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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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壺井栄にポカポカ殴られ蹴られる徳永直。

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 世の中には自分の意思や考え、感想などをハッキリさせず、モゴモゴとその場かぎりのおざなりで曖昧な言葉を並べているうちに、あれよあれよという間に物事が周囲に決められて迅速にコトが運んでしまい、にっちもさっちもいかなくなって呆然自失の態に陥ってしまう、優柔不断で情けない人物が確かに存在している。長編『太陽のない街』を著した徳永直が、そんな性格をした人物の典型だったようだ。
 徳永直といえば、小林多喜二Click!と並んで上落合460番地にあった全日本無産者芸術連盟(ナップ)Click!の機関誌「戦旗」Click!に掲載された作品群とともに、プロレタリア文学の一方の“雄”だったイメージが強く、『太陽のない街』では小石川にある共同印刷の労働争議をたくましい印刷工たちの活躍を通じて描き、国内のみならず海外でも大きな反響を呼んだ作家だ。ところが、私生活ではまったく「たくましく」はなく、いろいろ問題を引き起こしている。その典型的な例が、彼の再婚をめぐるとある“事件”だった。
 1945年(昭和20)の敗戦が迫る6月、徳永直は長年にわたり連れ添った愛妻のトシヲ夫人を病気で亡くしている。あとには、高等学校(旧制)へ通う息子と、まだ幼い女子たち3人が残された。まだまだ手のかかる子どもたちを抱え、料理や裁縫などの家事をこなさなければならない徳永は、原稿を執筆するまとまった時間がとれずに四苦八苦していた。そんなとき、彼の脳裏に浮かんだのは、いつもニコニコと穏やかな笑顔をたたえている、世話好きの大仏さんのような壺井栄Click!の面影だった。
 徳永直は、日々子どもの世話がたいへんで仕事がまったくできないと、窮状を壺井栄あての手紙で切々と訴え、「文学がわからなくともけっこうです。お針のできるやさしい人なら理想的です」と、再婚の相手探しを依頼した。この手紙を読んだ壺井栄は、すぐにも頭の上にピカッとライトが点灯しただろう。彼女の妹は、郷里近くの女学校で裁縫教師をしており、40歳をすぎていたが独身だった。実妹は丙午(ひのえうま)の年に生まれているので、理不尽な迫害を受け敬遠されて結婚できなかったのだ。
 ここでちょっと余談だけれど、前回の丙午は1966年(昭和41)だったが、同年の出生率は急低下している。翌1967年の出生率は例年を超えて急上昇しているので、20世紀半ばの当時でもいまだに丙午の迷信を信じている人たちがたくさんいたことになる。丙午の年に生れた人物(男女を問わず)は、「気が強く支配欲が強い」という虚妄は、中国の陰陽五行に起源があるといわれ、それに中国や朝鮮の「女子は男子の上に立つべからず」という儒教思想とあいまって日本に“輸入”されたものだ。また、芝居や講談の「八百屋お七」が丙午生まれだったとされ(伝承と芝居とでは年齢が不一致で虚構)、ことさら女子の丙午生まれがタブー視されるようになった。次回の丙午は5年後の2026年だが、いまだに中国や朝鮮の儒教思想と一体化した迷信を信じている人たちがいるのだろうか?
 政府の厚生行政基礎調査(1974年)という、面白い調査報告書がある。1966年(昭和41)の丙午に各都道府県の出生率がどのように影響を受けているのかを調べた統計資料だ。それによれば、「八百屋お七」の地元・東京はあまり影響を受けておらず、東日本全体は例年とあまり変わらないが、近畿地方から西の出生率が著しく低下していることがわかった。おそらく九州がいちばん低いだろうと予想したが、さにあらず、四国がきわめて低い出生率なのが目立つ。特に高知県では、日本の出生率の最低を記録していた。つまり、1960年代まで西日本には中国の陰陽五行や朝鮮の儒教思想がベースの、丙午の迷信を気にする人々がたくさんいたことになる。そういえば、壺井栄(岩井栄)の故郷も四国だ。また、関東地方では唯一、群馬県の出生率低下が相対的に目立つ。これは、「いま以上に女子(かかあ)天下が激しくなっては困る」という、ワラにでもすがりたい切実な思いだろう。w
 徳永直からの手紙を受けとった数日後、壺井栄Click!は夫の壺井繁治Click!を連れて、いそいそと経堂の徳永邸へやってきた。そこで、壺井栄はふたりの女性を結婚相手に紹介している。ひとりは、もちろん「お針」が得意な女学校で裁縫教師をしている彼女の実妹、もうひとりが女子大出身で雑誌の編集を仕事にしている女性だった。そして、壺井栄は「ぶきりょうだし、年齢も四十を過ぎてゐるんですよ」と実妹を紹介している。このとき、徳永直は両者のどちらにするかハッキリした返事をしていない。むしろ、器量よしだという女子大出身の女性が、自分のような家庭にきてくれるだろうかと心配し、彼女の妹よりもむしろそちらに惹かれているようなニュアンスさえ感じる。徳永は、「いやもう、来てくださるということだけでありがたいことです」などと答えるだけだった。
 壺井栄はふたりの女性を紹介し、どちらかを選択できるようにしているようだが、実情はひとりの女性しか紹介していないことになる。共同印刷の植字工だった徳永直が、女子大出身で絵画が趣味の女性を選ぶことはまずありえないのを、徳永のやや卑屈気味な性格を知っている壺井栄にはわかっていた。しばらくすると、壺井栄の妹の写真が、佐多稲子Click!を通じて送られてきた。縁談を断るにしても、気の弱い徳永直のことだから、親しい佐多稲子を介してのほうが断りやすいだろうという壺井栄の配慮だった。
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 しばらくして、徳永直は写真を返しに佐多稲子のもとを訪れている。「どうもぼくの好きなタイプじゃない」と断りをいうと、佐多稲子は「やはり、徳永さんに好きな人ができるのが一番いいんだがなア」と正論で答えている。だが、徳永直はもうひとり女子大を卒業した器量よしで編集者の女性に大きな望みをつないでいた。縁談の候補のひとりを断ったのだから、もうひとりの候補を紹介してくれるだろうと、徳永直は1ヶ月も待ってみた。しかし、壺井栄からの連絡はこなかった。
 待ちきれなくなった徳永は、いそいそと上落合から鷺宮へ転居した壺井邸へと出かけていった。まず、写真の返却を詫びて、女子大卒の候補のことを切りだそうとした矢先、壺井栄が「妹は近く上京します」といった。妹の上京は、縁談の有無に関係なく以前からの予定で、遠縁の戦災孤児を引きとり育てなければならなくなったため、壺井家では人手が必要だった。妹の話を聞くうちに、徳永直は性格がよさそうなので会うだけ会ってみるかという気分になってきた。一度断りを入れているのだから、ハッキリとした態度をとりつづければ問題ないのだが、こういうところが周囲から「優柔不断」だといわれるゆえんなのだろう。気がつくと、「一度、妹さんに会わせてくれませんか」などと口走っていた。
 見合いの日は、とてもひとりでは会えないので、徳永直は佐多稲子に付き添いを頼んでいる。彼は壺井栄の妹の真向かいに座ったが、よく容姿を確認せず、ろくに話もしないうちにすっかり酔っぱらってしまった。帰りぎわ、壺井栄が彼の耳もとで、「あとで手紙を下さいね」と囁いたのは憶えている。翌日、妹さんの田舎の人らしい素朴なところがよかった……などと、お世辞を並べた感想の手紙を壺井栄あてに書いてしまった。ここから、徳永直のハチャメチャな言動がスタートする。
 なんとなく、壺井栄が縁談を進めそうな気配を感じた徳永直は、急いで仲立ちになっている佐多稲子に「この縁談はしばらく中止したい」と縁談解消を伝えている。ところが、早まったのではないかとすぐに後悔し、どうしたらいいのかわからなくなって中野重治Click!に助けを求めている。中野重治には、壺井栄の妹が「わたしの妹にたいへんケチンボなのがいまして」(徳永の虚言)その妹と横顔がよく似ていると話し、どうしたらいいでしょうと相談しているが、「そんなこと知らん、自分で決めろ!」とはいわず、やさしい中野重治は「ふん、ふん」といちいち聞いてあげている。
 すると、壺井栄の妹が「ケチンボ」な性格なのかどうかを徳永直が気にしているようだ……というのが、中野重治から佐多稲子の耳に伝わり、壺井栄からさっそく否定の返事がきて、佐多は「そんなとこ、ない人なんですって」とサバサバした表情で徳永に伝えてきた。自分のついたウソがきっかけで、どんどん土壺にはまって身動きがとれなくなり、徳永直はついにエポケー(判断停止)状態に陥ってしまった。そして、「清水の舞台から飛び降りる」思いで、つい佐多稲子には縁談を進めてくれなどと答えてしまった。
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 1946年(昭和21)8月、「ケチンボぎらいな徳永直」のために、壺井夫妻は新橋の高級中華料理店で結婚の披露宴を開くことにした。徳永にしてみれば、なぜ敗戦直後で食糧難にもかかわらず、このようにぜいたくな料理屋が選ばれたのか不可解に感じただろう。事実、彼の高校生になる長男は、「餓死者がどんどん出ているというのに、ブルジョア相手のヤミ料理でやるなんて、何がプロレタリア作家だい」と、しごくまっとうなことをいって出席を拒否している。徳永直の狼狽ぶりが目に浮かぶようだが、高級料理屋が「ケチンボ嫌いな」自分のために決められたことさえ気づかなかった。
 結婚までの経緯は、壺井栄『妻の座』『岸うつ波』と、徳永直『草いきれ』など双方の著作を突き合わせると、ほぼ以上のとおりだったのだろう。結婚披露宴には、壺井夫妻や佐多稲子、中野重治、宮本百合子Click!、村雲毅一(日本画家)、渡辺順三Click!(歌人)、立野信之Click!など十数人が出席している。ところが、やはり壺井栄の妹がどうしても気に入らず、好きになれなかった徳永直は2ヶ月後、「やっぱり、ダメだ」と新妻の手さえ握ることなく、離婚の意思表示を壺井栄に伝えている。
 そのあとの修羅場は、立野信之『青春物語』(河出書房新社/1962年)から引用しよう。
  
 壺井夫妻は最後の談判に徳永を訪れたが、話がけっきょく不調に終ると、栄は憤激をおさえることが出来なくて、手をついて詫びている徳永を蹴ったり、殴ったりした。/それでも足りなくて、栄は夫の繁治の手をつかんで振り上げさせ、/「ぶちなさい、こいつを……ぶちなさいったら……人間一匹をダメにしやがったこいつを、ぶちなさいったら……!」/その絶叫にそそのかされて、繁治の拳がいくつか徳永の頭に打ちおろされた。
  
 ポカポカ打(ぶ)たれる徳永直はまさに自業自得だが、壺井栄の「人間一匹ダメにしやがった」は、要するに初婚の妹を精神的にも肉体的にも「キズモノ」にされたという、古い概念から出た言葉なのだろう。いまや女性の自立が進み離婚の急増とともに、「キズモノ」になったなどというような感覚は消滅し、男女ともに「相性がよくなかった」「性格や反りが合わなかった」で語られる時代だ。
 ここで再びちょっと横道にそれるけれど、ドラマで再婚の見合い相手に「キズモノ同士だから気楽」だといわれて、「あたし、キズモノじゃありません! 身体のどこにもキズなんてないわよ! なんなら、ここで調べてごらんになる!?」と洋服を脱ぎかける森山良子と、その前でオドオドして汗をぬぐっている泉谷しげるのワンシーンを思い出してしまった。1980年代末のドラマだが、当時でさえそのような感覚がまだ残っていたのだろう。
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 いつもニコニコやさしく、まるで穏和な大仏さんのように見える壺井栄Click!だが、ほんとに怒らせると鬼のように怖い。いつか、中野鈴子Click!と壺井繁治のエピソードClick!もご紹介しているが、非のある相手には「教育的措置」として自ら暴力で身体に教えこむようだ。それにしても、あの身体でおもいっきりポカポカ打(ぶ)たれたら、けっこう痛いだろうに。

◆写真上:「太陽のない街」を流れる、旧・千川上水Click!に架かっていた猫股橋の橋脚石。
◆写真中上上左は、1929年(昭和4)出版の徳永直『太陽のない街』(戦旗社/装丁・柳瀬正夢Click!)。上右は、著者の徳永直(奥)と大宅壮一(手前)。は、舞台となった旧・千川上水の暗渠道路と住宅街。共同印刷は現存するが、住宅街に当時の面影はない。
◆写真中下は、1954年(昭和29)制作の『太陽のない街』(新星映画/監督・山本薩夫)。は、川沿いの簸川社(氷川社)。は、石橋だった猫股橋の橋脚。
◆写真下は、1935年(昭和10)の「文学案内」10月号座談会の記念写真。は、いつもニコニコ大仏さんのように温和な壺井栄だが、激怒するとガブClick!のように豹変して……。は、1931年(昭和6)に上演された東京左翼劇場『太陽のない街』の舞台記念写真。

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