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酒米を食用米の水田にしてブドウ園を増やせ。

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宮崎光太郎邸跡.JPG

 わたしの祖父母の世代は、ワインのことを「葡萄酒」Click!と呼んでいた。「ポートワイン」や「スヰトワイン」など、それまでにも「ワイン」という言葉は古くから商品名としてつかわれていたが、一般的に呼ばれていた名称は葡萄酒だった。ワインという呼び名が広く普及したのは、おそらく1960年代以降のことだろう。なぜ、葡萄酒と呼ばれることが多かったかといえば、本格的な日本産ワインである甲斐産商店の宮崎光太郎Click!が醸造していた、「大黒葡萄酒」Click!が全国的に普及していったからだろう。
 「大黒葡萄酒」が誕生した明治末から大正時代にかけ、日本はきわめて深刻な食糧難に陥っていた。人口の増加に対して、米の生産量がまったく追いつかなかったのだ。大正中期になると、米不足はより深刻で危機的な状況を迎え、政府はアジア諸国からの外米を大量に買いつけ輸入している。米が急激に値上がりし、一般家庭でも白米ではなく麦などの雑穀を混ぜて食べる飯が多くなっていった。米の価格がさらに値上がりするのを見こして、米問屋や米屋が白米を備蓄・隠匿して売らなかったため、1918年(大正7)にはついに米騒動へ発展したのは、日本史上でも有名なエピソードだ。
 1969年(昭和44)に発表された、農業経済学者の持田恵三による『米穀市場の近代化―大正期を中心として―』という論文がある。その中に、大正期の外米消費率の推移表が収録されているが、1918~19年(大正7~8)の2年間が7.3%と、もっとも高い外米の消費率をしめしている。各地で米騒動が起きていた、まさにその時期とシンクロしていた。
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大正期の外米消費率1969米国市場の近代化.jpg

 もともと米の生産・供給量が変わらず一定なのに、人口が急激に増加(特に都市部において)しつづけたため、そして米価の値上がりに便乗した売り惜しみが各地で相次いだため、一般家庭で買える米の量も徐々に減っていった。「入営すれば(軍隊に入れば)、三食銀シャリ(白米)が食える」といわれたのもこのころのことだ。
 これは、いまの日本でも基本的に変わらない課題だ。現在、米の自給率は100%とされているが、それはあくまでも需要(消費)に対して100%という意味であって、国民全員に対しての100%ではない。もし、異常気象の影響などで世界的な凶作が起き、小麦の輸入がストップしたらパンやパスタ類のほとんどは生産できなくなるので、人々の主食は米に依存せざるをえなくなる。世界的な凶作なら、日本の米も凶作である可能性は高いが、とても国民全員を飢えさせずに養えるほど米の生産量は高くない。「食糧安保」は、国の死活を左右する一義的なリスク管理のテーマだろう。
 同じようなことが、明治末から大正時代にかけても起きていた。大正期の日本全国で収穫できる米穀の量は、約6,600万石と江戸期よりはやや増えていたが、1897年(明治30)の時点で需要に対して約200万石が不足し、1912年(大正元)には250万石、1923年(大正12)にはついに550万石が不足するにいたった。当時は、パン食も麵食も広く普及していない。
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大黒葡萄酒1932.jpg

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大黒葡萄酒1938.jpg

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大黒葡萄酒パンフ.jpg

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大黒葡萄酒壜詰.jpg

 このとき、一時しのぎの輸入米だけでは危機を打開できないと判断した政府は、ようやく具体的な対策を打ち出している。それは、日本酒用に栽培されている酒米の水田が、大正中期には約500万石あったので、それらの農家に酒米から食用米への転作をするよう勧告することだった。同時に、米作ほど肥沃な土壌を必要とせず、栽培が比較的容易なブドウを栽培し、それを醸造して米酒のかわりに葡萄酒を生産するよう奨励していった。当時の様子を、大正末に発行された大黒葡萄酒普及会のパンフレットから引用してみよう。
  
 米以外の原料に依つて、酒を造るには、何よりも葡萄を以てするのが、国家のために利益ある賢明な方法なのであります。葡萄は栽培が簡単で容易な上に、米と同一の広さがある地面から、はるか多量の収穫を得る利益があります。殊に葡萄には先天的に酵母菌があつて、その搾り汁を其の儘に放置しても、自然に発酵して立派な葡萄酒となります。然も日本酒以上の滋味と芳香を備へ、壮健者にも病者にも極めて好適な飲料としての条件を悉く有して居るのであります。多難なる食糧問題解決の一途としても、日本酒以上の健全なる飲料としても、葡萄酒は唯一の存在価値を有して居ります。
  
 いまでいう日本酒との比較広告のようなもので、かなり手前味噌のような書き方だけれど、それだけ当時の米不足は深刻な状況を迎えていたのだろう。
 甲斐産商店の宮崎光太郎は、1919年(大正8)に下落合10番地へ自邸と大黒葡萄酒工場を建設している。先日、大正末に制作された同社の絵はがきセットを見つけたので、さっそく手に入れた。セット袋の表書きは「御絵はがき/大黒葡萄酒」とあり、裏面には下落合の所在地や牛込局の電話番号が記載されている。だが、袋に印刷された所在地が「東京市外落合町十番地」と「下落合」が抜けており、下落合10番地か上落合10番地かが不明で(ちなみに上落合10番地も、工場が建ち並ぶ工業地域の前田地区Click!でまぎらわしい)、中の絵はがきセットに付属した栞では「東京市外下落合十番地」と、今度は「落合町」が抜けている。
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絵はがき表.jpg
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絵はがき醸造蔵.jpg

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絵はがき挨拶文.jpg

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絵はがき葡萄棚宴会.jpg

 中身の絵はがきだが、すべて山梨のブドウ畑や醸造所の写真ばかりで、下落合の工場写真は含まれていない。山梨県の醸造所から、醸造樽のまま目白貨物駅Click!まで運ばれた大黒葡萄酒は、下落合の工場で壜に詰められラベルを貼られて、全国へ出荷されていった。その様子を撮影した、1925年(大正14)制作の記録映画が山梨県に残っており、その一部がWebでも公開されていたが、残念ながら数年前から削除されたままになっている。
 さて、いままでご紹介しそびれていた下落合10番地の宮崎光太郎について、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
  
 大黒葡萄酒/甲斐産商店主 宮崎光太郎 下落合一〇
 純粋葡萄酒の創醸家宮崎光太郎氏の名は大黒葡萄酒の名と共に全国的に知られ、其の歴史的基礎と時代に適応したる経営方針は断然業界の第一線を抑えてゐる、氏は明治十年松方正義、前田正名、藤村紫郎諸氏の勧誘に依り葡萄酒醸造業の将来あるを確信し、厳君市左衛門氏と共に郷閭山梨県有志をかたらい、祝村葡萄醸造会社を設立す、即ち本邦に於ける純粋葡萄酒醸造の創始なりと云ふ、次いで十九年独立醸造業に就事し、爾来品質の改良に研鑽を重ね明治二十四年以来宮内省帝国医科大学等の用途を仰ぐに至りしは、其の苦心の実を證明して余りがある、(中略) 氏人なり敦厚にして社会精神に富み、衆与のためには一己の利益を超越するの風あり、産業開発の為めに多大の犠牲を払つて栽培者救済に当る等、郷党の普しく欽仰する処である。
  
 ちょうど学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)の南側に位置する、第二寮と第三寮の丘下にあたる敷地に建っていた大黒葡萄酒工場と宮崎光太郎邸だが、工場の様子は昭和寮の寮棟Click!からよく観察できた。寮生の間では、鮮やかな赤いネオンサイン「大黒葡萄酒」を掲げた大きな煙突が強く印象的に残っているようだ。
 大黒葡萄酒の工場は山手大空襲Click!で焼けたが、ほどなく同じ敷地に工場を再建して操業を再開している。同工場は、東京五輪が開かれた1964年(昭和39)ごろまでは確認できるが、以降は移転して空き地になっている。同敷地に、当時はめずらしかった高層分譲アパートの高田馬場住宅Click!が竣工するのは、1969年(昭和44)になってからのことだ。
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大黒葡萄酒広告1932.jpg

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大黒葡萄酒広告1958.jpg

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松阪慶子メルシャン1980.jpg

 大黒葡萄酒はその後、オーシャン(株)と社名を変えてウィスキーを大ヒットさせるが、さらにメルシャン(株)へと再編され現在にいたっている。その昔、松坂慶子がイメージキャラクターをつとめたメルシャンワインのCMClick!をご記憶の方も多いのではないだろうか。

◆写真上:現在は高層の高田馬場住宅が建っている、1960年代前半まで操業していた下落合(1丁目)10番地の大黒葡萄酒工場と宮崎光太郎邸の跡地。
◆写真中上は、1932年(昭和7)に学習院がチャーターした飛行機から撮影された大黒葡萄酒工場と宮崎邸。中上は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる同工場と宮崎邸。中下は、大正末に制作された大黒葡萄酒の2色刷りパンフレット。は、下落合の大黒葡萄酒工場で行われていた葡萄酒の壜詰めとラベル貼り、梱包作業の様子。
◆写真中下は、絵はがき袋の表面()と裏面()。は、中身の絵はがき3葉。
◆写真下は、1932年(昭和7)に制作された大黒葡萄酒の媒体広告。は、1958年(昭和33)制作のポスター。は、1980年代制作のメルシャンワインのポスターカレンダー。

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