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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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『高田村誌』と『高田町政概要』の間に。

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鬼子母神境内1.JPG
 1919年(大正8)に出版された『高田村誌』Click!(高田村誌編纂所)と、先ごろご紹介した1930年(昭和5)出版の『高田町政概要』Click!(高田町役場)、あるいは1933年(昭和8)に出版された『高田町史』Click!(高田町教育会)との間に、1929年(昭和4)に三才社から出版された江副廣忠『高田の今昔』がある。
 当時はめずらしい和綴じ本の仕様で、全ページが和紙へのガリ版(謄写版)刷りだ。町政にはじまり、史蹟や伝承など歴史や文化の記述で終わる構成は『高田町史』とほぼ同じだが、『高田の今昔』のほうが部分的にはるかに詳細で、微に入り細に入り具体的だ。しかも、4年後に出版される『高田町史』の記述とほぼ同じ文章の項目も数多く、同町史の高田町教育会には江副廣忠も参画していたのではないだろうか。『高田町史』が250ページほどのボリュームなのに対し『高田の今昔』は300ページを超えており、しかも1ページの文字量も多くガリ版刷りにもかかわらず名所旧跡がイラストなどで挿入されている。
 当時、少部数の本をつくる場合に、ガリ版(謄写版)印刷を選択するのは、別にめずらしいことではなかっただろう。学生街だった神田や早稲田には、謄写版専門の印刷所が軒を連ねていた時代だ。ただし、ガリ版で印刷された本は、ほとんどがインクの沁みこみやすい「わら半紙」と呼ばれる、安価で黄ばんだ質の悪い紙を用いたため、長い時間が経過するとボロボロになり、現在まで伝えられているものはあまりない。
 だが、『高田の今昔』は手ざわりのいい高級和紙に刷られているため、今日でもまったく腐食していない。それどころか、刷られてからそれほど時間がたっていないような、謄写版インクの匂いが漂いそうなほど真新しく感じる品質を保っている。著者の江副廣忠は、北豊島郡高田町雑司ヶ谷24番地に住んでいるが、この住所は秋田雨雀邸Click!の数軒隣りの敷地であり、雑司ヶ谷鬼子母神Click!の門前にあたる位置(威光山法明寺Click!の広い境内のうち)だ。同書の巻頭にも、秋田雨雀が序文を寄せているので、両者は親しく交流していたのだろう。1926年(大正15)に作成された「高田町住宅明細図」には、残念ながら三才社も江副廣忠のネームも採取されていない。
 印刷所は、同じ所在地の三才社印刷部となっており、発行所は著者の住所と同じ三才社なので、江副廣忠は鬼子母神の門前で、なんらかの会社か店舗を経営していたのだろうか。また、印刷者は長崎町3732番地の大橋一邦と記されており、著者が書いた原稿を見ながら実際にガリ切りして印刷したのは彼なのだろう。この住所は、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の東長崎駅の北側で、以前ご紹介した片多徳郎Click!描く『郊外の春』Click!(1934年)の旧家・田島邸がある南西側、やはりいくつか田島家が並ぶ駅寄りの一画だ。
 わたしの手もとにある『高田の今昔』は、表紙裏に「拙著壱部/八雲文庫ニ献呈ス/昭和四年九月十六日著者」と献呈書きがあるが、この「八雲文庫」とはどこの施設だろうか。西大久保の旧・小泉八雲邸Click!に、そのような蔵書を公開する施設が当時オープンしてたものか、あるいは晩年に講師をしていた早稲田大学の図書館に、彼の特設コーナーでも設けられていたのだろうか。献呈書きの対向ページが同書の中扉であり、その次には折りたたまれた高田・雑司ヶ谷・落合・長崎地域の絵図、すなわち金子直德Click!が書いた『和佳場の小図絵(若葉の梢)』Click!をもとにした、1798年(寛政10)現在と同一の「曹司谷 白眼 高田 落合 鼠山全図」が付属している。
高田の今昔1929.jpg 高田の今昔献呈.jpg
高田の今昔奥付.jpg 高田の今昔広告.jpg
三才社掲載なし1926.jpg
 おそらく、江副廣忠は秋田雨雀Click!よりも年長で、著作に『大日本帝国御皇統大系図』などもあることから、社会主義者の秋田とは思想的に対極だったが、学者同士として積極的に交流していたようだ。同書の巻頭に掲載された、秋田雨雀の序文を少し引用してみよう。
  
 私達の住つてゐる雑司谷の土地は千年以来歴史的に著名な土地であり、七百年来仏教文化の発祥地であり、宗論の伝説を持つてゐる大威光山を有し、また徳川末期に於ては大名、武士、町人三階級の信仰と享楽の土地であつたと言ふ点からも文化史的に重大な位置を占めてゐるものといはなければなりません。然るに私達はその歴史の真相についてはほんの少ししか知つてゐません。或は全く知つてゐないといつていゝ位です。江副さんのこの著述は歴史、伝説、口伝を一々調査して、それに整理を与へてゐます。就中感服に堪へないことは威光寺伝説を研究して、史実により大胆にそれを修正しやうとしてゐることです。著者は威光山の寺内に住居してゐながら、少しも妥協しやうとされなかつたことは学者の態度として尊敬の念を禁じ得ません。
  
 雑司ヶ谷は「千年以来」の歴史どころか、落合地域と同様に旧石器時代から現代まで、間断なく人が住みつづけてきた数万年の重層遺跡が眠る地域となっている。
 秋田雨雀は、威光山法明寺の「寺内」と書いているが、雑司ヶ谷鬼子母神の門前は往年の法明寺境内の一部であり、その借地の上に建てられた江副邸であり三才社だったのだろう。江副廣忠が雑司ヶ谷24番地に住みはじめたのは、1929年(昭和4)の時点で丸9年=1920年(大正9)に転居というから、同町ではかなり新参の住民だった。それが、なにをきっかけに雑司ヶ谷の歴史や風情、文化に惹かれたのかは著者の序文にも書かれていないが、自宅周辺の環境や人情が気に入って調べてみる気になったのだろうか。
 同書より、かなり謙遜がすぎる江副廣忠の「自序」を少し引用してみよう。
三才社跡.jpg
高田警察署沿革.jpg
高田の今昔新聞記事.jpg
  
 九年も住んで居ればその土地の名蹟、伝説等にも通暁して居らねばならぬ筈でせうが、鈍感の私には其の知識は欠乏して居ります。誠にお愧かしい次第です。/私へ此の土地の事を少しでも教へて呉れたのは、黴の生えさうな昔の文献(それも少数)で、官公衛の統計等を頂いた外、土地の古老より一言の教へを受けた事もなく、又篤家とかに蔵せらるゝ(若しありとするも)一枚の文書でも借覧致した事がありませぬ。浅学粗笨の頭脳と、史料は貧弱至つて貧弱の書架と、ノートより引出して組立てました此の拙著、先輩各位の御一顧の価のない事は、私自身で百も承知二百も合点いたして居ります。
  
 それにしては、わずかな時間でよくこれだけのコンテンツを取材・編集・執筆できたものだ。威光山法明寺もそうだが、幕末に破却された鼠山Click!感応寺Click!の項目にいたっては、現存する文献のほとんどを網羅しているのではないだろうか。伝説や口伝も、往古の昔から現代に近いウワサ話まで収録してあり、名所旧跡の解説は高田町史よりもよほどボリュームがあって詳細だ。むしろ、『高田の今昔』を要約したり転載したのが、『高田町史』の記述のようにも思えてくる。
 また、現代の高田町については、位置や面積、地勢、沿革などの総説にはじまり、財政や教育、衛生、寺社宗教、商工業、警察、道路などほとんど『高田町史』と変わらない。もっとも、『高田町史』は1933年(昭和8)の出版なので、その4年前の町内データということになる。また、『高田町政概要』(1930年)からみれば前年のデータが網羅されており、『高田村誌』(1919年)からは10年後の高田町の姿をとらえていることになる。
 中には、『高田町史』よりもはるかに詳細な記述が見られ、たとえば高田警察署に関しては、江戸期の警察制度(町奉行所)からの歴史が解説されており、地元の警察署が板橋警察署管下から出発して、1918年(大正7)には板橋警察署巣鴨分署管下となり、1919年(大正8)に高田警察署としで独立。1929年(昭和4)の時点では、警部(署長)×1名、警部補×8名、巡査部長×10名、巡査×132名、書記×3名の計154名で構成されており、高田町と長崎町を管轄として派出所12ヶ所+駐在所5ヶ所で構成されていた……というように、各派出所や駐在所名までこと細かく収録されている。
 また、ところどころに挿入されたガリ切りのイラストも秀逸で、たとえば雑司ヶ谷鬼子母神の境内は、1929年(昭和4)現在ではどのような風情をしており、どのような人物たちが往来していたのかが細かく描きとめられている。イラストの左手には、江戸期創業の上川口屋Click!が見えているが、右手には枝折戸を開けている江戸期からの庭園付き料理屋とみられる店が残っている。また、参道手前の右下には鬼子母神名物の「すすきみみずく」を売る露店や、参道の左手には骨董品のようなものを並べて売る露天商の姿も見えている。当時の記念写真や絵はがきのたぐいは、人物をすべて省いた情景を撮影するのが通例であり、このような境内の日常を活写したイラストはとても貴重だ。
鬼子母神境内1929.jpg
すすきトトロ.jpg
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 挿画の中に、地元の工芸品「すすきみみずく」を何種か描いたイラストがあるが、そのひとつがいわゆる“オーパーツ”のようだ。どう見ても、1988年の「となりのトトロ」(スタジオジブリ)が横を向いた姿そのものだ。ミミズクのほかに、ひょっとすると当時はタヌキやキツネを形象化したものも売っていたのかもしれないが(鬼子母神にかかわる狐狸伝説Click!は周辺地域に多い)、いまでは「すすきみみずく」のみになっている。「すすきみみずく」ではなく、「すすきトトロ」についてなにか判明したら、またこちらでご紹介したい。

◆写真上:鬼子母神の仁王阿形像で、江副廣忠の三才社は画面右手あたりにあった。
◆写真中上は、1929年(昭和4)出版の江副廣忠『高田の今昔』(三才社/)と献呈書き()。は、同書の奥付()と三才社の『大日本帝国御皇統大系図』広告()。は、1926年(大正15)作成の「高田町住宅明細図」にみる雑司ヶ谷24番地界隈。
◆写真中下は、三才社(江副邸)があったあたりの現状。は、高田警察署の沿革について詳述したページ。は、当時の新聞記事まで収録したページ。
◆写真下は、同書の挿画で1929年(昭和4)の鬼子母神境内の様子。は、「すすきみみずく」のイラストだが中にはミミズクに見えない作品がある。は、現在の雑司ヶ谷鬼子母神と境内の茶屋で売っている「おせん団子」。笠森お仙Click!に関連する団子かと思って訊いたら、鬼子母神の子ども千人にちなんだ安産祈願の「お千団子」だそうだ。

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