1945年(昭和20)8月6日午前8時15分、蚊帳の中で寝ていた朝寝坊な大田洋子Click!の頭上600mで、B29「エノラ・ゲイ」から投下された原子爆弾が炸裂した。東京から郷里に疎開してきて、7ヶ月めのことだった。彼女はこの日から数日間、広島市街で目撃したことや起きたことなど、かつて見たこともない未曽有の惨状を、常に自身も原爆症におびえながらつぶさに脳裏へ刻みつけ、記録しつづけることになる。
それまで、東京での大田洋子は相変わらず周囲から、「鼻もちならない」(『草饐-評伝大田洋子』)性格の人物だとみなされていた。1940年(昭和15)1月に朝日新聞社の懸賞小説に『桜の国』が1等当選し、賞金の1万円を手にすると渋谷区幡ヶ谷に一戸建てをかまえている。母親と女中の3人で暮らしていたこの家に泥棒が入ると、大田洋子は「家の中の事情をよく知る人物の犯行ではないか」と警察に吹聴し、文学やマスコミの関係者から出入りの商店の店員までが、きびしい取り調べの捜査対象となって顰蹙をかっている。犯人が逮捕されると、まったく彼女の知らないプロの泥棒だった。
大田洋子は、この泥棒騒ぎをきっかけに被害者意識と恐怖感・不安感が高まり、近所の知り合いの主婦や知人の学生、はては愛読者たちまで動員して、夜間の警備をするよう頼んでいる。また、彼らには自身のことを「先生」と呼ぶように指示している。彼女の中に、名の知られた作家だという特権意識が大きくふくらみ、周囲を見くだし睥睨するようなより傲慢で横柄な態度が、以前にも増して表面化していった。
1971年(昭和46)に濤書房から出版された、晩年を大田洋子といっしょに書生として暮していた、江刺昭子の『草饐―評伝大田洋子―』から引用してみよう。
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泥棒に入られる前からだったが、洋子のところに来る手紙には、「一と目でいいからお顔を拝見したい」、「お給料はいらないから住みこみで働きたい」という憧れ型が多い。これではまるで女優かなにかに対する騒ぎのようである。さすがの洋子も、「私は女優ではない、作家だ」などといきまいているが、悪い気はしなかったらしい。この頃から洋子の作家気取り、私は有名な作家なんだ、という歪んだ特権意識が目立ってきて、周囲から鼻もちならない女だと言われるようになる。他人を高みから見下すくせは、以前から洋子にあったが、あたるべからざる勢いのときだけに、よけいにいやみにみえる。それは、日本が太平洋戦争に入っていった頃にもあらためられなかった。
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ちょうどそのころ、淀橋区柏木1丁目142番地の足立ハウスに住んでいた、平林たい子Click!が大田洋子を訪問している。「豪華な金蒔絵の桐の胴丸火鉢、着物をたたまずに入れられるような大型の箪笥、ひらひらの長い大暖簾等々で飾り立てられた優美な部屋で、彼女は二つ三つ持っている小説の構想をすすめようとしていた」が、すでに自由に作品を書ける状況ではなくなっていた。「草月流の生け花」の裏ではツギハギだらけの襦袢を干しており、飾り立てた部屋の陰では配給になったサツマイモを細かく刻み人の見えないところで干していたと、平林たい子は皮肉たっぷりに書きとめている。
1944年(昭和19)になると、大田洋子への原稿依頼はなくなり、幡ヶ谷から練馬のアパートへの転居後、翌年の1月に故郷の広島へ疎開している。そして、彼女の運命を激変させてしまう8月6日の朝を、白島九軒町の寝床の中で迎えた。
彼女の周囲では、熱線の火傷や水平に突き抜けたガラスによる切り傷がひどい人間も、とりあえず外見的には無傷に見える人間も、次々と死んでいった。大田洋子は、原爆による被曝(放射線障害)と真正面から向きあわざるをえない、人類初の作家のひとりとなった。その瞬間の様子を、原稿用紙がないため避難先で障子紙の切れはしやちり紙などに書きつづけ、1945年(昭和20)11月に脱稿した『屍の街』から引用してみよう。
ちなみに、出典は2011年(平成23)に集英社から出版された、「戦争×文学」シリーズ19巻の『ヒロシマ・ナガサキ』収録の完全版から引用している。
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私は蚊帳のなかでぐっすりねむっていた。(中略) そのとき私は、海の底で稲妻に似た青い光につつまれたような夢を見たのだった。するとすぐ、大地を震わせるような恐ろしい音が鳴り響いた。雷鳴がとどろきわたるかと思うような、云いようのない音響につれて、山上から巨大な岩でも崩れかかってきたように、家の屋根が烈しい勢いで落ちかかって来た。気がついたとき、私は微塵に砕けた壁土の煙の中にぼんやりと佇んでいた。ひどくぼんやりして、ばかのように立っていた。苦痛もなく恐駭もなく、なんとなく平気な、漠とした泡のような思いであった。朝はやくあんなに輝いていた陽の光は消えて、梅雨時の夕ぐれか何かのようにあたりはうす暗かった。(中略) 微塵に砕けた硝子や、瓦のかけらの小山があるだけで、蚊帳や寝床さえもあと形もなかった。
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このとき、「苦痛もなく恐駭も」なかった大田洋子は、原爆の放射線を浴び身体のあちこちをガラスの破片で切っていたが、その痛みを感じないほどなにが起きたのかわからない呆然自失の状態だったと思われる。外を見やると、周囲は家々の残骸で埋まり、八丁堀の中国新聞社や流川町の放送局など、ふだんは見えない遠くの町々までが見わたせた。
火災から避難する途中、大田洋子はあたりに折り重なる膨大な死体や被爆の惨状を、ときおり立ちどまりながら仔細に観察し、熱線で大火傷を負った妹から「書けますか、こんなこと」と問われ、「いつかは書かなくてはならないね。これを見た作家の責任だもの」と答えている。彼女は「いつか」書くといっていたが、いつ髪の毛が抜け血を吐くかわからない死と紙一重な身体におびえながら、避難先で鉛筆を借りると憑かれたように、黄ばんだ障子紙やちり紙に8月6日の惨状を記録していった。それは小説ではなく、むしろ精緻なルポルタージュあるいは記録文学と呼ばれるような作品だった。
大田洋子は、1945年(昭和20)11月、死の影に追いかけられるように被爆後わずか4ヶ月で『屍の街』を脱稿しているが、初めて出版されたのは1948年(昭和23)の中央公論社からの単行本だった。ただし、米軍(おそらくGHQのCICかG2の情報機関Click!だろう)の検閲により大幅な削除をよぎなくされ、短縮版とでも称するような無惨な内容になっていた。
大田洋子が、自身の原爆体験を克明に書きとめているとの情報が(どこにも発表していないのに)GHQに伝わり、おそらく情報部の内部ではCICではなく、さまざまな謀略事件Click!で主導権を掌握しはじめていたG2Click!が手をまわしたのだろう、彼女への恫喝のために米軍将校が避難・療養先まで派遣されている。
戦前から戦中にかけ、大田洋子はおしなべて軍国主義には“無害”で、国策とは対峙しない作品を書いていたせいか、特高Click!から弾圧されることはなかったが、敗戦後、なんでも自由に執筆できる時代を迎えると同時に、米軍から直接圧力や検閲を受ける作家になっていた。大田洋子に対する米軍の情報将校の尋問は、長時間にわたりかつ執拗だった。そのときの様子を、前出の『草饐―評伝大田洋子―』から引用してみよう。
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(『屍の街』が)掲載されていないのにどういう事情でかぎつけたのかわからないが、二十二年の初め頃、呉の諜報部から日本人通訳と二世の将校が、広島の山奥の玖島村にいる洋子のもとにやってくる。そして訊問が始まる。このときの様子は「山上」(二八・五『群像』)に詳しい。あなたの書いた原稿は誰と誰が読んでいるか、それを読んだ編集者はどんな思想と主義を持っているか、その原稿を日本人のほかに外国人の誰かが読んだか、八月六日以後あなたは広島の街を歩いたか、あなたのその原稿に原子爆弾の秘密が書かれているか、と淡白だが長い訊問が続く。(カッコ内引用者註)
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このあと、情報将校は「原子爆弾の記憶を忘れろ」すなわち「書くな」「記録するな」と何度も恫喝するが、大田洋子は「忘れることはできないと思います。忘れたいと思っても、忘れない気がしています」と、米軍の要求を拒否している。
いまだ未発表だった大田洋子の『屍の街』を、米軍がすでにかぎつけていたということは、1947年(昭和22)を迎えるころには、原爆の詳細を広く公開しないよう抑圧する目的で、米国の工作員が情報収集のため広島へ大量に入りこんでいたとみられる。それは、別に米国人に限らず、免責を条件に米軍のスパイになった元・軍人や元・特高など、きのうまでは「一億玉砕・撃チテシ止マム」を叫んでいた日本人Click!たちだった可能性が高い。
朝鮮戦争が勃発した1950年(昭和25)5月、米軍による検閲なしの完全版『屍の街』が、初めて冬芽書房から出版された。脱稿から、すでに5年の歳月が流れていた。「原爆小説」を次々と発表していく大田洋子は、このころから睡眠薬と鎮静剤の依存症になり、不安神経症がこうじて入退院を繰り返している。すると、ほどなく「大田洋子は原爆を食いものにしている」というような非難があびせられるようになった。以前から、傲岸不遜な彼女の性格や言動のせいもあったのだろうが、当時のさまざまな事実が米国国立公文書館などで公開されている今日の視点から見ると、これ以上「原爆」の被害について執筆させないよう、マスコミにまぎれこんだ米国の言論工作員(スパイ)が意図的にバラまいた、大田洋子に対するネガティブキャンペーンの一環のように見える。
◆写真上:米公文書館で情報公開された、広島市上空で原爆が炸裂した直後のキノコ雲。
◆写真中上:上は、1950年(昭和25)に冬芽書房から初めて完全版が出版された大田洋子『屍の街』(左)と、自身の被爆体験を語る大田洋子(右)。下は、1971年(昭和46)に濤書房から出版された江刺昭子『草饐―評伝大田洋子―』(左)と大田洋子(右)。
◆写真中下:上は、原爆投下から2日後の1945年(昭和20)8月8日にF13Click!によって撮影された広島市白島九軒町の惨状。眼下に見える二又川(京橋川)の河原のどこかに、大田洋子と母親や妹たち家族もいるはずだ。中・下は、広島城から見た白鳥方面(北北東)の様子。コンクリート建築を除き、山裾までが一面の焦土で住宅が1棟も見えない。
◆写真下:上は、下落合の北隣りにあった長崎アトリエ村=さくらヶ丘パルテノンClick!で暮らした丸木位里Click!・丸木俊(赤松俊子)Click!夫妻の制作よる『原爆の図/第八部』(部分/1954年)。中は、1961年(昭和41)制作のイヴ・クライン『ヒロシマ(自家態測定79)』(部分)。下は、61歳で取材旅行中に急死する晩年の大田洋子。57歳で死去とする資料は多いが、年齢を常に3~4歳サバ読んで周囲に語っていたことがのちに判明している。