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下落合378番地の御留山Click!に建っていた相馬孟胤邸Click!で、太素社(妙見社)Click!の祭礼Click!が行なわれた当日、武具蔵で公開・展示されていた刀剣類Click!についての記事を少し前に書いた。相馬邸ばかりでなく、下落合700~714番地の西坂にある徳川義恕邸Click!や、下落合1755番地の津軽義孝邸Click!、下落合417番地の近衛篤麿・文麿邸Click!(旧邸)などにも名作は保存されていただろう。武家ではない近衛家にも、1918年(大正7)の売立入札目録Click!から推測すると、古刀時代(慶長期以前)に近畿圏で活躍した刀工作品が何口か眠っていたのではないかと思われる。
だが、もともとが公家だった近衛家よりは、落合地域に隣接する目白の徳川義親邸Click!や細川護立邸Click!のほうが、武門の刀剣蒐集ではふたりとも特に名の知られた人物であり、圧倒的に充実したコレクションを収蔵していた。細川護立は戦後になると、東京国立博物館の外郭団体としてスタートした日本美術刀剣保存協会(日刀保)の会長に就任している。また、徳川義親Click!は1935年(昭和10)に徳川美術館(名古屋)Click!を設立しており、日本最大規模の刀剣蒐集とその展示は、同館の重要な学術研究部門となった。
下落合・目白界隈には、美術刀剣を趣味とし作品類を蒐集・保存に関連する人物たちが多く住んでいた。明治以降に廃刀令が発布されると、刀剣および刀装具を武器としてではなく、美術工芸品としてその技術とともに保存・継承していこうとする動きが、1900年(明治33)に“武”の中心地だった江戸東京で発生している。犬養毅Click!(美術刀剣会では瑠璃山人/無名堂主人)が発起人となり結成された「中央刀剣会」がそれだが、その呼びかけ人の中には下落合に住んでいた人物たちの名前が何人か見える。西坂・徳川邸Click!から同坂をはさみ、西側に建っていた下落合1218番地の谷千城Click!と、そのすぐ近くの安井息軒邸Click!の跡地に住んでいたとみられる下落合1110番地の川村景明Click!だ。
幕末から、すでに刀剣の軍事的な需要はほとんどなくなり、陸戦の主流は小銃と大砲に移行していた。それでも武士たちは、腰に刀剣を指していないと不安をおぼえ、銃砲の扱いの邪魔にならないよう短めの大刀に突兵拵え(とっぺいこしらえ)と呼ばれる、細いサーベルを収めるような特殊な外装を工夫・採用して帯刀していた。それだけ、刀剣に対する依存心が強かったのだろう。だが、実際の戦闘では刀を抜く以前に最新式の銃砲で勝敗が決してしまうため、一度も抜刀しないまま戦闘を終えるケースも出はじめていた。
少しだけ、東京の近代史のおさらいをしてみよう。江戸幕府が倒れ明治期がスタートすると、明治政府は軍隊以外の市民(武家や町人に限らず)が、もはや時代遅れとはいえ刀剣を指して出歩いているのが目ざわりとなり、いつ反抗の刃が薩長政府に向けられるか日増しに不安が高まっていった。まず1869年(明治2)に、森有礼が官吏と軍人以外は帯刀廃止を提案したが、刀剣に愛着のある武家が多かった公儀所で否決され、翌1870年(明治3)には江戸期は許されていた庶民Click!(農工商)の帯刀のみが禁止されている。
翌1871年(明治4)には、散髪脱刀令が布告され髷を落としたザンギリ頭に、刀を指さない無腰の新しい明治スタイルが推奨されている。つづいて、1872年(明治5)に公布された徴兵令によって武家や町人、農民の区別なく軍人に採用されることになり、彼らが武装して軍隊を組織する形式が常態化するにおよび、戦いが本分だった「武士」という特権階級の権威や存在理由が丸ごと否定された。こうして4年間の猶予期間を設けながら、1876年(明治9)に山県有朋Click!の主導で廃刀令が公布されることになる。
もっとも、刀鍛冶や金工師(刀装具職人)にしてみれば、江戸後期から注文がガタ減りになり貧乏生活Click!をつづけてきたわけで、かなり以前から「構造不況業種」の最たるものだったが、廃刀令のためにトドメを刺されたことになり、転職をする刀工や金工師が相次いだ。こちらでも何度かご紹介している江戸石堂派Click!の末裔である石堂運寿是一Click!や石堂是秀は、ハサミや小刀、包丁などを製造する刃物鍛冶に転業し、農具の鎌や鋤などを焼く野鍛冶へ転向する刀工も多かった。大慶直胤Click!の門人のひとりで、中村相馬藩の藩工だった慶心斎直正は、廃刀令が公布された直後に将来を悲観して自刃している。
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廃刀令をめぐり、新しい商売も生まれている。腰に刀を指さないと落ち着かない人々のために、剣客の榊原健吉は大刀のかわりに「倭杖」という重い木刀を、脇指のかわりに「頑固扇」という鉄製の扇子を、製品として売りだしヒットしている。また、名刀工の月山貞一は、さまざまな古作に似せた刀剣を焼いて、有名刀匠の偽名を茎(なかご)に彫っては飢えをしのいでいた。本人にしてみれば、自身の出来のいい作品に偽名を彫らなければならないという、思いだしたくもない時代だったろう。1906年(明治39)に帝室技芸員に選ばれるまで、月山貞一の屈辱的な苦難はつづいた。
ここでちょっと余談だが、鎌倉の相州伝刀工の銘が切られた、出来は非常にすばらしいが茎が新しく錆つけも不自然な偽名刀とみられる作品は、月山貞一の作品である可能性が高いため、偽作であるにもかかわらず高価で人気が高いという、おかしな現象まで生じている。そのほか、刀剣に直接かかわりのある職業、研師Click!や塗鞘師(木工漆芸師)、白鞘師、柄巻き師などは失業して零落し、その技術が滅びていくのは時間の問題だった。
一方、刀装具をこしらえていた金工師たちは、刀工たちに比べればまだ市場がめぐまれていたかもしれない。刀装具の注文はなくなったが、人気が高かった金工の置物や小物、タバコ用具、簪など髪飾り、アクセサリー、硯屏、花器などを制作し、国内外に技術の高さを誇っていた。むしろ、刀装具の形状に縛られず新しい商品で自由なデザインを試みられたため、江戸期よりも斬新で優れた作品を生みだしている。輸出も順調で、刀鍛冶ほど困窮することはなかっただろう。中でも名人とうたわれた、本来は刀装具の金工師だった加納夏雄や海野勝珉らは、東京美術学校Click!の教授に迎えられている。
このような時代状況を背景に、世界で日本にしか存在しないオリジナルの刀剣美術(技術)を後世に継承しようという動きが、明治末になってようやく活発化してくる。その先頭に立っていたのが犬養毅であり、下落合在住の軍人だった谷千城や川村景明らだった。下落合のふたりは江戸期からの武家なので、刀剣にはより身近な愛着を感じていたのだろうが、「中央刀剣会」のメンバーにはその出自や職業、身分の差に関係なく、刀剣美術(技術)が滅びる前に保存しようとする人々が参集している。
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以下、1900年(明治33)の犬養毅による中央刀剣会設立趣意書から引用してみよう。
▼
(前略) 文化、文政ノ際ニ及ビ、水心子正秀ナルモノ古法ノ久シク廃絶セルヲ歎キ、研鑽工夫殆ンド四十年を積ミ始メテ古法ノ一端ヲ発見シ大ニ復古ノ説ヲ唱フ。天保、弘化ノ交直胤(大慶直胤)、清麿(源清麿)ノ徒其ノ後ヲ継ギ盛ニ之ヲ鼓吹シ、四百有余年廃絶ノ真法漸ク再ビ世ニ明ナラントス。而シテ幾モ無ク明治ノ廃刀令ニ逢ヒ、天国以来ノ妙技此ニ至リテ復タ用ヰル所ナキニ至ル。/爾来今日ニ至ル僅ニ三十年間、海内幾百千ノ鍛工日ニ月ニ零落離散シ、僅ニ存スルモノモ亦老テ後ナカラントス。此ノ如キモノ独リ鍛工ノミニ非ズ。研師、鞘師、柄巻師ノ徒老練ノ名手年ヲ逐テ凋落シ、子弟ノ復タ其ノ業ヲ継承スル者アラズ。若シ今ニシテ之ガ保存ヲ謀ルニ非レバ、各種ノ工人其ノ師伝秘訣ト共ニ漸絶湮滅スルハ今ヨリ数年ノ中ニ在ラン。我邦千有余年ノ工夫経験ヲ以テ大成シタル宝器妙工、豈此ノ如ク棄テテ顧ミザルノ理アランヤ。吾輩窃ニ之ヲ憂フル久シ。因テ茲ニ別記ノ方法ニ依リ之ガ保存ヲ計ラント欲ス。海内同志ノ君子、願クハ我国固有ノ宝器独特ノ妙技ヲ保存スルノ趣旨ヲ以テ本会ヲ讃成シ、奮テ加盟アランコトヲ懇切希望ノ至ニ堪ヘザルナリ。(カッコ内引用者註)
▲
要するに、江戸後期になって古刀時代の優れた作品や鍛刀技術に学ぼうとする新々刀時代を迎え、水心子正秀一門(新々刀の祖/日本橋浜町)や大慶直胤一門(江戸後期きっての刀匠/下谷御徒町)、源清麿一門(四谷正宗/新宿四谷町)を輩出したが、せっかく探究された高度な作品や技術の伝承が廃刀令で絶えてしまうのは惜しい、日本刀はもはや武器ではなく美術品の範疇なのだから、なんとか後世にまでその作品や技術を伝承し保存できないものだろうか……というのが、その設立趣旨だった。
敗戦直後には、刀剣は武器であると一度は規定した、GHQによる刀剣没収・廃棄が行なわれている。このとき「廃棄」された刀剣の中には、名作がどれほど混じっていたのかは不明だが、米軍によって「土産」として持ちだされた作品の中には名品が多々あり、膨大な文化財が戦争で消滅あるいは流出したとみられる。戦後、しばらくしてから返還された刀剣は「里帰り刀」と呼ばれ、それは現在にいたるまでつづいている。
GHQは敗戦から2ヶ月後、1945年(昭和20)10月になって美術刀剣への理解が進んだものか、「骨董的価値のある刀剣は審査の上で保管を許可する」とし、GHQの嘱託組織である刀剣審査委員会が設置された。そして、1948年(昭和23)2月には東京国立博物館の傘下に、細川護立を会長とする(財)日本美術刀剣保存協会(日刀保)が設立されて現在にいたっている。
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刀剣観賞が趣味だったとみられる谷千城と川村景明だが、どのような作品を蒐集していたのかが興味深い。また、細川家所蔵の刀剣作品は、肥後細川庭園Click!(旧・新江戸川公園)にある永青文庫で展覧会が開催されるので、ときどき神田川沿いをブラブラ散歩がてら観賞しに出かけている。いつか、落合・目白地域の社(やしろ)や家々に伝えられた「名刀」(迷刀?含む)Click!をご紹介しているが、近々、同地域の徳川家や相馬家、津軽家、近衛家、細川家などで保存された、由緒由来のハッキリしている名刀類についてご紹介してみたい。
◆写真上:細川家の名刀展が開催される、散歩コースの肥後細川庭園・永青文庫。
◆写真中上:上左は、1900年(明治33)に設立される「中央刀剣会」の発起人となった犬養毅。上右は、公家ならではの刀剣類を所蔵していた下落合417番地の近衛篤麿。下は、下落合1218番地の谷千城(左)と、下落合1110番地の川村景明(右)。
◆写真中下:上は、現在は目白の和敬塾本館として使われている細川護立邸。中は、いまは八ヶ岳高原ヒュッテとして使われている目白町の徳川義親邸(提供:小道さんClick!)。下は、御留山にあった相馬邸の南東部にあたる居間(サンルーム/提供:相馬彰様Click!)。
◆写真下:上は、GHQの命令で行われた「刀狩り」。実施は短期間だったが、多くの作品が廃棄または海外へ流出した。中は、美術刀剣の保存に尽力した細川護立(左)と徳川義親(右)。下は、細川護立名義の一時代前に発行されていた日刀保の折り紙(鑑定書)。
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下落合378番地の御留山Click!に建っていた相馬孟胤邸Click!で、太素社(妙見社)Click!の祭礼Click!が行なわれた当日、武具蔵で公開・展示されていた刀剣類Click!についての記事を少し前に書いた。相馬邸ばかりでなく、下落合700~714番地の西坂にある徳川義恕邸Click!や、下落合1755番地の津軽義孝邸Click!、下落合417番地の近衛篤麿・文麿邸Click!(旧邸)などにも名作は保存されていただろう。武家ではない近衛家にも、1918年(大正7)の売立入札目録Click!から推測すると、古刀時代(慶長期以前)に近畿圏で活躍した刀工作品が何口か眠っていたのではないかと思われる。
だが、もともとが公家だった近衛家よりは、落合地域に隣接する目白の徳川義親邸Click!や細川護立邸Click!のほうが、武門の刀剣蒐集ではふたりとも特に名の知られた人物であり、圧倒的に充実したコレクションを収蔵していた。細川護立は戦後になると、東京国立博物館の外郭団体としてスタートした日本美術刀剣保存協会(日刀保)の会長に就任している。また、徳川義親Click!は1935年(昭和10)に徳川美術館(名古屋)Click!を設立しており、日本最大規模の刀剣蒐集とその展示は、同館の重要な学術研究部門となった。
下落合・目白界隈には、美術刀剣を趣味とし作品類を蒐集・保存に関連する人物たちが多く住んでいた。明治以降に廃刀令が発布されると、刀剣および刀装具を武器としてではなく、美術工芸品としてその技術とともに保存・継承していこうとする動きが、1900年(明治33)に“武”の中心地だった江戸東京で発生している。犬養毅Click!(美術刀剣会では瑠璃山人/無名堂主人)が発起人となり結成された「中央刀剣会」がそれだが、その呼びかけ人の中には下落合に住んでいた人物たちの名前が何人か見える。西坂・徳川邸Click!から同坂をはさみ、西側に建っていた下落合1218番地の谷千城Click!と、そのすぐ近くの安井息軒邸Click!の跡地に住んでいたとみられる下落合1110番地の川村景明Click!だ。
幕末から、すでに刀剣の軍事的な需要はほとんどなくなり、陸戦の主流は小銃と大砲に移行していた。それでも武士たちは、腰に刀剣を指していないと不安をおぼえ、銃砲の扱いの邪魔にならないよう短めの大刀に突兵拵え(とっぺいこしらえ)と呼ばれる、細いサーベルを収めるような特殊な外装を工夫・採用して帯刀していた。それだけ、刀剣に対する依存心が強かったのだろう。だが、実際の戦闘では刀を抜く以前に最新式の銃砲で勝敗が決してしまうため、一度も抜刀しないまま戦闘を終えるケースも出はじめていた。
少しだけ、東京の近代史のおさらいをしてみよう。江戸幕府が倒れ明治期がスタートすると、明治政府は軍隊以外の市民(武家や町人に限らず)が、もはや時代遅れとはいえ刀剣を指して出歩いているのが目ざわりとなり、いつ反抗の刃が薩長政府に向けられるか日増しに不安が高まっていった。まず1869年(明治2)に、森有礼が官吏と軍人以外は帯刀廃止を提案したが、刀剣に愛着のある武家が多かった公儀所で否決され、翌1870年(明治3)には江戸期は許されていた庶民Click!(農工商)の帯刀のみが禁止されている。
翌1871年(明治4)には、散髪脱刀令が布告され髷を落としたザンギリ頭に、刀を指さない無腰の新しい明治スタイルが推奨されている。つづいて、1872年(明治5)に公布された徴兵令によって武家や町人、農民の区別なく軍人に採用されることになり、彼らが武装して軍隊を組織する形式が常態化するにおよび、戦いが本分だった「武士」という特権階級の権威や存在理由が丸ごと否定された。こうして4年間の猶予期間を設けながら、1876年(明治9)に山県有朋Click!の主導で廃刀令が公布されることになる。
もっとも、刀鍛冶や金工師(刀装具職人)にしてみれば、江戸後期から注文がガタ減りになり貧乏生活Click!をつづけてきたわけで、かなり以前から「構造不況業種」の最たるものだったが、廃刀令のためにトドメを刺されたことになり、転職をする刀工や金工師が相次いだ。こちらでも何度かご紹介している江戸石堂派Click!の末裔である石堂運寿是一Click!や石堂是秀は、ハサミや小刀、包丁などを製造する刃物鍛冶に転業し、農具の鎌や鋤などを焼く野鍛冶へ転向する刀工も多かった。大慶直胤Click!の門人のひとりで、中村相馬藩の藩工だった慶心斎直正は、廃刀令が公布された直後に将来を悲観して自刃している。
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廃刀令をめぐり、新しい商売も生まれている。腰に刀を指さないと落ち着かない人々のために、剣客の榊原健吉は大刀のかわりに「倭杖」という重い木刀を、脇指のかわりに「頑固扇」という鉄製の扇子を、製品として売りだしヒットしている。また、名刀工の月山貞一は、さまざまな古作に似せた刀剣を焼いて、有名刀匠の偽名を茎(なかご)に彫っては飢えをしのいでいた。本人にしてみれば、自身の出来のいい作品に偽名を彫らなければならないという、思いだしたくもない時代だったろう。1906年(明治39)に帝室技芸員に選ばれるまで、月山貞一の屈辱的な苦難はつづいた。
ここでちょっと余談だが、鎌倉の相州伝刀工の銘が切られた、出来は非常にすばらしいが茎が新しく錆つけも不自然な偽名刀とみられる作品は、月山貞一の作品である可能性が高いため、偽作であるにもかかわらず高価で人気が高いという、おかしな現象まで生じている。そのほか、刀剣に直接かかわりのある職業、研師Click!や塗鞘師(木工漆芸師)、白鞘師、柄巻き師などは失業して零落し、その技術が滅びていくのは時間の問題だった。
一方、刀装具をこしらえていた金工師たちは、刀工たちに比べればまだ市場がめぐまれていたかもしれない。刀装具の注文はなくなったが、人気が高かった金工の置物や小物、タバコ用具、簪など髪飾り、アクセサリー、硯屏、花器などを制作し、国内外に技術の高さを誇っていた。むしろ、刀装具の形状に縛られず新しい商品で自由なデザインを試みられたため、江戸期よりも斬新で優れた作品を生みだしている。輸出も順調で、刀鍛冶ほど困窮することはなかっただろう。中でも名人とうたわれた、本来は刀装具の金工師だった加納夏雄や海野勝珉らは、東京美術学校Click!の教授に迎えられている。
このような時代状況を背景に、世界で日本にしか存在しないオリジナルの刀剣美術(技術)を後世に継承しようという動きが、明治末になってようやく活発化してくる。その先頭に立っていたのが犬養毅であり、下落合在住の軍人だった谷千城や川村景明らだった。下落合のふたりは江戸期からの武家なので、刀剣にはより身近な愛着を感じていたのだろうが、「中央刀剣会」のメンバーにはその出自や職業、身分の差に関係なく、刀剣美術(技術)が滅びる前に保存しようとする人々が参集している。
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以下、1900年(明治33)の犬養毅による中央刀剣会設立趣意書から引用してみよう。
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(前略) 文化、文政ノ際ニ及ビ、水心子正秀ナルモノ古法ノ久シク廃絶セルヲ歎キ、研鑽工夫殆ンド四十年を積ミ始メテ古法ノ一端ヲ発見シ大ニ復古ノ説ヲ唱フ。天保、弘化ノ交直胤(大慶直胤)、清麿(源清麿)ノ徒其ノ後ヲ継ギ盛ニ之ヲ鼓吹シ、四百有余年廃絶ノ真法漸ク再ビ世ニ明ナラントス。而シテ幾モ無ク明治ノ廃刀令ニ逢ヒ、天国以来ノ妙技此ニ至リテ復タ用ヰル所ナキニ至ル。/爾来今日ニ至ル僅ニ三十年間、海内幾百千ノ鍛工日ニ月ニ零落離散シ、僅ニ存スルモノモ亦老テ後ナカラントス。此ノ如キモノ独リ鍛工ノミニ非ズ。研師、鞘師、柄巻師ノ徒老練ノ名手年ヲ逐テ凋落シ、子弟ノ復タ其ノ業ヲ継承スル者アラズ。若シ今ニシテ之ガ保存ヲ謀ルニ非レバ、各種ノ工人其ノ師伝秘訣ト共ニ漸絶湮滅スルハ今ヨリ数年ノ中ニ在ラン。我邦千有余年ノ工夫経験ヲ以テ大成シタル宝器妙工、豈此ノ如ク棄テテ顧ミザルノ理アランヤ。吾輩窃ニ之ヲ憂フル久シ。因テ茲ニ別記ノ方法ニ依リ之ガ保存ヲ計ラント欲ス。海内同志ノ君子、願クハ我国固有ノ宝器独特ノ妙技ヲ保存スルノ趣旨ヲ以テ本会ヲ讃成シ、奮テ加盟アランコトヲ懇切希望ノ至ニ堪ヘザルナリ。(カッコ内引用者註)
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要するに、江戸後期になって古刀時代の優れた作品や鍛刀技術に学ぼうとする新々刀時代を迎え、水心子正秀一門(新々刀の祖/日本橋浜町)や大慶直胤一門(江戸後期きっての刀匠/下谷御徒町)、源清麿一門(四谷正宗/新宿四谷町)を輩出したが、せっかく探究された高度な作品や技術の伝承が廃刀令で絶えてしまうのは惜しい、日本刀はもはや武器ではなく美術品の範疇なのだから、なんとか後世にまでその作品や技術を伝承し保存できないものだろうか……というのが、その設立趣旨だった。
敗戦直後には、刀剣は武器であると一度は規定した、GHQによる刀剣没収・廃棄が行なわれている。このとき「廃棄」された刀剣の中には、名作がどれほど混じっていたのかは不明だが、米軍によって「土産」として持ちだされた作品の中には名品が多々あり、膨大な文化財が戦争で消滅あるいは流出したとみられる。戦後、しばらくしてから返還された刀剣は「里帰り刀」と呼ばれ、それは現在にいたるまでつづいている。
GHQは敗戦から2ヶ月後、1945年(昭和20)10月になって美術刀剣への理解が進んだものか、「骨董的価値のある刀剣は審査の上で保管を許可する」とし、GHQの嘱託組織である刀剣審査委員会が設置された。そして、1948年(昭和23)2月には東京国立博物館の傘下に、細川護立を会長とする(財)日本美術刀剣保存協会(日刀保)が設立されて現在にいたっている。
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刀剣観賞が趣味だったとみられる谷千城と川村景明だが、どのような作品を蒐集していたのかが興味深い。また、細川家所蔵の刀剣作品は、肥後細川庭園Click!(旧・新江戸川公園)にある永青文庫で展覧会が開催されるので、ときどき神田川沿いをブラブラ散歩がてら観賞しに出かけている。いつか、落合・目白地域の社(やしろ)や家々に伝えられた「名刀」(迷刀?含む)Click!をご紹介しているが、近々、同地域の徳川家や相馬家、津軽家、近衛家、細川家などで保存された、由緒由来のハッキリしている名刀類についてご紹介してみたい。
◆写真上:細川家の名刀展が開催される、散歩コースの肥後細川庭園・永青文庫。
◆写真中上:上左は、1900年(明治33)に設立される「中央刀剣会」の発起人となった犬養毅。上右は、公家ならではの刀剣類を所蔵していた下落合417番地の近衛篤麿。下は、下落合1218番地の谷千城(左)と、下落合1110番地の川村景明(右)。
◆写真中下:上は、現在は目白の和敬塾本館として使われている細川護立邸。中は、いまは八ヶ岳高原ヒュッテとして使われている目白町の徳川義親邸(提供:小道さんClick!)。下は、御留山にあった相馬邸の南東部にあたる居間(サンルーム/提供:相馬彰様Click!)。
◆写真下:上は、GHQの命令で行われた「刀狩り」。実施は短期間だったが、多くの作品が廃棄または海外へ流出した。中は、美術刀剣の保存に尽力した細川護立(左)と徳川義親(右)。下は、細川護立名義の一時代前に発行されていた日刀保の折り紙(鑑定書)。