどのところに口を開けた谷戸、青柳ヶ原Click!(現・国際聖母病院Click!の丘)をはさみ東の諏訪谷Click!とは反対側にある西の谷戸にふられていた谷の名称(現在は西ノ谷と呼ばれがち)であり、1967年(昭和42)の新宿区立図書館による規定Click!(新宿区立図書館紀要1)が正しいのだろう。「不動谷」の名称は大正中期に、箱根土地Click!の影がチラつく西へと人為的に「移動」Click!されているように思われる。
 本来の不動谷(西ノ谷)Click!には、早くから谷戸の崖地中腹に小道が通っており、それを北へたどるとやがて天祖社の東側をかすめ、700mほどで金剛院の横手にある長崎不動堂の真ん前に出て参詣できる参道筋だった。「不動谷はどうして西へいっちゃったんでしょうね?」という、下落合東部に古くからお住まいの方々の疑問は、大正中期からスタートした箱根土地と小野田家による宅地開発プロジェクト&プロモーションに答えがありそうだ。
円空不動明王像(拡大).jpg
矜羯羅童子1.jpg 制多迦童子2.jpg
中井出世不動尊(堂内).jpg
 中井不動尊は、脇侍の矜羯羅・制多迦の童子像も含め新宿区の指定文化財となっており、寺堂で円空仏を鑑賞できる都内でも唯一のスポットとなっている。3像は毎月28日に開帳され、円空作品を間近で鑑賞できるので興味のある方はぜひ下落合(現・中落合)へ。

◆写真上:小野田家の敷地内に建立された、円空作の不動三尊像が安置される不動堂。
◆写真中上は、1980年(昭和55)に撮影された不動三尊像。は、新宿歴史博物館が撮影した同像。光背左側の火炎の一部が、以前からやや欠損しているようだ。上下の写真を比べると、火炎の描き方が一部ちがって見えるのは光の加減だろうか、それとも保修の跡だろうか。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる中井不動堂。1969年(昭和44)まであった大正期の古い堂で、現在の堂よりも規模がかなり小さい。
◆写真中下は、不動明王像()とその台座銘()。下部に「四つ谷」の文字があるが、下高田と雑司ヶ谷、小石川の各村にまたがる四谷(家)町ではないかと思われる。は、同じく矜羯羅童子像()と台座銘()。は、制多迦童子()とその台座銘()。
◆写真下は、不動明王像の上半身。右手の剣と左手の羂索は、別途付加されたもので円空の仕事ではないだろう。は、矜羯羅童子()と制多迦童子()。は、毎月28日に開帳される中井出世不動堂の不動明王三尊像。

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