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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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村山知義が好物のウナギとタヌキ。

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上落合源氏.JPG
 村山知義Click!は、小学生だった10歳のときに父親を亡くし、家の働き手がいなくなって家運が急速に傾いている。したがって、彼の好物だった鰻丼を食べる機会は減り、誕生日とかクリスマスなどの記念日を除いては口に入らなくなった。
 すると、箱に入れられたウナギだけの蒲焼きを、なんとなくもったいなく感じるようになり、蒲焼きの移り香と甘辛ダレが沁みこんだ飯がないと落ち着かないようになった。ごくたまに家で鰻丼をとったりすると、蒲焼きの下にある飯に自宅の残り飯をつぎ足しては、うまく甘辛ダレを混ぜ合わせて食べるのが、村山少年の無上の楽しみになっている。
 1947年(昭和22)に桜井書店から出版された、村山知義『随筆集/亡き妻に』Click!収録の「鰻と時代」から引用してみよう。
  
 子供の時から僕の大好物は鰻だつた。鰻丼とさへ聞けば、僕はもう上機嫌だ。やれ大和田の、やれ竹葉のと、面倒なことは云はない。鰻と名のつくものが蒲焼にしてさへあれば、もうそれで舌がとろけさうになるのだ。(ところで、こんなに大事な「うなどん」といふ言葉は、僕の自信ある発音に依ればウナのウにアクセントがあり、至急電報のウナ、あのウナのやうに発音するのだが、これだけは僕の知つてゐるどの江戸ツ子に聞いてみても一笑に附される。皆そりや極つてる、ナにアクセントがあるのだといふ。そしてさう云ふ彼等は江戸も下町生れのものだ。だから、山の手とは違ふのだらうと思つてゐるのだが――)
  
 わたしも、もちろん「ウドン」であり、「ナドン」とは発音しない。村山知義は神田末広町(現・千代田区外神田)の生まれだが、すぐに物心つくころから静岡県の沼津や東京の大森、日暮里(谷中)などへせわしなく転居しているので、そのいずれかの地域のイントネーションから影響を受けたものだろうか。
 彼は「山の手とは違ふのだろう思つてゐる」と書いているが、東京の乃手Click!でもまちがいなく「ウドン」だろう。村山家の家庭内だけで発音されていた、局地限定の「ナドン」ではないだろうか。もっとも、わたしが知らないだけで大森あるいは谷中のどちらかでは、ほんとうに「ナドン」と発音するのだろうか?
 村山知義は、特高Click!に逮捕されたあと未決のまま拘置所で食うウナギも、通常より美味に感じていたようだ。1940年(昭和15)8月、新協劇団の公演中に滝沢修Click!千田是也Click!久保守Click!らと三度めに検挙された彼は、判決が出るまでの1941年(昭和16)2月から1942年(昭和17)4月まで拘置所にぶちこまれていた。裁判の進捗を遅らせる、明らかに違法な「代用監獄」だとみられるが、特高は検挙や取り調べで人殺しをしても罰せられないような状況(全国で約200名が虐殺され1500名以上が拷問などで「獄中死」している)になっていたので、そのぐらいのことは問題にもならなかったのだろう。
 豊多摩刑務所Click!とはちがい、拘置所では「自弁」といってカネさえあれば差入屋へ弁当を注文することができた。戦時中であり、拘置所の食事だけでは確実に栄養失調になってしまうため、80銭を出して「中弁」を注文すると、たまに小さなウナギの蒲焼き(の欠片)が入っていた。脂肪のない、まるでドジョウのように細いウナギだったが、「何とうまかつたことだらう」と書いている。
 もっとも、共産主義や社会主義、自由主義、民主主義を問わず、思想犯への嫌がらせは拘置所内にもあり、「自弁」の申請が聞こえないふりをして注文させない、性悪な看守たちもけっこういたらしい。このあたり、急病人が出て医者を呼ぶよう申請しても聞こえないふりをしてシカトする、スターリニズムClick!下のソ連のラーゲリ(強制収容所)にいた看守たちとそっくりだ。拘置所でも監獄でも、栄養失調で死んでくれたほうが面倒がなく、手間がかからずにいいというような上部の意向を、看守たちが率先して“忖度”していたものだろうか。
うなぎ源氏.JPG
鶏鳴坂19450406.jpg
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 戦時中における官公庁の腐敗ぶりは、拘置所に出入りする「自弁」の差入屋にからめて村山も記録している。食糧はもちろん、世の中すべての物品が配給制Click!になっていた戦時中、統制価格を越えて物品を販売するのを取り締まる、「暴利取締令」が施行されていた。ところが、「自弁」の差入屋は市価の3倍ほどの値段で平然と販売していた。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 その未決拘置中、昭和十六年の四月に母が死んだので、葬式の当日、朝九時からその夕方の五時迄、外に出る事を許され、僕は家に帰つて母の棺の前に立つて、弔問者に礼をした。その時の昼飯に、うまくて安いので有名な近所の源氏といふ鰻屋から鰻丼が取り寄せられた。それは同じ八十銭だが差入屋のとは全く違つて、脂の乗つた鰻だつたが、一ト口でもう食べたくなかつた。しかしこの二つの鰻飯をくらべて見ると、あの当時の拘置所の差入屋は一般市価の三倍位の暴利をむさぼつてゐたことが明らかだ。暴利取締令違反の犯人を入れてをく拘置所の差入屋がこれだつたのだから、あの時代の官庁関係の紊乱は言外の沙汰であつたわけだ。
  
 もちろん、差入屋が暴利のすべてをそのままポケットに入れていたわけではなく、そのうちの少なからぬ割合の金銭を、拘置所の官吏たちが賄賂として受けとり、私腹をこやしていたのはまちがいないだろう。
 文中に登場する「源氏」は、1941年(昭和16)の当時は上落合の鶏鳴坂Click!沿い、早稲田通りに近い位置で大正期から営業していたウナギ屋だった。村山知義のアトリエから、西へ直線距離で340mほどのところ(上落合1丁目540番地あたり)にあったが、空襲で上落合が壊滅Click!した戦後は、上落合2丁目635番地(現・上落合3丁目)の上落合銀座通りへと移転し、現在も営業をつづけている。
 「鰻どころではなく、築地小劇場も宮川もM座も源氏も僕自身の家も、何もかも焼けてしまった」と絶望的に書いているので、「鰻と時代」が書かれた1946年(昭和21)2月の時点では、子どものころからのファンだったらしい根岸の「宮川」Click!も上落合の「源氏」も、いまだ復興していなかったのだろう。葬儀では、せっかく脂の乗った「源氏」の鰻丼が出たが、村山知義は母を喪った悲しみばかりで食べることができなかった。
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 さて、村山知義が生まれた神田区末広町34番地の家は、神田明神Click!裏(境内東側)の石段(男坂)を下りて御成街道(中山道のこと)へと抜ける途中にあった。その古い家には、タヌキとイタチが棲みついていたようだ。イタチは、池の金魚をとって食べてしまうので子ども心に凄惨なイメージをもったようだが、さすがに現在ではタヌキはともかく、神田にイタチは棲息していないだろう。タヌキは先年、新宿駅でも目撃されるぐらいだから、神田のどこに棲んでいてもなんら不思議はない。
 村山知義の連れ合い村山籌子Click!の故郷・高松は、町じゅうがタヌキだらけの土地柄だったようだ。彼女の実家の庭にも、「豆さん」と名づけられたタヌキが棲んでおり、5尺(約152cm)もある大きなタヌキの焼き物(おそらく信楽焼だろう)の腹に開いた穴を棲み家にしている。毎日、縁の下に赤飯や油揚げなどをそなえておくと、翌朝にはきれいになくなっていたらしい。「高松といふところは(中略)、恐ろしく狸が群集してゐたところ」と書いているので、彼が妻の実家へ遊びにいくと、よくタヌキの伝説やウワサ話を耳にし、実際にあちこちで目撃していたのかもしれない。
 タヌキが「群集」していたせいか、高松の土産ものに伝説にちなんだ「張り子の禿狸」というのがあり、村山知義はさっそく色分けされた何種類かの作品を蒐集している。高松の郷土玩具になっている「屋島禿狸」は、佐渡島の「団三郎狸」と淡路島の「芝右衛門狸」と並び「日本三狸」と呼ばれるほど有名だ。だが、これら「禿狸」コレクションも1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲で、上落合のアトリエとともに灰になってしまった。「この廃墟の中から、再び狸の伝説が蘇へつてくるであらうか? それともB29の爆弾と一緒に滅亡してしまふだらうか」と書いている。
 彼が焦土と化した上落合に立ったとしても、もう少し近くの森や寺社の境内、あるいは焼け残った下落合や西落合の住宅街などを注意ぶかく観察していれば、落合地域のあちこちでタヌキの姿を目撃することができただろう。すでにイタチは絶滅していたかもしれないが、屋根裏に棲み電線をわたるハクビシンは見つけられたかもしれない。
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 村山知義はこのエッセイの冒頭で、「敗戦を契機として、今迄立派なものや、美しいものやに化けてゐたたくさんの狸といたちが、化の皮を剥がれた」と書きだしている。このような軍国主義者や「亡国」論者、エセ「ナショナリスト」や国家を滅亡させたエセ「愛国者」たちは絶滅してほしいものだが、下落合(上落合や西落合にも?)に生息するタヌキたちには、いつまでも生き残っていてほしい。ちなみに、わたしの家の周囲には毎年3~4頭のタヌキたちが姿を見せるが、彼が書いているように決して「化け」ることなどない。w

◆写真上:古くから上落合で営業していた、村山知義が好物の鰻屋「源氏」の蒲焼き。
◆写真中上は、戦後は上落合銀座通りへ移った「源氏」の現状。は、空襲直前の1945年(昭和20)4月6日に撮影された空中写真にみる鶏鳴坂とその周辺。は、村山知義が谷中時代からの贔屓店だったとみられる根岸「宮川」の蒲焼き。
◆写真中下:ブラブラ散歩で立ち寄る、落合地域の周辺にある鰻屋。からへ、南長崎の「鰻家」、雑司ヶ谷の「江戸一」、高田馬場の「愛川」と「伊豆栄」、馬場下町の「すゞ金」。COVID-19禍のせいで、休業または出前と持ち帰りだけのところも多い。
◆写真下は、神田明神脇にあるバッケ階段(男坂)。は、下落合のタヌキたち。
おまけ
 うちのヤマネコは、普段はこんなありさまだが(ジャマ!)、タヌキを見ると咆哮を発して敵愾心をMAXにする。御留山にいた小さいころ、最大の競合相手だったのだろうか。
ヤマネコ.jpg

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