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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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児島善三郎アトリエで稽古の『太陽のない街』。

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上落合215.JPG
 1920年(大正9)ごろ、雑司ヶ谷鬼子母神Click!の門前近くに開店していた駄菓子屋の奥まった部屋に、赤坂の電信局へ勤務する佐々木孝丸Click!が下宿していた。エスペラントを学んでいた彼は、毎日のように隣接する雑司ヶ谷509番地の秋田雨雀邸Click!を訪ねていたが、秋田もまたときどき佐々木を訪ねては誘いだして、雑司ヶ谷や神楽坂あたりをブラブラ散歩している。この散歩には、ときにワシリー・エロシェンコClick!が加わっていた。ほぼ同時期に雑司ヶ谷24番地へ転居し、のちに『高田の今昔』Click!を書くことになる江副廣忠も、秋田邸で佐々木孝丸と顔をあわせているかもしれない。
 それから8年後、1928年(昭和3)9月に上落合502番地へ国際文化研究所Click!を設立する際、佐々木孝丸は所長に秋田雨雀を招聘している。メンバーには、蔵原惟人Click!林房雄Click!、佐々木孝丸、永田一脩、辻恒彦、小川信一(大河内信威)、片岡鉄兵Click!らがいて、機関紙『国際文化』を編集・発行していた。佐々木孝丸は当時、村山知義アトリエClick!から北へわずか100m足らず、月見岡八幡社Click!(現・八幡公園)の北側にあたる上落合215番地(のち村山アトリエの並び上落合189番地へ転居)に住んでいた。
 上落合の家について、1959年(昭和34)に現代社から出版された佐々木孝丸『風雪新劇志―わが半生の記―』から、少しだけ引用してみよう。
  
 今度は上落合の村山知義のマヴォー的な怪奇な様相をした三角形の家のすぐそばに、こじんまりとした二階建ての貸家を見付けてそれへ引き移つたのだ。私の市ヶ谷滞在中に、妻が、山田清三郎夫妻と相談して、そこにきめたのであつた。一年半ぶりで、自分たち家族だけの住居をもつことになつたわけであつた。
  
 上落合の借家を紹介した山田清三郎Click!だが、このとき自身も上落合791番地へ転居していたころだ。また、1928年(昭和3)現在、村山知義アトリエをはじめ敷地内の借家を含む建物は全面リニューアル中だったと思われ、村山知義・村山籌子Click!のふたりは、いまだ下落合735番地のアトリエClick!に仮住まいをしていたかもしれない。
 「市ヶ谷滞在中」というのは、佐々木孝丸が友人と食堂でランチをしていたら、いきなり特高Click!に逮捕され、「深夜路上で泥酔し婦女に乱暴しようとした現行犯」の罪状で29日間、市ヶ谷刑務所に拘留されていたことをさしている。あからさまな罪状デッチ上げによる、特高の不当逮捕でありイヤガラセだが、国家安全維持法をカサにきた今日の香港公安警察と同様に、治安維持法をカサにきた特高によるこの手のデッチ上げ事件やイヤガラセは、別にめずらしくなくなっていた。
 国際文化研究所の設立から、およそ半年ほどたった1929年(昭和4)4月、ちょうど小山内薫Click!が急死してから1年後に、築地小劇場の劇団が内部対立から、とうとう「新築地劇団」と「劇団築地小劇場」とに分裂した。日本プロレタリア演劇同盟(プロット)に属し、左翼劇場の俳優・劇作家(兼翻訳家)・演出家のかけもちをしていた佐々木孝丸は、小林多喜二Click!の『蟹工船』上演をめぐる新築地劇団とのゴタゴタから、同劇団にも所属することになり、目のまわるような忙しさになった。
 同年11月には、新築地劇団でレマルクの『西部戦線異状なし』(脚色/演出・高田保Click!)を上演することになったが、偶然にも劇団築地小劇場も同作(脚色/演出・村山知義)を上演することになった。新築地劇団は帝劇Click!で、劇団築地小劇場は本郷座で上演したが、両舞台とも近来にない大ヒットとなった。劇場には入りきれない観客が押し寄せたため、新築地劇団は翌月に新橋演舞場で追加公演を行っている。
佐々木孝丸「風雪新劇志」1959.jpg 佐々木孝丸「風雪新劇志」内扉芥川沙織.jpg
佐々木孝丸(滝沢修).jpg
上落合215界隈.JPG
 もちろん、脚本は特高の検閲Click!でズタズタに削除されていたが、消された重要なセリフの場面にくると、そこだけセリフをいわず無言劇で演じるというジェスチャー作戦を行なったため、観客は削除されたセリフをおおよそ想像することができた。ちなみに、俳優として出演するときは佐々木孝丸のままで、劇作家(兼翻訳家)のペンネームは「落合三郎」、演出家は「香川晋」と名のっているが、「香川」は少年時代をすごした馴染みのある第2の故郷であり、「落合」は自宅のある地元の上落合からとったものだろうか。
 1930年(昭和5)2月、左翼劇場は徳永直Click!原作の『太陽のない街』を上演することになった。脚色は小野宮吉と藤田満雄で、演出を村山知義が担当し、舞台装置は金須孝だった。左翼劇場の俳優だけでは出演者が足りず、新築地劇団から応援の俳優として山本安英や細川ちか子、高橋豊子、山川好子、沢村貞子(沢村さだ)Click!三島雅夫Click!、笈川武夫、小沢栄太郎らが参加している。
 舞台『太陽のない街』は、左翼劇場はじまって以来の空前のヒットとなり、同年2月3日から11日までの9日間にわたり築地小劇場で上演されたが、500人が定員の同劇場に入り切れない、それ以上の観客たちが劇場の周囲を取り巻いた。そのときの様子を、1936年(昭和11)に沙羅書店から出版された、山本安英『素顔』から引用してみよう。
  
 稽古場が狭いというので、代々木の児島善三郎氏のアトリエを借りて稽古をし出したのが、初日の約十日前、旧評議会の人達で、実際に共印争議を指導した人達が、毎日稽古場へ詰めかけては、あの人は少し笑いすぎる、実際はあんなに笑う男ではない――宮地は、今少し大柄だつた。(読点ママ)とか、芝居と現実とをごつたにした、少し困る意見も飛び出しては来ましたが、それもみんな、過去の自分達の舞台にかける喜びの為であつたのでしよう。「太陽のない街」程の大入りは先ずなかつたと言つて差支えないでしよう。/プロレタリア劇団の本城である、左翼劇場の久し振りの公演である事や、芝居も今までの争議物のような固苦しい物でなく、大衆に親しみ易く盛り込んである事や、五百人定員の築地小劇場から毎日五百人乃至それ以上の客を満員の為に帰してしまいました。
  
 書かれている児島善三郎Click!のアトリエとは、代々木初台572番地(現・初台2丁目)に建っており、ちょうど明治神宮や代々木練兵場Click!(現・代々木公園)の西側一帯に拡がる丘陵地の、丘上にあたる眺めのいい一画だった。佐々木孝丸は、代々木に住んでいたことがあるので、そのあたりには土地勘があったのだろう。このころの児島善三郎は、1928年(昭和3)にパリから帰国したあと、1930年協会Click!に参加して間もないころだった。写生旅行など、なんらかの都合でアトリエをしばらく空けることがあったのだろうか。
代々木初台572.jpg
児島善三郎「代々木の原」1934.jpg
山本安英「素顔」1936沙羅書店.jpg 山本安英.jpg
 わずか10日間しか稽古をしなかった『太陽のない街』だが、幕を開けてみれば連日満員の大ヒットとなった。入場できず、築地小劇場を取り囲む群集は、少しでも舞台の様子をうかがおうと聞き耳を立てたりしていた。「いっそのこと、劇場の中ではなく外で芝居をやったら」などという冗談まで出たほどで、定員の500人よりもはるかに多い人々が、入場できずに劇場の周囲を取り巻いていた。
 国際文化研究所の所長だった秋田雨雀は、雑司ヶ谷の自宅からステッキをついてわざわざ築地まで歩いてきたが、3日間とも断られて観劇できずに諦めて帰っていった。また、原作者の徳永直でさえ満員で入場できず、2日連続で断られている。なお、小沢栄太郎は築地小劇場での『太陽のない街』が、初舞台でデビュー作となった。
 さて、上落合に住んだ佐々木孝丸も、村山知義Click!立野信之Click!宇野千代Click!が編集する雑誌「スタイル」のAD(アートディレクター)をしていた下落合の松井直樹Click!に劣らず、東中野駅前にあった酒場の「ユーカリ」のことを印象深く記憶している。佐々木孝丸『風雪新劇志-わが半生の記-』から、その想い出を引用してみよう。
  
 連れ立つて、よく新宿辺を飲み歩いたりしたが、ことに、東中野の駅の近くにあつた「ユーカリ」という酒場では、そこの娘のよつちやんという、表面如何にも無邪気そうで、その実、したたかにヴァンプ性を内包した少女をめぐつて、四角、五角の「さやあて」が演じられたりもした。/林、村山、杉本たちのドン・ファンぶりも仲々見事なもので、凡人の追随を許さぬものがあつたが、中でも杉本の迅速果敢なことは一頭地を抜いており、そのため、いつの間にか「良吉」が「エロ吉」と呼ばれるようになつたほどである。
  
 「林」は林房雄、「村山」はもちろん村山知義のことだが、この“よっちゃん”について記録に残す落合住民が多いところをみると、佐々木が観察しているように無邪気さを装いながら、どこか小悪魔的な雰囲気を漂わせた妖婦のような女の子だったのだろう。きっと、ヲジサンたちは各自「よっちゃんは、自分だけに心を許してるにちがいない」などと思いこまされてしまい、毎晩せっせと「ユーカリ」に通っては店の売り上げに貢献していたようだ。たぶん、“よっちゃん”のほうが1枚も2枚も上手だったような気がする。
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 佐々木孝丸は、その容貌から「善玉」よりも「悪玉」の配役のほうが多く、あこぎな資本家や右翼、官憲、ヤクザの親分、暴力団、性悪な地主などを演じることが多く、地方公演などへ出かけると芝居と現実の区別がつかなくなり激高した観客から、舞台上で殴られるという事件がしばしば起きた。だが、それほど役が板についていた、つまりリアルに演じられたからこそ観客は夢中で興奮したのであり、「役者冥利」につきると自ら慰めている。

◆写真上:佐々木孝丸が最初に住んだ、上落合215番地あたりの現状。
◆写真中上は、1959年(昭和34)に出版された佐々木孝丸『風雪新劇志』(現代社)の表紙カバー()と内扉()で装丁は洋画家の芥川沙織。は、1950年代末に滝沢修が撮影した佐々木孝丸。は、上落合215番地界隈の現状。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる代々木初台572番地界隈。は、1934年(昭和9)制作の代々木練兵場の写生とみられる児島善三郎『代々木の原』。は、1936年(昭和11)に沙羅書店から出版された山本安英『素顔』()と著者()。
◆写真下は、戦後に撮影された娘婿の千秋実(左)と佐々木孝丸。は、上落合215番地の次に転居した上落合189番地あたりの現状。この上落合189番地の家は村山アトリエに近接した東側にあたり、旧家・宇田川家Click!が建てた貸家の1軒だったと思われる。

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