先年、行政機関の中でハンコ(印判)を使わずに業務を遂行しようとする動きが、国内外で話題となった。特に海外では、「ハンコってなに?」という疑問や興味とともに、「日本の行政では、FAXとハンコがないとワークフローを形成できない」と笑い話のネタにされ、特にネットでは世界じゅうのメディアで深刻なCOVID-19禍の中でも、かろうじて笑える数少ない話題として紹介されたばかりだ。
日本の民間企業でさえ、早い社では20年以上も前から解消されていたテーマ(課題)だが、いまだ行政機関ではあたりまえのこととして常態化している事実を、世界じゅうのマスコミが笑い話のネタとして紹介するのも無理からぬことだと思う。だが、ハンコをできるだけ廃止したことで仕事のスピードが向上し、業務の効率化が進みつつある……ということだけで、この話が終わってやしないだろうか?
ハンコ廃止の本質的なテーマは、実は「申請業務の簡易化や円滑化」あるいは「官公庁内における業務のスピードアップと効率化」にあるのではない。民間企業では、20年ほど前に推進されたハンコの廃止は、それによって稟議の巡回ルートの見直しや稟議を承認する人物、すなわち社内における役職の見直し=組織の再編に直結するテーマだったのだ。その重要な“気づき”(近ごろアウェアネスと横文字をつかう人が急増している)により、事業の意思決定者(事業部長=マネージャー)と仕事の現場(チーム)だけで、ICTによるトップダウンやボトムアップなど迅速なコミュニケーションの仕組みを整備さえすれば、業務がスムーズかつスピーディにまわることが明らかになってしまったのだ。
換言すれば、事業全体の承認・決裁をつかさどり案件を仕切るマネージャーと、業務またはプロジェクトを推進する現場のチーム(責任者はチームリーダー)のみがいれば、それまで稟議のハンコを延々と押してまわっていた中間管理職たち、すなわち部長、部長補佐、副部長または次長、課長、課長補佐、係長、主任などなどの役職の面々が、実は業務スピードの遅延を招来し、他社(他組織)との競争力を低下させるだけの存在であり、「いらない」ことが可視化され経営的な“気づき”にまで発展してしまったのだ。こうして、多くの企業ではマネージャーとプロジェクトチーム(リーダー含む)のみで、ほとんどの仕事が迅速にまわるよう機動的で身軽な組織づくりがあたりまえになった。
ハンコの廃止に、行政組織が20年以上にわたって反対してきた本質的な理由が、もうおわかりかと思う。つまり、「いらない」人がワークフロー上で可視化され、組織全体までリストラクションの波が拡がるのを、絶対になんとしてでも阻止しなければならなかったのだ。それほど、官僚組織のヒエラルキーは絶対であり、不変のものとして保守・維持しなければならならないテーマだった。それによってどれほど意思決定が遅れようが、他国との行政・施策面での競争力が低下しようが、世界じゅうの笑いものにされ恥をさらそううが、自身の役職や立場の「存在理由」が消えてなくなってしまうかもしれないテーマへ、容易に賛同するわけにはいかなかったのだ。
行政に限らず、この時代の流れや速さについていけない、あるいは新たな学術や事業の創造・発展を阻害するヒエラルキーの弊害については、拙サイトでもたとえば下落合1705番地の東京高等歯科医学校Click!(現・東京医科歯科大学)を創立した島峰徹Click!や、雑司ヶ谷572番地の「異人館」Click!に住むリヒャルト・ハイゼClick!がサポートした北里柴三郎Click!などの事例で何度かご紹介している。
いや、官僚(的)ヒエラルキーや組織による嫌がらせや事業の妨害は、松本順Click!による早稲田の「蘭疇医院」Click!のころから、薩長政府の官製学校ですでにはじまっていた。なにか先進的な事業や創造的な取り組みをしようとすると、寄ってたかって疎外し妨害するという病的かつ陰湿な性質は、いまも昔もたいして変わっていないのかもしれない。松本順が興した事業や教育の重要性に気がついたのは、当時の教部省(のち文部省)や官製学校などの学術分野ではなく、陸軍の軍人・山県有朋だったのはなんとも皮肉なことだ。
余談的な前置きが長くなってしまったが、会津(猪苗代町)出身の野口英世も生涯を通じて、日本のそのような組織から冷笑とともに差別され、いろいろとひどい目に遭わされてきた人物のひとりだ。新しい発想や才能をもつ人物主体からではなく、その仕事で得られた成果や実績などから判断されるのでもなく、どこの学校を卒業してどこの組織に属しているのか(どこの学閥に属しているのか)が、すべての判断基準だった当時の日本に、彼が仕事をする居場所などなかった。ほんとうに頭のいい人物や才能のある人間が、日本では育ちにくい典型的な組織の病理を証明しているような、象徴的なケーススタディだ。
野口英世というと、戦前の伝記物語では“聖人君主”のようにことさら美化され、まるで全国の尋常小学校に建てられた二宮金次郎像Click!なみの扱われ方をしてきたが、そもそも彼の業績を徹底して無視あるいは軽視し、さまざまな嫌がらせや妨害をしてきたのは北里柴三郎ケースとまったく同様、当の文部省であり傘下の官製帝国大学だったはずだ。そのあたりの証言は、同じ福島県の出身で野口英世の親しい友人であり、やはりひどい目に遭わされている薬学者・星一の息子が書いた、星新一『明治の人物誌』など、戦後になって語られはじめた資料は枚挙にいとまがない。
ただし、“聖人君主”のように美化された野口英世像も、もちろん戦後になって大きく崩れはじめ、大金を持たせたらあと先を考えず一夜のドンチャン騒ぎで全部つかってしまう、底なしの大酒飲み、借金を知らんぷりして返さず踏み倒す、初恋の相手だった人妻に贈り物をして騒動を起こす、米国人の妻と取っ組み合いのケンカをしてしじゅう投げ飛ばされる、同時代のチャップリンのモノマネをする……などなど、かなりひょうきんな変人だったことが、戦後、身近にいた人物たちの証言で語られはじめた。そのあたりの様子は、米国の伝記本であるイザベル・プレセット『野口英世』や、2008年(平成20)に三修社から出版された星亮一『野口英世―波乱の生涯―』などに詳しい。
さて、野口英世の肖像を描いた洋画家が、下落合584番地のアトリエに住んでいた。当初は大塚にアトリエを建設しようと土地まで購入して地主と契約を済ませていたが、中村彝Click!の強引な勧めで下落合464番地の彝アトリエから西へ270mほどの敷地を購入して、豪華なアトリエと自邸を建設している二瓶等Click!(二瓶徳松→二瓶經松→二瓶義観→二瓶等→二瓶等観)だ。曾宮一念Click!や牧野虎雄Click!、片多徳郎Click!などのアトリエ跡と彝アトリエとの、ちょうど中間地点にあたる。
二瓶等Click!は、北海道は札幌の資産家の息子だったので土地を購入し、その上に建てられたアトリエ+自邸は豪華だった。東京美術学校Click!の学生時代から、鈴木良三Click!によれば4間(四方)+3畳半のアトリエを建て、ほかに暖炉のある広い居間や応接室、キッチン、風呂、テラスなどの母屋が付属し、師である中村彝よりもはるかに大きなアトリエで生活していた。美校では、入学時には佐伯祐三Click!や山田新一Click!と同級だったが、なぜか1年足らずで退学し翌年改めて入学しなおして、佐伯たちとは1年遅れて卒業している。
二瓶等Click!(すでに1945年以降の二瓶等観と名のる時代になっていた)が、野口英世の肖像画を描いたのは戦後間もないころのことだ。つまり、野口英世が黄熱病にかかり、アフリカで「わけが分からない」といい残して病没した、1928年(昭和3)から20年近くの歳月が流れていた。したがって、二瓶等は野口英世のもっとも知られたポートレート(写真)を参考にしながら描いているとみられる。そして、1949年(昭和24)にその肖像画をもとに制作した、郵政省の野口英世8円切手が発行されている。
どのような因縁で、二瓶等が野口英世の8円切手の肖像を引き受けたのかは不明だが、資料をあたっているうちに面白いことに気がついた。幼少時、貧乏な小作人だった野口家の様子を、先述の星亮一『野口英世―波乱の生涯―』から引用してみよう。
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会津では農民に土地の所有権がなかった。/農家二十七軒で構成する三城潟村の土地三百五十石を管理するのは肝煎(庄屋)の二瓶家であった。耕作高の約三分の一を肝煎が取得するので、残り二十六軒の石高は平均すると八石九斗六升になった。
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シカ(英世の母)は、このあと父親が幕末の京都守護任務で出かけてしまって働き手を失い、向かいに住む地主(元・庄屋)の二瓶橘吾家に奉公に出ることになる。そして、会津戦争のあと二瓶家が仲立ちとなり野口シカの家に婿養子として入ったのが、佐代助(英世の父)ということになる。また、野口英世が通った三ッ和小学校は、野口家に隣接する広い二瓶家の敷地内にあり、当主の二瓶橘吾は同校の学務委員をつとめていた。
ここに登場する二瓶家と、北海道の札幌で豪商として知られ二瓶徳松(二瓶等)が生まれた二瓶家とは、どこかで家系がつながる姻戚同士ではないか。会津戦争のあと、二瓶家の一族の誰かが会津から北海道へとわたり、新たな事業を創業して軌道に乗ったころ、1888年(明治21)に二瓶徳松(二瓶等)が生まれているのではないだろうか。野口英世は1876年(明治9)の生まれなので、二瓶等は12歳年下ということになる。ひょっとすると、このふたりは会津か東京のどこかで出会っているのかもしれない。
戦後、野口英世の切手を制作することが決まった際、郵政省の担当者に野口家または隣りの二瓶家の誰かが、「そういえば野口英世に近い二瓶家の親戚に洋画家がいる」と、下落合の二瓶等を紹介しやしなかっただろうか。中国で満州美術会を結成していた二瓶等は、敗戦とともに下落合にもどり、その後ほどなく、戦災からも焼け残っていた下落合584番地の自邸+アトリエを売却して池袋にアトリエを建てて転居している。野口英世の肖像画が、下落合と池袋のどちらのアトリエで描かれたかは定かではないが、鈴木良三にいわせれば「つつましい出来」(『芸術無限に生きて』1999年より)だった。
さて、しじゅうカネがなくて空腹を抱え、借金につぐ借金を繰り返して返済しない野口英世は、1,000円札に自身の肖像が採用されているのを見たら、はたしてどんな顔をするだろうか。「オラにそっくらだなし」というだろうか、それとも「わげ分がんね」だろうか。
◆写真上:中村彝のアトリエも近い、下落合584番地の二瓶等アトリエ跡(左手奥)。
◆写真中上:上は、米国の野口研究所で撮影された野口英世と研究スタッフたち。下は、北里柴三郎の北里研究所に保存されていた晩年に近い野口英世の写真。
◆写真中下:上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる戦災から焼け残った二瓶等アトリエで、周囲の家々と比べても大きな邸宅だったのがわかる。中は、1922年(大正11)制作の二瓶徳松(二瓶等)『真珠』。下は、1924年(大正13)に制作された二瓶等『裸女』。
◆写真下:上は、1949年(昭和24)に発行された野口英世8円切手。中左は、肖像画のモチーフになったとみられるポートレート。中右は、現1,000円札の野口英世。実際の写真よりも肖像画に近似しているので、郵政省に残る作品を参照したものだろうか。下は、2008年(平成20)に三修社から出版された星亮一『野口英世―波乱の生涯―』(左)と、1987年(昭和62)に翻訳され星和書店から出版された米国の伝記作家I.R.プレセット『野口英世』(右)。