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明治末から大正期にかけ、東京郊外に「遊園地」Click!と呼ばれる公園が造られたことは以前にご紹介している。「遊園地」は、今日の遊園地とは異なり子ども用のアトラクションがあるわけではなく、花壇や温室のある庭園、釣り堀、プール、料理屋や宴会場Click!、ときに音楽堂などがある、大人も楽しめる文字どおり「遊」びの「園」だった。
そんな遊園のひとつが、落合地域と野方地域にまたがる位置に開園していた。1923年(大正12)から、少なくとも1931年(昭和6)ごろまでの期間だ。当時、落合町の北西部は葛ヶ谷Click!と呼ばれており、そのエリアが西落合と呼ばれるようになるのは、東京市が35区制Click!に拡大した1932年(昭和7)からだ。それまでは、妙正寺川に架かる四村橋Click!(しむらばし)の西にあたる、野方町の片山側に突き出たエリアは江戸期からの上落合村飛び地で、字名は四村(のち西落合3丁目/現・西落合2丁目)と名づけられていた。
四村橋は、妙正寺川の西側に位置する上高田村と江古田(えごた)村、上落合村の飛び地である上落合村(字)四村、そして妙正寺川の東側にあたる葛ヶ谷村(のち西落合)の4村にかかるように設置されたのでそう呼ばれていたのだろう。現代では、片山村と上高田村、葛ヶ谷村、それに江古田村が接していたので4村と記した資料も見かけるけれど、実際に四村橋へじかに接していたのは、地籍からいうと葛ヶ谷村と上落合村四村(飛び地/のち西落合へ併合)と落合エリアの2村のみだ。
ほんのわずか南に離れて上高田村の村境があり、少し離れて江古田村と片山村の境界が周囲を囲むように引かれている。たとえば、1982年(昭和57)にいなほ書房から出版された細井稔・加藤忠雄『ふる里上高田昔語り』Click!(非売品)では、片山村と上高田村、葛ヶ谷村、江古田村の4村Click!が接していたから四村橋とされているが明らかに誤りで、同じ野方町側で1984年(昭和59)に中野区江古田地域センターから出版された『江古田今昔』の、上落合村(字)四村を含めた記述が正しい。すなわち、四村橋の4つの村とは①上落合村と②葛ヶ谷村、③上高田村、④江古田村(または④片山村)を指しているのだろう。
さて、その四村橋から妙正寺川を上流へ300mちょっとさかのぼると、片山村と江古田村を結ぶ街道に下田橋が架かっている。この下田橋と四村橋の間、妙正寺川の南岸に「野方遊楽園」と名づけられた遊園地が、1923年(大正12)になると開園している。野方遊楽園の敷地には、野方村(町)と落合村(町)の村(町)境が走っており、どちらの住民もこの遊園地ができるとこぞって利用したとみられる。当時、落合町の葛ヶ谷地域は東京府の風致地区(1933年指定で、できるだけ自然景観を保存する区域)に指定されており、また妙正寺川の北側に位置する和田山Click!には井上円了Click!の井上哲学堂Click!があったので、人を集める流行の遊園地を造るには最適な場所と考えられたのだろう。
遊園地内には、料亭や釣り堀、弓技場、ボート池、プールなどが設置されたが、なんといっても夏場に人気を集めたのが、妙正寺川の清流から引かれた水をたたえる「遊楽園プール」だった。当時の様子を、上掲の『江古田今昔』から引用してみよう。
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大正時代に江古田村と上落合にまたがった哲学堂(和田山)の南側に遊園地があった。/熊沢宗一氏著「かた山の栞」の記録によると、「大正十二年から昭和初期頃迄、数名の地主達によって、哲学堂を背景に妙正寺川の清流を引込んで、五十米プールと、四十間(約七十米)四方の大プール二か所を作り、それぞれに子供の水泳場と、舟を浮べて舟遊び池とした。(ママ:引用カッコ閉じず) その外に釣り堀り池や大弓場、水月料亭等を開店して、「野方遊楽園」と名付けた。/その当時、プール等は東京府内でも珍らしいので、盛夏になると大小のカッパ連で埋まる程の盛況であった。数年後、豊多摩刑務所が移転してきたり、関東大震災の後、城西方面に住宅が急に多く成り、その為河水も汚水の混入で水泳に適さなくなったので、たまたまオリエンタル写真会社の拡張もあり、其の工場敷地に貸与し、名残り惜しくも閉園の止むなきに至ったとある。
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1923年(大正12)に開園し、妙正寺川の汚濁のため数年で閉園したと書かれているが、地図上では1933年(昭和8)まで野方遊楽園を確認することができる。ただし、オリエンタル写真工業Click!が野方遊楽園の跡地へ第2工場の建設を開始したのが1931年(昭和6)なので、実際には開園から7年前後で閉園しているのだろう。閉園する際、料亭「水月亭」の建物だけは井上哲学堂に移築され、俳句などの集会場に使われていた。
当初、江古田(野方村)と上落合(落合村)で村境がまたがっているので、「数名の地主達」の中には上落合村側の地主も遊園地建設には参画していたとみられる。現在でも、同エリアには新宿区と中野区の区境が通っており、新宿区立妙正寺川公園には大雨のときなど妙正寺川の氾濫を防止する調整池が、中野区立妙正寺川公園には遊楽園プール跡に運動広場が設けられ、両公園は仲よく一体化して共存運用されている。
文中に、野方遊楽園が閉園した理由のひとつとして、「豊多摩刑務所が移転してきたり」と書かれているが、同遊園地から豊多摩刑務所Click!(のち中野刑務所)までは南西に直線距離で1km以上も離れており、それが閉園理由になったとは思えない。むしろ、四村橋のすぐ東側にあったオリエンタル写真工業の第1工場が手狭になり、また急速に普及しはじめたカメラとともに、市場ではフィルムの需要が急増して生産が追いつかず、大急ぎで第2工場の敷地を確保する必要に迫られていたとみるのが事実に近いだろう。「数名の地主達」にしてみれば、保守メンテが不可欠な遊園地で細々と稼ぐ売り上げよりも、成長がいちじるしいオリエンタル写真工業が提示する地代のほうが、はるかに魅力的だったのではないだろうか。
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野方遊楽園で、もっとも人気を集めた遊楽園プールの写真が現存している。それを見ると、プールはかなり広大で、写っているのは40間四方(70m×70m)のプールではないかと思われるが、プールと名づけられているものの実際はコンクリートで構築されたものではなく、水田を掘り下げて四角い池にしただけの造りだった。したがって、大勢で泳ぐと底の泥が舞いあがり、水がにごって泥水になったという証言が残っている。『江古田今昔』より、再び引用してみよう。
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そのプールに子供の頃よく泳ぎに行ったと言う人の話しによると……/プールといってもタンボを掘り下げて、廻りを板で囲った簡単な沼の様なものだった。/プールの底は土のままなので、皆で泳いだり水中でボチャボチャ騒いで居る内に、水が泥でにごって来る。余りにごりがひどく成ると係員が大きな声で、「おーい時間だぞ!、皆んなあがれ―!!」と、どなり続ける。/一斉に水から上ったフンドシ一つのカッパ達は、プールサイドで甲ら干しをした。/水の汚れが治まる(ママ)迄、何分間か休憩をした後で又泳いだ。一日に何回かそんなことを繰り返したことがあったと。
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おそらく、甲羅干しをして身体が乾いてくると、泥がついた肌がザラザラしただろう。また、水中にはたくさんの魚介類や水棲昆虫がいたのではないだろうか。
『江古田今昔』の引用に掲載された「熊沢宗一氏著『かた山の栞』」は、正式書名が1955年(昭和30)に出版された私家版『わがさと/かた山乃栞』(非売品)であり、面白そうなのでさっそく古書店で手に入れた。同書もそうだが、『ふる里上高田昔語り』なども同様に、隣接する町誌には落合地域についてのかなり詳細な事跡やエピソードが紹介されていることがある。たとえば、妙正寺川の水車橋近くにあった「稲葉の水車」Click!の経営や第2のバッケ堰についてなど、落合地域ではあまり記録されていない事跡が書かれていることが多い。それだけ、周辺地域との交流が深く、長くつづいてきたことの証左なのだろう。これからも落合地域ばかりでなく、ときおり周辺の町々に残る資料にも留意していきたい。
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1921年(大正10)から葛ヶ谷(西落合)で操業をつづけていたオリエンタル写真工業だが、空襲で本社・第1工場とオリエンタル写真学校は全焼したものの、野方遊楽園の跡地にできた第2工場は戦災をまぬがれ、戦後は第2工場でフィルムの生産が再開されている。
◆写真上:上流の下田橋から眺める、左岸が哲学堂公園で右岸が野方遊楽園跡。
◆写真中上:上は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる野方遊楽園ができる直前の様子。中は、1929年(昭和4)の「落合町全図」。「野方遊園」と書かれているが、プールは野方町側に描かれている。下は、1930年(昭和5)の1/10,000地形図。プールらしい大きな長方形は、野方側と上落合側をまたいで描かれている。地図の年度によって、採取されるプール形状が変化しているのは、コンクリートや石材で固定せず土を掘り下げただけの簡易構造なので、保守や拡張のため常に手を入れていた可能性がある。
◆写真中下:上は、昭和初期の撮影とみられる遊楽園プールの40間(70m)四方プールと思われる写真。中は、1933年(昭和8)の「淀橋区全図」に描かれた野方遊楽園のプールだが、すでにオリエンタル写真工業の第2工場が竣工していたはずで同遊園地は閉園していた。下は、1932年(昭和7)に撮影されたオリエンタル写真工業。手前の右手が本社と第1工場で、奥に見えている塔と煙突のある建物が第2工場。
◆写真下:上は、1935年(昭和10)ごろに撮影された空中写真にみる左手が井上哲学堂(北側)で、妙正寺川をはさみ右手がオリエンタル写真工業の第2工場(南側)。中は、オリエンタル写真工業本社(第1工場)の正門扉で『おちあいよろず写真館』(2003年)より。御殿場への移転作業中か、本社屋または工場建屋が解体されている様子がとらえられている。下は、1984年(昭和59)に刊行された『江古田今昔』(中野区江古田地域センター/左)と、1982年(昭和57)に出版された細井稔・加藤忠雄『ふる里上高田昔語り』(いなほ書房/右)。
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明治末から大正期にかけ、東京郊外に「遊園地」Click!と呼ばれる公園が造られたことは以前にご紹介している。「遊園地」は、今日の遊園地とは異なり子ども用のアトラクションがあるわけではなく、花壇や温室のある庭園、釣り堀、プール、料理屋や宴会場Click!、ときに音楽堂などがある、大人も楽しめる文字どおり「遊」びの「園」だった。
そんな遊園のひとつが、落合地域と野方地域にまたがる位置に開園していた。1923年(大正12)から、少なくとも1931年(昭和6)ごろまでの期間だ。当時、落合町の北西部は葛ヶ谷Click!と呼ばれており、そのエリアが西落合と呼ばれるようになるのは、東京市が35区制Click!に拡大した1932年(昭和7)からだ。それまでは、妙正寺川に架かる四村橋Click!(しむらばし)の西にあたる、野方町の片山側に突き出たエリアは江戸期からの上落合村飛び地で、字名は四村(のち西落合3丁目/現・西落合2丁目)と名づけられていた。
四村橋は、妙正寺川の西側に位置する上高田村と江古田(えごた)村、上落合村の飛び地である上落合村(字)四村、そして妙正寺川の東側にあたる葛ヶ谷村(のち西落合)の4村にかかるように設置されたのでそう呼ばれていたのだろう。現代では、片山村と上高田村、葛ヶ谷村、それに江古田村が接していたので4村と記した資料も見かけるけれど、実際に四村橋へじかに接していたのは、地籍からいうと葛ヶ谷村と上落合村四村(飛び地/のち西落合へ併合)と落合エリアの2村のみだ。
ほんのわずか南に離れて上高田村の村境があり、少し離れて江古田村と片山村の境界が周囲を囲むように引かれている。たとえば、1982年(昭和57)にいなほ書房から出版された細井稔・加藤忠雄『ふる里上高田昔語り』Click!(非売品)では、片山村と上高田村、葛ヶ谷村、江古田村の4村Click!が接していたから四村橋とされているが明らかに誤りで、同じ野方町側で1984年(昭和59)に中野区江古田地域センターから出版された『江古田今昔』の、上落合村(字)四村を含めた記述が正しい。すなわち、四村橋の4つの村とは①上落合村と②葛ヶ谷村、③上高田村、④江古田村(または④片山村)を指しているのだろう。
さて、その四村橋から妙正寺川を上流へ300mちょっとさかのぼると、片山村と江古田村を結ぶ街道に下田橋が架かっている。この下田橋と四村橋の間、妙正寺川の南岸に「野方遊楽園」と名づけられた遊園地が、1923年(大正12)になると開園している。野方遊楽園の敷地には、野方村(町)と落合村(町)の村(町)境が走っており、どちらの住民もこの遊園地ができるとこぞって利用したとみられる。当時、落合町の葛ヶ谷地域は東京府の風致地区(1933年指定で、できるだけ自然景観を保存する区域)に指定されており、また妙正寺川の北側に位置する和田山Click!には井上円了Click!の井上哲学堂Click!があったので、人を集める流行の遊園地を造るには最適な場所と考えられたのだろう。
遊園地内には、料亭や釣り堀、弓技場、ボート池、プールなどが設置されたが、なんといっても夏場に人気を集めたのが、妙正寺川の清流から引かれた水をたたえる「遊楽園プール」だった。当時の様子を、上掲の『江古田今昔』から引用してみよう。
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大正時代に江古田村と上落合にまたがった哲学堂(和田山)の南側に遊園地があった。/熊沢宗一氏著「かた山の栞」の記録によると、「大正十二年から昭和初期頃迄、数名の地主達によって、哲学堂を背景に妙正寺川の清流を引込んで、五十米プールと、四十間(約七十米)四方の大プール二か所を作り、それぞれに子供の水泳場と、舟を浮べて舟遊び池とした。(ママ:引用カッコ閉じず) その外に釣り堀り池や大弓場、水月料亭等を開店して、「野方遊楽園」と名付けた。/その当時、プール等は東京府内でも珍らしいので、盛夏になると大小のカッパ連で埋まる程の盛況であった。数年後、豊多摩刑務所が移転してきたり、関東大震災の後、城西方面に住宅が急に多く成り、その為河水も汚水の混入で水泳に適さなくなったので、たまたまオリエンタル写真会社の拡張もあり、其の工場敷地に貸与し、名残り惜しくも閉園の止むなきに至ったとある。
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1923年(大正12)に開園し、妙正寺川の汚濁のため数年で閉園したと書かれているが、地図上では1933年(昭和8)まで野方遊楽園を確認することができる。ただし、オリエンタル写真工業Click!が野方遊楽園の跡地へ第2工場の建設を開始したのが1931年(昭和6)なので、実際には開園から7年前後で閉園しているのだろう。閉園する際、料亭「水月亭」の建物だけは井上哲学堂に移築され、俳句などの集会場に使われていた。
当初、江古田(野方村)と上落合(落合村)で村境がまたがっているので、「数名の地主達」の中には上落合村側の地主も遊園地建設には参画していたとみられる。現在でも、同エリアには新宿区と中野区の区境が通っており、新宿区立妙正寺川公園には大雨のときなど妙正寺川の氾濫を防止する調整池が、中野区立妙正寺川公園には遊楽園プール跡に運動広場が設けられ、両公園は仲よく一体化して共存運用されている。
文中に、野方遊楽園が閉園した理由のひとつとして、「豊多摩刑務所が移転してきたり」と書かれているが、同遊園地から豊多摩刑務所Click!(のち中野刑務所)までは南西に直線距離で1km以上も離れており、それが閉園理由になったとは思えない。むしろ、四村橋のすぐ東側にあったオリエンタル写真工業の第1工場が手狭になり、また急速に普及しはじめたカメラとともに、市場ではフィルムの需要が急増して生産が追いつかず、大急ぎで第2工場の敷地を確保する必要に迫られていたとみるのが事実に近いだろう。「数名の地主達」にしてみれば、保守メンテが不可欠な遊園地で細々と稼ぐ売り上げよりも、成長がいちじるしいオリエンタル写真工業が提示する地代のほうが、はるかに魅力的だったのではないだろうか。
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野方遊楽園で、もっとも人気を集めた遊楽園プールの写真が現存している。それを見ると、プールはかなり広大で、写っているのは40間四方(70m×70m)のプールではないかと思われるが、プールと名づけられているものの実際はコンクリートで構築されたものではなく、水田を掘り下げて四角い池にしただけの造りだった。したがって、大勢で泳ぐと底の泥が舞いあがり、水がにごって泥水になったという証言が残っている。『江古田今昔』より、再び引用してみよう。
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そのプールに子供の頃よく泳ぎに行ったと言う人の話しによると……/プールといってもタンボを掘り下げて、廻りを板で囲った簡単な沼の様なものだった。/プールの底は土のままなので、皆で泳いだり水中でボチャボチャ騒いで居る内に、水が泥でにごって来る。余りにごりがひどく成ると係員が大きな声で、「おーい時間だぞ!、皆んなあがれ―!!」と、どなり続ける。/一斉に水から上ったフンドシ一つのカッパ達は、プールサイドで甲ら干しをした。/水の汚れが治まる(ママ)迄、何分間か休憩をした後で又泳いだ。一日に何回かそんなことを繰り返したことがあったと。
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おそらく、甲羅干しをして身体が乾いてくると、泥がついた肌がザラザラしただろう。また、水中にはたくさんの魚介類や水棲昆虫がいたのではないだろうか。
『江古田今昔』の引用に掲載された「熊沢宗一氏著『かた山の栞』」は、正式書名が1955年(昭和30)に出版された私家版『わがさと/かた山乃栞』(非売品)であり、面白そうなのでさっそく古書店で手に入れた。同書もそうだが、『ふる里上高田昔語り』なども同様に、隣接する町誌には落合地域についてのかなり詳細な事跡やエピソードが紹介されていることがある。たとえば、妙正寺川の水車橋近くにあった「稲葉の水車」Click!の経営や第2のバッケ堰についてなど、落合地域ではあまり記録されていない事跡が書かれていることが多い。それだけ、周辺地域との交流が深く、長くつづいてきたことの証左なのだろう。これからも落合地域ばかりでなく、ときおり周辺の町々に残る資料にも留意していきたい。
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1921年(大正10)から葛ヶ谷(西落合)で操業をつづけていたオリエンタル写真工業だが、空襲で本社・第1工場とオリエンタル写真学校は全焼したものの、野方遊楽園の跡地にできた第2工場は戦災をまぬがれ、戦後は第2工場でフィルムの生産が再開されている。
◆写真上:上流の下田橋から眺める、左岸が哲学堂公園で右岸が野方遊楽園跡。
◆写真中上:上は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる野方遊楽園ができる直前の様子。中は、1929年(昭和4)の「落合町全図」。「野方遊園」と書かれているが、プールは野方町側に描かれている。下は、1930年(昭和5)の1/10,000地形図。プールらしい大きな長方形は、野方側と上落合側をまたいで描かれている。地図の年度によって、採取されるプール形状が変化しているのは、コンクリートや石材で固定せず土を掘り下げただけの簡易構造なので、保守や拡張のため常に手を入れていた可能性がある。
◆写真中下:上は、昭和初期の撮影とみられる遊楽園プールの40間(70m)四方プールと思われる写真。中は、1933年(昭和8)の「淀橋区全図」に描かれた野方遊楽園のプールだが、すでにオリエンタル写真工業の第2工場が竣工していたはずで同遊園地は閉園していた。下は、1932年(昭和7)に撮影されたオリエンタル写真工業。手前の右手が本社と第1工場で、奥に見えている塔と煙突のある建物が第2工場。
◆写真下:上は、1935年(昭和10)ごろに撮影された空中写真にみる左手が井上哲学堂(北側)で、妙正寺川をはさみ右手がオリエンタル写真工業の第2工場(南側)。中は、オリエンタル写真工業本社(第1工場)の正門扉で『おちあいよろず写真館』(2003年)より。御殿場への移転作業中か、本社屋または工場建屋が解体されている様子がとらえられている。下は、1984年(昭和59)に刊行された『江古田今昔』(中野区江古田地域センター/左)と、1982年(昭和57)に出版された細井稔・加藤忠雄『ふる里上高田昔語り』(いなほ書房/右)。