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いままで、落合地域で暮らした画家たちClick!をずいぶん取りあげて記事にしてきたが、おそらく実際にこの地域でアトリエをかまえていた画家たちの5分の1にも満たないのではないだろうか。拙サイトで取りあげるのは、どうしても記録や地元でのエピソードが数多く残り、物語性に富んでいる、つまり記事にしやすい画家たちとその周辺が多くなってしまうが、“ふつう”に暮らして(佐伯祐三Click!や金山平三Click!、曾宮一念Click!たちが“ふつう”じゃなく、人間的な魅力にあふれた特異な存在なのだ)、日々黙々と制作していた画家たちまで、また、短期間しか滞在しなかった画家たちまで含めると、大正初期から現在までおよそ千人単位のボリュームになりそうだ。
鈴木良三Click!は、曾宮一念Click!と同じように出身校や会派などにとらわれず、落合地域に住んでいたさまざまな画家たちのアトリエを訪ね歩いている。彼自身は、いわゆる“帝展派”(帝展に応募する画家たちの意)だったが、曾宮一念など二科の画家たちとも親しく交流し、いまとなっては貴重な落合地域に住んでいた画家たちの記録を残している。曾宮に連れられて佐伯祐三アトリエを訪れたときは、大工から歳暮Click!にもらったよく削れるカンナClick!に熱中していて、庭に置かれた材木から家の柱や天井裏Click!まで、いろいろなところを陶然と削っているまっ最中だった。
その佐伯アトリエの隣りには、一時期、二科の中村善策がアトリエをかまえている。中村善策は、昭和初期に下落合の中井駅近くにしばらくアトリエをかまえていたが、1937年(昭和12)に長崎南町(現・南長崎/目白4~5丁目)へ一時移ったあと、戦時中に佐伯アトリエの“裏隣り”へ転居してくる。アトリエが戦災で全焼すると信州へ疎開し、東京へもどると今度は上落合で売りに出ていた家を見つけてアトリエにしている。
戦前、中村善策は二科から一水会へと移ったので、鈴木良三とはつき合いが長かったらしく、彼についての証言が多く残っている。1999年(平成17)に木耳社から出版された、鈴木良三『芸術無限に生きて―鈴木良三遺稿集―』から引用してみよう。
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佐伯君のアトリエと背中合わせのところに中村善策さんが一時期住んでいた。/彼は大正十三(一九二四)年、二十三歳の時北海道から上京し、最初滝ノ川あたりに間借りの生活をしていたが、その後信州や小樽の間を行き来して写生を続け、二十四歳で二科に入選、昭和元(一九二六)年三十歳で落合も高田馬場近くに住み画家としての本格的な生活に入った。(中略) そして昭和十八(一九四三)年になって佐伯君の裏へ引っ越して来たのであった。善策さんは非常な名文家でもあり、『山下新太郎先生制作余談』や油絵の描き方や風景画の実技、油絵のスケッチ、風景画の四季淡彩スケッチの描き方、風景画の技法分解などを書き、和歌も、書も、日本画もなかなかうまくこなした。殊にいい喉をして江差追分を歌わせると実に名調子で、聴衆をホロリとさせるものがあった。
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鈴木良三が「高田馬場近く」と表記するのは、別に山手線・高田馬場駅近くという意味ではなく、他の画家の例でもそうだが高田馬場駅へすぐに出られる西武線沿線という意味あいが強いようだ。「下落合の高田馬場駅近く」というのは、歩けば山手線の目白駅と高田馬場駅とで大差ない位置に住んでいても、高田馬場駅へ短時間で出られる西武線の下落合駅あるいは中井駅の近くということらしい。
「佐伯君のアトリエと背中合わせ」または「佐伯君の裏」とあるので、佐伯邸の門は東向きなことからその西側、大きな納三治邸Click!や小泉邸の北側、八島邸Click!の東側にあたる行き止まりの路地(突き当りは小泉邸Click!)の両側に並ぶ、下落合2丁目663番地ないしは666番地に建つ住宅7軒のいずれかではないだろうか。
中村善策は風景画を得意とした画家で、二科の時代から数多くの作品を描いていたが、1945年(昭和20)4月13日の第1次山手空襲Click!で、アトリエにあった200点以上の戦前作品を焼失している。それが無念きわまりなかったせいか、長野県明科町の疎開先から5年近くも東京へもどらなかった。疎開先からもどると、上落合に小さな売り家を見つけて住み(地番は不明)、戦後の制作を再開している。
中井駅の近くには、太平洋画会の永地秀太や一水会の新海覚雄、酒井亮吉たち、少し離れて妙正寺川沿いの上高田に中出三也Click!と甲斐仁代Click!がアトリエClick!をかまえていた。永地秀太は、東京土地住宅Click!によるアビラ村Click!構想が具体化し、しばらくすると下落合4丁目(現・中井2丁目)に土地を購入して転居してきている。おそらく、同画会の満谷国四郎Click!あたりの勧めによるものだろう。永地秀太アトリエは、金山平三の住所と同じ下落合(4丁目)2080番地、金山アトリエから道路をはさんで3軒北隣りの敷地だった(大日本獅子吼会による敷地の買収前)。
また、その道路をはさんだ西隣りには新海覚雄がいた。1927年(昭和2)に父親の彫刻家・新海竹太郎が死去しているので、鈴木良三が訪ねたとき大きな邸宅には新海覚雄とその家族が住んでいたのだろう。おそらくアビラ村構想の記憶が残る大正末あたりに、父親が土地を購入して邸宅を建設しているとみられる。
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つづけて、『芸術無限に生きて―鈴木良三遺稿集―』から引用してみよう。
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(下落合の)今の中井辺にあたる。このあたりは太平洋画会の永地秀太、一水会の新開(ママ:新海)覚雄、酒井亮吉、中出三也、甲斐仁代夫妻の諸氏も住んでいた。永地さんのことはあまり知らなかったが、新開君(ママ)も酒井君も一水会だったので多少覚えている。新開君(ママ)は立派な体格で、大人しい性格だったが、絵もアカデミックな婦人像などを描いていた。ただ思想的に交遊も片寄っていたのではないだろうか。割合に早逝した。/酒井君は巴里時代に知り合って、小さな体をまめに動かして飲み歩いたが、帰国して一水会に出品し、会員にまでなったけれど悪性の病気で倒れてしまった。(中略) 中出三也君も、甲斐さんも大の飲んべえで、一夜彼等のアトリエ<畑の中>へ招かれて大勢で飲んで騒いだこともあったが、野球が好きで、よく哲学堂の野球場で絵描き仲間の試合をやったものだ。私も、彼も投手で敵味方になって戦ったものであった。鈴木金平君などはわが方の内野手であった。(カッコ内引用者註)
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下落合東部の不動谷(西ノ谷)Click!に建っていた吉田博アトリエClick!の近くには、三岸好太郎Click!たちと交流があった春陽会の岡田七蔵Click!や、坂口左右祝らのアトリエがあった。岡田七蔵と三岸好太郎の関係ついては、以前、築地にあった桑山太市朗アトリエにふたりで入りびたり、宮崎モデル紹介所Click!へ依頼したモデルによる裸婦デッサンのエピソードをご紹介している。鈴木良三は、春陽会に親しい友人がいなかったらしく、岡田七蔵や坂口左右祝は訪ねていないので、具体的にアトリエの場所がどこだったのかは不明だ。
また、第三文化村Click!に建っていた下落合(3丁目)1470番地の目白会館文化アパートClick!には、二科の服部正一郎が学生時代から住んで制作している。茨城県龍ヶ崎の大地主の息子なので、生活の心配はまったくなかったのだろう。下落合から、早稲田にあった日本美術学校へ通っている。卒業後、二科への入選がつづくようになると龍ヶ崎へ帰り故郷で制作をつづけた。実家が大農家なので、戦中戦後の食糧難でも食べ物に困らずに生活が送れたらしく、同じ二科の東郷青児Click!や松本弘二が食糧の買い出しに服部家を訪れたという逸話も伝えられている。
昭和初期、ちょうど曾宮一念Click!がアトリエの改修工事を行なっていたためか、あるいは夫婦が仲たがいをしたせいなのか原因は不明だが、何らかの事情で目白会館に仮住まいをしていた時期と、服部正一郎が住んでいた時期とが重なりそうなので、曾宮のエッセイでもどこかに彼のことが触れられているのかもしれない。あるいは、服部正一郎が書き残した文章のどこかで、少しは目白会館文化アパート内の様子がわかるだろうか。
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関東大震災Click!のとき、中村彝Click!が避難した下落合の鈴木良三アトリエClick!が下落合800番地にあったことは、これまでたびたび書いてきたけれど、同アトリエもまた下落合436番地の夏目利政Click!による設計だったことに改めて気づいた。「鶴田君の紹介で、夏目という人が下落合に盛んにバラック式の貸家を建てて」(同書)いるのを知り、大震災の前日、1923年(大正12)8月31日に雑司ヶ谷から下落合へ引っ越して入居している。夏目利政は、自身が設計した住宅に画家たちを優先して入居させていた気配が強いので、いまだ知られていない画家たちのアトリエが、下落合東部のあちこちにあったのではないだろうか。
◆写真上:金山平三アトリエと同地番の下落合2080番地(アビラ村)に住んだ、新海覚雄による1937年(昭和12)制作の『椅子に座る女』。昭和初期に大流行した、モダンな金属パイプによるバウハウス風のテーブルやイスのデザインが印象的だ。
◆写真中上:上は、1977年(昭和52)制作の中村善策『洞爺湖と蝦夷富士』。中は、1978年(昭和53)に制作された中村善策『石狩湾の丘の邑』。下は、1945年(昭和20)5月17日に米軍F13Click!から撮影された下落合663~666番地界隈の様子。佐伯祐三アトリエの一画と鉄筋コンクリートの聖母病院などを除き、周囲の家々の多くが焼失している。
◆写真中下:上は、1918年(大正7)に制作された永地秀太『肌』。中は、2画面とも新海覚雄の作品で1952年(昭和27)制作の『独立はしたが』(上)と、1961年(昭和36)制作の『ノーモア・ヒロシマ』(下)。下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合2080番地界隈。永地(ながとち)アトリエの姓が、「水地」と誤採取されている。
◆写真下:上は、1935年(昭和10)に制作された酒井亮吉『飴売と子供』。子どものころ不衛生だからということで、わたしが買ってもらえなかった縁日Click!などでよく見かけた「おしんこ(新粉)屋」(しんこ細工)Click!の飴屋だろう。中は、1928年(昭和3)制作の岡田七蔵『石神井川風景』。下は、1936年(昭和11)に制作された服部正一郎『放水路風景』。
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いままで、落合地域で暮らした画家たちClick!をずいぶん取りあげて記事にしてきたが、おそらく実際にこの地域でアトリエをかまえていた画家たちの5分の1にも満たないのではないだろうか。拙サイトで取りあげるのは、どうしても記録や地元でのエピソードが数多く残り、物語性に富んでいる、つまり記事にしやすい画家たちとその周辺が多くなってしまうが、“ふつう”に暮らして(佐伯祐三Click!や金山平三Click!、曾宮一念Click!たちが“ふつう”じゃなく、人間的な魅力にあふれた特異な存在なのだ)、日々黙々と制作していた画家たちまで、また、短期間しか滞在しなかった画家たちまで含めると、大正初期から現在までおよそ千人単位のボリュームになりそうだ。
鈴木良三Click!は、曾宮一念Click!と同じように出身校や会派などにとらわれず、落合地域に住んでいたさまざまな画家たちのアトリエを訪ね歩いている。彼自身は、いわゆる“帝展派”(帝展に応募する画家たちの意)だったが、曾宮一念など二科の画家たちとも親しく交流し、いまとなっては貴重な落合地域に住んでいた画家たちの記録を残している。曾宮に連れられて佐伯祐三アトリエを訪れたときは、大工から歳暮Click!にもらったよく削れるカンナClick!に熱中していて、庭に置かれた材木から家の柱や天井裏Click!まで、いろいろなところを陶然と削っているまっ最中だった。
その佐伯アトリエの隣りには、一時期、二科の中村善策がアトリエをかまえている。中村善策は、昭和初期に下落合の中井駅近くにしばらくアトリエをかまえていたが、1937年(昭和12)に長崎南町(現・南長崎/目白4~5丁目)へ一時移ったあと、戦時中に佐伯アトリエの“裏隣り”へ転居してくる。アトリエが戦災で全焼すると信州へ疎開し、東京へもどると今度は上落合で売りに出ていた家を見つけてアトリエにしている。
戦前、中村善策は二科から一水会へと移ったので、鈴木良三とはつき合いが長かったらしく、彼についての証言が多く残っている。1999年(平成17)に木耳社から出版された、鈴木良三『芸術無限に生きて―鈴木良三遺稿集―』から引用してみよう。
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佐伯君のアトリエと背中合わせのところに中村善策さんが一時期住んでいた。/彼は大正十三(一九二四)年、二十三歳の時北海道から上京し、最初滝ノ川あたりに間借りの生活をしていたが、その後信州や小樽の間を行き来して写生を続け、二十四歳で二科に入選、昭和元(一九二六)年三十歳で落合も高田馬場近くに住み画家としての本格的な生活に入った。(中略) そして昭和十八(一九四三)年になって佐伯君の裏へ引っ越して来たのであった。善策さんは非常な名文家でもあり、『山下新太郎先生制作余談』や油絵の描き方や風景画の実技、油絵のスケッチ、風景画の四季淡彩スケッチの描き方、風景画の技法分解などを書き、和歌も、書も、日本画もなかなかうまくこなした。殊にいい喉をして江差追分を歌わせると実に名調子で、聴衆をホロリとさせるものがあった。
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鈴木良三が「高田馬場近く」と表記するのは、別に山手線・高田馬場駅近くという意味ではなく、他の画家の例でもそうだが高田馬場駅へすぐに出られる西武線沿線という意味あいが強いようだ。「下落合の高田馬場駅近く」というのは、歩けば山手線の目白駅と高田馬場駅とで大差ない位置に住んでいても、高田馬場駅へ短時間で出られる西武線の下落合駅あるいは中井駅の近くということらしい。
「佐伯君のアトリエと背中合わせ」または「佐伯君の裏」とあるので、佐伯邸の門は東向きなことからその西側、大きな納三治邸Click!や小泉邸の北側、八島邸Click!の東側にあたる行き止まりの路地(突き当りは小泉邸Click!)の両側に並ぶ、下落合2丁目663番地ないしは666番地に建つ住宅7軒のいずれかではないだろうか。
中村善策は風景画を得意とした画家で、二科の時代から数多くの作品を描いていたが、1945年(昭和20)4月13日の第1次山手空襲Click!で、アトリエにあった200点以上の戦前作品を焼失している。それが無念きわまりなかったせいか、長野県明科町の疎開先から5年近くも東京へもどらなかった。疎開先からもどると、上落合に小さな売り家を見つけて住み(地番は不明)、戦後の制作を再開している。
中井駅の近くには、太平洋画会の永地秀太や一水会の新海覚雄、酒井亮吉たち、少し離れて妙正寺川沿いの上高田に中出三也Click!と甲斐仁代Click!がアトリエClick!をかまえていた。永地秀太は、東京土地住宅Click!によるアビラ村Click!構想が具体化し、しばらくすると下落合4丁目(現・中井2丁目)に土地を購入して転居してきている。おそらく、同画会の満谷国四郎Click!あたりの勧めによるものだろう。永地秀太アトリエは、金山平三の住所と同じ下落合(4丁目)2080番地、金山アトリエから道路をはさんで3軒北隣りの敷地だった(大日本獅子吼会による敷地の買収前)。
また、その道路をはさんだ西隣りには新海覚雄がいた。1927年(昭和2)に父親の彫刻家・新海竹太郎が死去しているので、鈴木良三が訪ねたとき大きな邸宅には新海覚雄とその家族が住んでいたのだろう。おそらくアビラ村構想の記憶が残る大正末あたりに、父親が土地を購入して邸宅を建設しているとみられる。
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つづけて、『芸術無限に生きて―鈴木良三遺稿集―』から引用してみよう。
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(下落合の)今の中井辺にあたる。このあたりは太平洋画会の永地秀太、一水会の新開(ママ:新海)覚雄、酒井亮吉、中出三也、甲斐仁代夫妻の諸氏も住んでいた。永地さんのことはあまり知らなかったが、新開君(ママ)も酒井君も一水会だったので多少覚えている。新開君(ママ)は立派な体格で、大人しい性格だったが、絵もアカデミックな婦人像などを描いていた。ただ思想的に交遊も片寄っていたのではないだろうか。割合に早逝した。/酒井君は巴里時代に知り合って、小さな体をまめに動かして飲み歩いたが、帰国して一水会に出品し、会員にまでなったけれど悪性の病気で倒れてしまった。(中略) 中出三也君も、甲斐さんも大の飲んべえで、一夜彼等のアトリエ<畑の中>へ招かれて大勢で飲んで騒いだこともあったが、野球が好きで、よく哲学堂の野球場で絵描き仲間の試合をやったものだ。私も、彼も投手で敵味方になって戦ったものであった。鈴木金平君などはわが方の内野手であった。(カッコ内引用者註)
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下落合東部の不動谷(西ノ谷)Click!に建っていた吉田博アトリエClick!の近くには、三岸好太郎Click!たちと交流があった春陽会の岡田七蔵Click!や、坂口左右祝らのアトリエがあった。岡田七蔵と三岸好太郎の関係ついては、以前、築地にあった桑山太市朗アトリエにふたりで入りびたり、宮崎モデル紹介所Click!へ依頼したモデルによる裸婦デッサンのエピソードをご紹介している。鈴木良三は、春陽会に親しい友人がいなかったらしく、岡田七蔵や坂口左右祝は訪ねていないので、具体的にアトリエの場所がどこだったのかは不明だ。
また、第三文化村Click!に建っていた下落合(3丁目)1470番地の目白会館文化アパートClick!には、二科の服部正一郎が学生時代から住んで制作している。茨城県龍ヶ崎の大地主の息子なので、生活の心配はまったくなかったのだろう。下落合から、早稲田にあった日本美術学校へ通っている。卒業後、二科への入選がつづくようになると龍ヶ崎へ帰り故郷で制作をつづけた。実家が大農家なので、戦中戦後の食糧難でも食べ物に困らずに生活が送れたらしく、同じ二科の東郷青児Click!や松本弘二が食糧の買い出しに服部家を訪れたという逸話も伝えられている。
昭和初期、ちょうど曾宮一念Click!がアトリエの改修工事を行なっていたためか、あるいは夫婦が仲たがいをしたせいなのか原因は不明だが、何らかの事情で目白会館に仮住まいをしていた時期と、服部正一郎が住んでいた時期とが重なりそうなので、曾宮のエッセイでもどこかに彼のことが触れられているのかもしれない。あるいは、服部正一郎が書き残した文章のどこかで、少しは目白会館文化アパート内の様子がわかるだろうか。
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関東大震災Click!のとき、中村彝Click!が避難した下落合の鈴木良三アトリエClick!が下落合800番地にあったことは、これまでたびたび書いてきたけれど、同アトリエもまた下落合436番地の夏目利政Click!による設計だったことに改めて気づいた。「鶴田君の紹介で、夏目という人が下落合に盛んにバラック式の貸家を建てて」(同書)いるのを知り、大震災の前日、1923年(大正12)8月31日に雑司ヶ谷から下落合へ引っ越して入居している。夏目利政は、自身が設計した住宅に画家たちを優先して入居させていた気配が強いので、いまだ知られていない画家たちのアトリエが、下落合東部のあちこちにあったのではないだろうか。
◆写真上:金山平三アトリエと同地番の下落合2080番地(アビラ村)に住んだ、新海覚雄による1937年(昭和12)制作の『椅子に座る女』。昭和初期に大流行した、モダンな金属パイプによるバウハウス風のテーブルやイスのデザインが印象的だ。
◆写真中上:上は、1977年(昭和52)制作の中村善策『洞爺湖と蝦夷富士』。中は、1978年(昭和53)に制作された中村善策『石狩湾の丘の邑』。下は、1945年(昭和20)5月17日に米軍F13Click!から撮影された下落合663~666番地界隈の様子。佐伯祐三アトリエの一画と鉄筋コンクリートの聖母病院などを除き、周囲の家々の多くが焼失している。
◆写真中下:上は、1918年(大正7)に制作された永地秀太『肌』。中は、2画面とも新海覚雄の作品で1952年(昭和27)制作の『独立はしたが』(上)と、1961年(昭和36)制作の『ノーモア・ヒロシマ』(下)。下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合2080番地界隈。永地(ながとち)アトリエの姓が、「水地」と誤採取されている。
◆写真下:上は、1935年(昭和10)に制作された酒井亮吉『飴売と子供』。子どものころ不衛生だからということで、わたしが買ってもらえなかった縁日Click!などでよく見かけた「おしんこ(新粉)屋」(しんこ細工)Click!の飴屋だろう。中は、1928年(昭和3)制作の岡田七蔵『石神井川風景』。下は、1936年(昭和11)に制作された服部正一郎『放水路風景』。