拙ブログのスタートから今年で17年目になるが、先週末、訪問者数がのべ2,000万人を超えた。あまりにも膨大なPVなので、もうひとつ実感が湧かずボンヤリするしかないのだが、フォロワーの多い人気のSNSやYouTuberならともかく、これほど地域色が強く非常に地味なサイトのPVにしては、やはり不思議だし少し気持ちが悪い。あまり深く考えるのはやめて、ここは落合・目白地域の好きな方、ひいては江戸東京の好きな方々が何度も訪れては、拙記事を参照してくださっている……と素直に考え、もう少し書きつづけたいと思う。
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さて、きょうは2,000万PV記念ということで、江戸東京の“お遊び”について取りあげてみたい。美術をはじめ芸術を“遊び”ととらえるなら、「いつも、そのテーマで書いてるじゃん」ということになるけれど、今回は美術ゲームの“遊び”について。
江戸期から武家や町人を問わず、現在までつづいてきた“お遊び”のひとつに「入札鑑定会」がある。落合・目白地域には、美術刀剣を趣味にする人たちがたくさん住んでいたので、戦前まではあちこちでこのゲームが開かれていたのではないだろうか。わたしもときどき、丁子油など手入れ道具でお世話になる、1880年(明治13)創業の下落合の刀剣店・飯田高遠堂さんは、だからこそ現在まで営業をつづけてこられたのだろう。
いつかもご紹介Click!したけれど、入札鑑定会とは刀剣の茎(なかご:柄の中に収まる刀身の手持ち部分)の銘を隠して刀工銘を当てさせる、美術品や骨董品ではよく行われているブラインドテストのようなゲームだ。つまり、どれだけ作品について見る眼=鑑識眼があるかを試し競いあうゲームだが、裏返せば自身の観賞眼を養い育てるには最適な、実地の模擬テストのような催しでもある。
入札鑑定会は、「判者」と呼ばれる主催者(ないしは講師のように招かれた鑑定士)が蒐集している手持ちの作品、あるいは鑑定会用に借りてきた5~10振りの作品を並べ、刀剣の柄に収まる茎の部分を白鞘のまま、あるいは刀身のみの場合は銘の切られた部分を布などで厳重に覆い隠して、参加者たちに刀工銘を当てさせるゲームだ。参加者は、出品された刀剣の体配(刀姿)や刀身(地肌)の色つや、目白(鋼)Click!の折り返し鍛錬の模様、刃文、鋩(きっさき)の形状や帽子(ぼうし:刃文の返り方)などを仔細に観察し、自分がこれだと思う刀工銘を書いて紙片を判者にわたす、すなわち入札する。
このゲームは、江戸期には刀が好きな武家の屋敷で、あるいは刀剣が趣味の町人宅で、さらに販促プロモーションの一環として刀屋などで開かれていた。町人は、大刀を指して歩くのは幕府に禁じられていたが、自宅に所有するのは「勝手」であり、また2尺(約60.6cm)以下の脇指なら指して出歩けたので、おカネに余裕のある商人たちの間でも鑑定ゲームは急速に広まっていった。さらに、江戸も後期になると刀剣鑑賞の趣味が拡がり、武家や町人をまじえてのいわば芝居連や長唄連などと同じような同好会ができて、身分にとにわれない連中(同好会員のこと)による無礼講の鑑定・鑑賞会も開催されていた。もちろん、裕福な町人たちのもとには出来のよい刀剣作品が集まりやすくなったためで、武家がそれを鑑定会などで拝観するというアベコベの世の中になっていた。
さて、入札鑑定会で茎(なかご)を白鞘の柄のまま提示するのは、いまや刀剣趣味の常連や上級者向けの鑑定会で、銘の部分だけ布などを巻いて隠すほうが比較的やさしく(江戸期にはこのやり方が多かったようだ)、初心者向けの鑑定会といえるだろうか。なぜなら、刀剣の茎は刀工の特徴が色濃くあらわれている部分であり、茎の形状をはじめ、そこにほどこされた化粧鑢(けしょうやすり)による鑢目のデザイン、茎尻と呼ばれる茎の先のかたち、錆(さび)のつき方(経年)などで、かなり時代や刀工を絞りこめてしまうからだ。
たとえば、茎のかたちが舟形(ふながた)をしており、茎尻が入山形(片山形)で化粧鑢が筋違(すじちがい)であれば、まず鎌倉期から室町期にかけての相州伝鍛冶を疑えるし、茎が鰱腹(たなごばら)形で茎尻が入山形ないしは栗尻形なら、まっ先に室町末期から江戸期にかけ伊勢桑名で鍛刀していた千子一派、中でも村正や正重、正真の系統を疑えるというように、ほぼ地域や刀工の一派(工房)をピンポイントで特定できてしまうからだ。もっとも、こんな簡単な問題は、おそらく入札鑑定会では出ないだろうが……。
鑑定会の参加者が、判者に入札した答えが正解であれば「当(あたり)」という回答をもらえるが、「当」でない場合はハズレではなく、もう一度考え直して絞りこめるようにヒントを与えてくれる。チャンスは三度まで、つまり3回までは入札を繰り返せるが、それでも的中できなければ鑑識眼がいまだ未熟だということになってしまう。
たとえば、入札して「同然」という回答があったとすれば、先の例でいうと「村正」と書いて判者から「同然」と回答があったなら、じゃあ同じ千子一派の作が似ている「正真」かな……と推定することができる。また、以前の記事Click!でいえば会津の「國定」と書いて「能候(よくそうろ)」となれば、これは同じ国の別の刀工一派だよということで、造りが近しい会津の「兼定」にちがいない……ということになる。あるいは、中村相馬藩の「國貞」だと入札して「通(とおり)」と回答されれば、同じ奥州街道沿いにある別の国の刀工、たとえば仙台の「正繁」あたりかな……と再考できるし、これは相州伝の「志津三郎兼氏」にそっくりなのでそう入札すると「時代違(ちがい)」という回答で、ついでに「そんな国宝に近い作品が、ここの鑑定会に出るわけないじゃん。この作品も超貴重だけどさ」と判者いわれたら、地鉄も新しいし研ぎ減りもほとんどないから四谷正宗Click!の「清麿」で再入札とか、判者との間のやりとりも楽しめるゲームなのだ。
ただ、上記は単純にわかりやすくするために例として書いたケースで、たとえば「千子村正」なら何代の作品か、あるいは室町期の作なのか江戸期の作品なのかと、よりシビアな上級者向けの鑑定会もあることはお断りしておきたい。先のように、入札して「時代違(じだいちがい)」と回答されたら、そもそも室町期(慶長期)以前の古刀と江戸期(慶長期)以降の新刀とを取りちがえているよという意味だし、濤瀾刃だから「二代・津田助廣」だろうと入札したら「否縁(いやえん)」と回答され、「ひょっとすると越前守助廣の焼き刃を再現した江戸の水心子正秀Click!の新々刀? でも、流派が同じだとはいえないしなぁ」と、別の角度から作品を推理することができる。
また、江戸の「石堂是一Click!」だろうと入札したら「本国能候(ほんごくにてよくそうろう)」と回答され、じゃあ近江が出自の大坂石堂か紀州石堂あたりかなというように、刀工が分派する以前の国だけは合ってるよという意味になるし、この焼き刃は「越前下坂」だと入札したら「出先能候(でさきにてよくそうろう)」という回答なので、じゃあ越前から江戸にやってきて徳川幕府お抱えになった「康継」あたりしかいないじゃんとなる。最後に、まったく見当ちがいの入札で、どうにも救いようのない鑑定結果の場合は「否(いや)」と回答され、もっと勉強しなさい……ということになる。
古刀や新刀、新々刀を問わず、刀剣には必ず刀工や鍛刀法(伝)、流派などの技術的な特徴(法則性)があるので、刀の体配(姿)や地鉄、鎬の造り方、刃文、帽子の返り方、樋、彫刻、茎(鑑定会で一部を見せてくれれば)などを詳しく観察し記憶すれば、1回の入札で当てられなくても3回ほど繰り返せば「当」をもらうことは困難ではない。ただし、そのためには数多くの美術館や博物館の刀剣展に通い、実物を数多く鑑賞しなければならないのは、あらゆる美術品と同様にある程度根気と積み重ねが要求される趣味だ。
ただし、入札鑑定会ならではの弱点もある。「当」がよく出るようになると、自分にはかなり深い鑑識力や審美眼が備わった……と錯覚しがちなことだ。考えてみれば、入札鑑定会に出品される刀剣は、できるだけ特徴が出やすくわかりやすい作品をあらかじめ選んで、さまざまなレベルの愛刀家たちを集めて行われる。つまり、初心者には難しいが上級者には比較的たやすく「当」がとれるという意味では、実力が中レベルの入札者を想定して作品をそろえる傾向が見られる。換言すれば、入札鑑定会で「当」が多くなるということは、ようやく鑑定の基礎ができたぐらいに解釈しておかないと、鑑識力や審美眼がそれ以上深まらなくなってしまうというデメリットが生じてしまう。
このデメリットは、すでに戦前から頻繁に指摘されていた課題でもある。1939年(昭和14)に岩波書店から出版された、本間順治『日本刀』から引用してみよう。
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これは(入札鑑定会は)興味を感じつゝ鑑定の稽古となることとして考へられたことで、慥かに益もあることであるが、現在の返答規則では学問的見地からは初学者には勧め兼ねるものがある。(中略) 個名までを信念を以て当てることは容易でないのであるが、入札刀を選ぶ楽屋の手加減と誘導的の返答の結果はさまで苦労もせずして個名までを的中することとなり、そこで宛も個名の特色を会得したかの陶酔気分になる。然し後に省れば当時は系統の特色を捉へてゐたに過ぎなかつたので、偶々知つてゐた一つの名を云つたら当つてきたと云つたやうに微苦笑的の経験が愛刀家には多いことであらう。かくして自然に系統や時代の特色をも覚える、それでもよいのかも知れぬが、自分が提案したいのは、初学者には先ず時代と系統の特色を十分に教へ、それの復習として入札鑑定でも、まづ(ママ)時代と系統のみを当てさせ、高等科の人々にのみ個名までの入札をさせ、而して時代と系統の相違には罰点を与えること、たとひ(ママ)個名は当らずともその作の出来より見て尤もと思はれるものには点を与へることである。(カッコ内引用者註)
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著者は「学問的見地」と書いているけれど、趣味を単に楽しむだけでなく学問・研究レベルにまで高めたいのであれば、上記のように地道に努力する姿勢がとても大切だろう。ただ、美術はどの分野も限りなく奥が深いので、最初はちょっと趣味で楽しむだけと思っていたのに、だんだんそれでは飽き足らなくなってのめりこみ、ついには専門書を片端から読みはじめる……なんてことが起きるのもまた、物好きな趣味の世界なのだ。
現在、全国で行われている入札鑑定会はほとんどヲジサンばかりの参加者で、若い刀女子には参加しづらいかもしれない。だから、美術館や博物館の展覧会が女子であふれるのだろうが、やはり実際に手にとり間近で観賞しないとわからないことがたくさんある。そういう女子には、刀剣鑑賞会というのが各地で開かれているので、気軽に参加してみるのも面白いだろう。実際に作品を手にとって、鋩の帽子から茎のすみずみまで観察・観賞することができる。いまどきの女子の体格や筋力であれば、大刀の重さもそれほど苦にならないだろう。ただし、あらかじめ刀の扱い方をきちんと勉強して、くれぐれもケガをしませんように。アニメや時代劇のように刀が扱えるなどと思っていては、大まちがいを犯すだろう。
◆写真上:目白通り沿いの下落合にある、今年で創業141年の刀剣店「飯田高遠堂」。
◆写真中上:上は、舟形の茎が特徴的な室町末期の「相州正廣」。中は、鰱腹形の茎ですぐわかる相州伝系で伊勢桑名に住んだ千子一派の初代「村正」。芝居や講談で村正は有名だが、美術刀剣としての価値はあまり高くない。下は、美濃鍛冶の後代「志津兼氏」。
◆写真中下:上は、浜辺にうねり寄せる波を連想させる濤瀾刃で有名な大坂の「津田越前守助廣」(二代助廣)。銘が近衛草書体で丸っこくなっているので、1674年(延宝2)以降に制作された「丸津田」と呼ばれる作品。中は、備前伝の互(ぐ)の目丁子乱れ刃が特徴的な江戸赤坂に住んだ初代「石堂是一」。下は、江戸幕府の抱え刀工だった越前下坂が故郷の三代「越前康継」。幕府御用のため、茎に葵紋を切ることが許されていた。
◆写真下:上は、入札鑑定会の会場で茎の白鞘が外されないまま並べられた作品類。中は、戦前の代表的な刀剣書籍で、1939年(昭和14)に岩波書店から出版された本間順治『日本刀』(左)と、1934年(昭和9)に雄山閣から出版された『日本刀講座』(雄山閣編・全20巻/右)。下は、若い刀女子にも気軽に参加できる刀剣鑑賞会。
★おまけ
ケキョケキョばかりだった下落合のウグイスが、ようやく上手にさえずるようになった。
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