先年、関東大震災Click!に関する警察関連の資料を当たっていたら、偶然、母方の祖父と曽祖父の名前を発見した。曽祖父のことはほとんど知らないが、おそらく明治期に横浜へ移り輸出用の絵付けでもしていたのだろう、祖父Click!も売れない日本画家と書家を兼ねたような仕事をしており、羽振りのいいときは芸者連を引き連れて花見や川遊びに繰りだしていたような人物なので、とうとう警察の厄介になったのかと思ったら、まったく見当ちがいだった。関東大震災のときに近所の人命救助や消火活動をして、その事情聴取の調書が警察の大震災資料の中に埋もれていたのだ。
1件は、電車の線路土手が地震の揺れで崩落し、土砂に押し流されて倒壊した家屋から生き埋めの一家を掘り起こしているのと、もう1件は台所から発火した火災を小火のうちに消火しているという2件の事件だ。警察の震災調書より、その一部を引用しよう。
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(前略)高架線路土堤崩壊して、同番地居宅中山三之助(三十八歳)、妻トヨ(三十一歳)、長女キミ(五歳)の三名下敷となつた。長女は死んだが、二名は之を救ひ出した。(中略) 同番地濱田タツ方に、台所附近から発火したのを見付け、(祖父と曽祖父が)協力して溝水(宅地側溝の下水)を汲み来り、之を消止めた。(カッコ内引用者註)
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親父の仕事の関係から、一時期住んでいた神奈川県の海辺の家Click!(祖父にとっては末娘の嫁ぎ先)にやってきては、いつも相模湾の地曳きClick!で獲れるサバやアジ類を肴に、朝から葡萄酒(ワイン)Click!を飲んでいた祖父Click!については、これまで何度か記事Click!に書いてきたけれど、まだ若いころの姿を父親(曽祖父)とともに記録した上記の資料を読んで、少なからず見直してしまった。警察調書に登場している、ひとり娘を失った中山夫妻は、その後どのような人生を送ったのだろうか。
このような昔話を、わたしは祖父の口から一度も聞いたことはないが、日本美術に関してはいろいろ詳しかったようで、仏教美術や浮世絵などが好きな親父とは、ふたりで本や美術図鑑を眺めながら長時間飽きずに話していたのを憶えている。親父は、祖父宅にあった刀剣類にはまったく興味を示さなかったけれど、わたしは床の間へ無造作に置かれた刃引き(刃の表面をつぶして斬れないようにする処理)がほどこされた、白鞘も付属しないむき出しで錆身の大刀は、自由に触らせてもらえたので飽きずに持っては楽しんでいた。もっとも、小学生のわたしにはかなりズッシリと重たかったのだが。
これら錆身の刀は、祖父の家に伝来した作品とは別に、祖父が近くの骨董店から購入したらしく、自分で研ぐのを楽しみにしていたようだ。ひょっとすると手先が器用で凝り性の祖父は、まるで研ぎ師Click!のように粗砥(あらと)から仕上砥(しあげと)まで、日本刀の研磨用に販売されていた20種類ほどのプロ用砥石さえそろえていたのかもしれない。
歳を重ねるごとに、祖父には訊ねてみたいことがたくさん出てくるのだけれど、祖父はわたしが中学2年生だった正月2日の朝、「きょうはお獅子がくるから、門と玄関のカギを開けときな」といい残したあと、突然心臓が停止Click!して他界している。
そんな祖父を思い出すたびに、どことなく姿が重なって見えるのが、麻布区(現・港区の一部)の麻布市兵衛町(現・六本木1丁目)で指物師をしていた向田邦子Click!の母方の祖父だ。(城)下町Click!育ちだった彼女の母親は、正月になると父親Click!の年始客接待に娘がつき合わされるのがかわいそうで、ときどき彼女を外へ逃がしてくれていたようだが、祖父の家への「お使い」という口実もあったかもしれない。
向田邦子の祖父は、若いころには家具調度を製作する上州屋を経営しており、辰野金吾チームとして東京駅Click!の調度製作などにも参画していたが、不用意に知りあいの連帯保証人になったことから多額の負債を抱えて会社は倒産し、晩年は麻布で細々と指物師の仕事を引き受けていた。1979年(昭和54)に講談社から出版された向田邦子『眠る盃』収録の、「檜の軍艦」から引用してみよう。
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世渡りは下手だったが腕はよかったと思う。だが、何とも時代が悪かった。職人として盛りの時期が、戦争激化、空襲、そして戦後のバラック建築にぶつかってしまったのである。/気に入った仕事がなければ半年でも遊んでいる、といった名人気質も晩年は折れて、家の前の焼跡に掘立小屋を建て、ぽつぽつと仕事を始めた。私はこの時期三年ほど居候をしたのだが、祖父が黙々と、しかも手抜きをせずにこたつ櫓など作るのを辛い気持で眺めていた。
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向田邦子が、祖父の家に居候していたのは戦後すぐの女学生のころで、麻布市兵衛町の家は当時の米国大使館に隣接して建っていた。そこに勤務する大使館員の子どもとみられる、野球帽をかぶった7~8歳の金髪の少年が、しじゅう祖父の工房へ遊びにきては手仕事をジッと見物するようになった。食糧難から、庭に作物を植えていた祖母の畑を踏まないよう注意しながら、繊細な気配りができたらしい少年は毎日通ってきていたようだ。
おそらく、今日の精巧なプラモデルを組み立てるような、指物師の鮮やかな道具さばきや繊細な手仕事に魅了され、日々、製作過程から目が離せなくなってしまったのだろう。ただ黙って、祖父が動かす手もとをジッと見つめつづけていたらしい。そのうち、少年と祖父は言葉がまったく通じないのに親しくなったものか、祖父は余った端材で複雑な細工の軍艦を制作し、少年へプレゼントしている。
全長2尺(約61cm)のヒノキ材で作った、釘を1本も使わない組子細工の軍艦(おそらく戦艦)だったが、日本海海戦の当時に活躍した時代遅れの艦影だったらしい。向田邦子は、少年とともに軍艦の仕上げを見ていたが、「少年にやるのは惜しいな」と感じたというから、よほど凝った作りの精巧な軍艦だったのだろう。大使館員の家庭では、少年が持ち帰った軍艦の精密な細工にビックリしたらしく、「そばかす美人」の母親が缶詰類や菓子類など大量の食料を両腕いっぱいに抱えながら、祖父の家へお礼にやってきている。
指物師ではないが、わたしの祖父も細かな手仕事をなんでも自在にこなしている。たとえば、近くにあった社(やしろ)の神輿を設計・製作して奉納したり、仏壇や神棚なども製作しては材料費+αで安く知人に譲っていたようだ。書や日本画だけではとても食べられないので、アルバイトがわりにいろいろ引き受けているうちに、もともと手先が器用だった人なので、多彩な手仕事(いま風にいえばDIY)がプロはだしになっていたのだろう。
子どものころの記憶だが、日本刀の研ぎも繊細な刃取り(化粧研ぎ=研ぎの最終段階で刃文を美しく研ぎだす技術)まで、きちんとできていた印象がある。また、白鞘や刀の拵え(こしらえ)も、刀装具をそろえては自分で組み立てていたのではないだろうか。もっとも、明治生まれの人は多芸で器用な人たちが多く、こんなところも向田邦子の祖父とどこかで重なって見えるゆえんなのかもしれない。
向田邦子は、同エッセイで「私の身のまわりの基準というか目安は、この祖父にあるのではないかと思うようになった」と書いているが、わたしもときどきそう強く感じることがある。親父は、浮世絵や仏教美術の画面(たとえば法隆寺の焼けた金堂壁画や曼荼羅など)以外はほとんど興味を示さなかったが、わたしは絵画全般が好きだし、刀剣美術の趣味は完全に祖父と一致している。親父は酒を1滴も飲めなかったけれど、わたしが日本酒よりも洋酒が好きだというのは母親ゆずり、つまり祖父ゆずりのような気がしている。
わたしは、祖父が書をしたためたり日本画を描くところや、器用な手さばきで細工をしている様子を、すなわち仕事をするところを実際に一度も見たことがなく、アルバムに貼られた展覧会の記念写真や、和室で腰をかがめてなにかを描いている写真、神社の祭礼時に奉納した神輿の横で宮司と笑う姿でしか知らない。もちろん、初孫のわたしが来訪する日は、仕事の道具や作品はみんな片づけて、朝から待ちかまえていたせいもあるのだろう。
いまのわたしなら、いや、いまのわたしの意識のまま少年のころにもどれたら、向田邦子の祖父の家に遊びにきていた米国の少年のように、ひがな1日、祖父の仕事ぶりを眺めているかもしれない。そして、ひと息入れて葡萄酒を飲む祖父に、関東大震災のときの実体験や、ウィルスが盛衰(1サイクル)する3年間、すなわち大震災の前に経験したスペイン風邪Click!が蔓延する様子や世相について、根ほり葉ほり訊ねていたにちがいない。
◆写真上:1923年(大正12)9月に、牛込区(現・新宿区の一部)改代町で倒壊家屋の間を歩く人物。あと片づけ作業がスタートしているようなので、関東大震災から数日後か。
◆写真中上:上は、淀橋区(現・新宿区の一部)の角筈に見られた倒壊家屋。レンガ造りの建物は全壊しているが、隣りの下見板張り木造家屋はもちこたえているのがわかる。下は、1923年(大正12)9月1日に淀橋区の大久保から眺めた市街地方面の大火災雲。
◆写真中下:上は、牛込区東五軒町の十三間道路(現・目白通り)にできた地割れで左手は江戸川(現・神田川)。中は、鉄筋コンクリート(RC)工法のビルが崩壊した芝区(現・港区の一部)三田にあった日本電気(NEC)の製造工場。構内にいた100名以上の工員が圧死しており、遠景の丘に見えているのは慶應義塾大学と思われる。下は、1979年(昭和54)に講談社から出版された向田邦子『眠る盃』(文庫版/左)と著者(右)。
◆写真下:上は、1931年(昭和6)に赤坂榎坂町(現・赤坂1丁目)に竣工した米国大使館。中は、1948年(昭和23)に撮影された赤坂榎坂町から麻布市兵衛町にかけての空中写真。ちょうど祖父宅に居候していた向田邦子も、このどこかにいたはずだ。下は、現在のプラモデル「戦艦三笠」だが手のこんだ指物師の木製軍艦もこれに劣らず精巧だったかもしれない。