目白崖線には、東端に通う江戸川橋の目白坂Click!から、西端の下落合(現・中井2丁目)に通うバッケ坂Click!までの間に、きわめて傾斜のきつい急坂が何本も通っている。街灯が普及する大正期以前、夜間に急坂を上り下りするのはずいぶん骨が折れただろう。月が出ていない晩など真っ暗闇で、坂下の暗黒へ吸いこまれそうな感覚にとらわれたのではないだろうか。東京の丘陵地域には、「暗闇坂」と名づけられた坂が何本も存在している。
ましてや、雨でぬかるんでいると足が滑ってうまく上れず、荷運びで重要なルートに位置する急坂には“押し屋”Click!と呼ばれる、大八車Click!やリヤカーClick!、馬力の低い昭和初期のトラックなどを後押しする人夫たちが常に待機していた。それでも登坂に無理な場合は、荷物を小分けにして運びあげてから改めて荷台に積み直している。
わたしが学生だったころ、下落合のあちこちの坂道を日替わりで上ってはアパートへ帰っていたが、もっとも印象に残っているのは、山手線のトンネルガードをくぐってすぐ右手にある、日立目白クラブClick!(旧・学習院昭和寮Click!)の横から近衛町Click!の丘上へ抜けられるバッケ坂Click!と、現在の野鳥の森公園脇にあるオバケ坂Click!の2本だ。前者は、あまりにも傾斜が急すぎて上ると息が乱れたが、丘上に拡がる大きな西洋館の邸宅群を眺めながら、静寂な街並みをゆっくり歩くのが好きだった。
後者のオバケ坂Click!は、特に夜間になってから帰宅する際は、ほとんど真っ暗な山道のハイキングコースを歩いてでもいるような錯覚をおぼえるぐらい、下落合では当時から異質な急坂だった。もちろん舗装などされておらず、道の両側からクマザサが繁ってる時期など、道幅は50cmほどしか見えなかった。街灯も現在ほど数が多くなくまばらで、左手にはいまにも朽ち果てそうな廃屋の平家が1軒(旧・鈴木邸で現在の野鳥の森公園の中央部あたりに)ポツンと残っており、「バッケ坂」という一般名称が「オバケ坂」あるいは「幽霊坂」に転化したのを、そのまま証明しているような寂しい急坂だった。
七曲坂Click!を上ると、わたしはいつも鎌倉の切り通しClick!を思いだしてしまうのだけれど、事実、この坂道は坂下から出土した鎌倉時代の板碑Click!から、同時期の鎌倉と同じような工法で切り拓かれている可能性がきわめて高い。坂下の鎌倉街道の支道(雑司ヶ谷道Click!=新井薬師道)と、丘上に通っていた道とをつなぐ坂だったとみられ、目白崖線沿いでもっとも古い坂道のひとつなのかもしれない。
現在は舗装され、両側の丘上には住宅やマンションが建っているが、いまでさえ「痴漢注意」の看板があるほどで、大正期以前は夜になると人通りがパッタリ途絶えた暗闇の坂道だったろう。七曲坂は戦後すぐのころでさえ、子どもがひとりで歩けるような坂道ではなかった。当時の様子を、2013年(平成25)に発行された『私たちの下落合(増補版)』収録の、平林邦子という方が書いた「下落合と私」から引用してみよう。
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昭和二十五年、我が家はこの七曲り坂の下のほうに土地を求め、バラックを建てて現在に至っている。当時高田馬場駅のホームからわが家の庭の八重桜が見えた。そのころの七曲り坂は両側が高く崖になっており、松、八重桜、シイの木のほか大きな樹木が覆いかぶさるように茂って暗い陰を落とし、子どもなど怖くてとても一人で歩けるような坂ではなかった。夜など手をつなぎ、歌をうたいながら通ったことなども懐かしい。母はヒマラヤ杉の素敵な細道に家を建てたかったそうだが、娘たち三人の通学の便を考え、父の意見で七曲り坂の下のほう、高田権太郎さんのお隣になったのである。坂の両側には深いどぶが流れており、松の枝に紐がかけられ、下に人がうずくまっていたという怖い経験もある。
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1950年(昭和25)の当時は坂を上りはじめると、右側は切り立った崖地で地面がむき出しであり、左手には蔦で覆われた古いコンクリートの築垣が長くつづく上に、戦災をまぬがれた旧・華族の大島久直邸Click!の大きな西洋館が、濃い屋敷林に囲まれて建っていた時代だ。右手は権兵衛山(大倉山)、左手はタヌキの森Click!のピークClick!があった山なので、その山間を切り割って通した切り通し坂は、まさに緑のトンネルだったろう。
現在でさえ、左側につづく1916年(大正5)ごろに造られた大島邸の古いコンクリートの築垣はほぼそのままだし、右手の崖地はおそらく当時と大差ない風情をしていると思われる。また、わたしの学生時代には、左手の築垣上は東京飯店の社長宅になっていて、モダンな箱型の現代住宅に変わっていた。
このようなバッケに通う坂道は、別に目白崖線に限らず小日向台Click!や神田久保Click!の崖地、本郷台地Click!、国分寺崖線Click!などでも同様で、都内のあちこちには「バッケ坂」あるいは「バッケの坂」が転化したとみられる、オバケ坂や幽霊坂を見つけることができる。東京の市街地では、「バッケ(崖地)」の意味がとうに忘れ去られ、言葉の音がひとり歩きをした結果、地域によってさまざまな名称の転化を生じているとみられるが、国分寺崖線沿いの用語である小金井の「ハケ(崖地)」は生き残り、いまでも「ハケの坂」「ハケの道」という用語が現役でつかわれている。
この現象は、「大森バッケ」Click!が「大森八景」に、「金沢バッケ」が「金沢八景」に転化(転訛)しているところをみると、江戸の後期あたりから「バッケ」本来の意味が忘れられはじめ、東京の市街地では明治以降に他所からの移住者が急増したため、より早く忘れ去られたのではないかと思われる。だが、市街地から離れた郊外では、開発が大正後期までズレこんだため、下落合でも同様だが「バッケ」の用語が連綿と受け継がれており、現在でも「バッケ坂」が現役でつかわれているのだろう。
大正期に、下落合の坂道を観察して記録した書物はあまり見あたらないが、落合地域とは柏木村や角筈村、代々木村、渋谷村をはさんだ南の目黒村では、大正期の武蔵野の面影を色濃く残した「バッケ坂」について記録した文章が残っている。もう勘のいい方はお分かりだと思うが、目黒川に架かる太鼓橋へと下る行人坂のことだ。山手線・目黒駅で降車した著者は、行人坂を少し下りはじめたあたり、現在のホリプロのビルがある少し手前あたりから、坂下に拡がる漆黒の闇をのぞきこんでいるのだろう。
大正の関東大震災Click!の少し前から郊外の目黒村に住み、武蔵野の伝説や怪異譚などを収集した随筆家・礒萍水(いそひょうすい)が、1943年(昭和18)に青磁社から出版した『武蔵野風物志』に収録の「目黒界隈」から引用してみよう。
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何かの会で遅くなつて十時過ぎ、省線を下りて朝来の雨の裡(なか)を行人坂の上に立つた。そして其の儘三十幾つかの私が、坂の上で佇蹙(すく)んで了つた。その時の暗さは今でも目に見える、彼の暗さ、あれから後にも、あれ程の暗さに逢つた事がない、停車場の灯と別れたのが明さの最後であつたのだ。降り頻る雨の裡に、闇に脅かされて進退谷(きわま)つて了つたのである。何うにも足の踏み場がない、底の知れない深い深い漆黒の闇、正直の處私は泣いた、涙こそ流さなかつたが泣いたのである。/けれど何時まで斯うしてはゐられない、家がある、家へ帰らなければならない。私は泣きながら勇気を奮ひ起して、井戸へ下るやうな気持で手探りで這ひながら、漸(ようや)つとの事で坂を下りた。
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おそらく、昔日の下落合に通う急坂の夜道も、同じような感覚をもよおしただろう。しかも、行人坂よりもはるかに傾斜が急な坂が、下落合にはいくつかある。
ところが関東大震災後、ほんの数年で目黒は落合地域と同様に激変することになる。
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目黒も昔は好い村だつた。一日の勤めを了して帰つて来ると、向うから袢纏股引草鞋ばき、鍬を担いだすつとこ冠りの爺さんがやつて来た。おや地主さまぢやないか、此方から声をかけない先に、お帰りですか、御苦労さまで、此方の云ふべき言葉もなく、此儘を鸚鵡返し、帽子をとつて行過る。/彼の心掛けなら、先づ彼の人の代は大丈夫だらう、それががらり、眼鏡違ひ、此鍬を担いで咥え煙管の爺さんが、やがてのことに絹か物の丹前で朝から赤い顔、勿体なや糟糠四十年の婆さまを二号の若さに見返して、競馬が病付き、株だ、米だ、五年と数へない内に地主が変る。/私も此齢になつて、今更ながら良い学問をした。
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大震災後に起きた東京郊外の狂乱地価Click!と、ディベロッパーによる郊外新興住宅地の開発にますます拍車がかかり、武蔵野の暗闇が急速に消えていく端緒に、礒萍水はちょうど目黒の太鼓橋近くで居あわせたことになる。戦時中の空襲時における灯火管制はともかく、山手線内外の武蔵野が進退きわまるような暗闇に沈むことはほとんどなくなっていった。
◆写真上:権兵衛山(大倉山)に通う、下落合でも指折りの急坂である夜の権兵衛坂。
◆写真中上:上は、大正末に拓かれた近衛町の丘上に通うバッケ坂。中は、下落合村本村Click!の西に通う西坂Click!。下は、1941年(昭和16)ごろに拓かれた夕闇せまる御留坂。
◆写真中下:上は、目白崖線では最古クラスの鎌倉期開拓とみられる七曲坂の昼と夜。中は、七曲坂に鬱蒼とした屋敷林に囲まれ戦後まで建っていた1917年(大正6)建築の大島久直邸。下は、七曲坂を歩くといつも思いだす鎌倉の極楽寺坂切通しClick!の坂。
◆写真下:上は、ゆるい坂道を上ると急峻なバッケ(崖地)が立ちはだかる目白台。中は、同じく目白台の幽霊坂。下は、目黒駅の西側で目黒川に落ちこむ行人坂(大圓寺前より画面左手)。目黒雅叙園で地元の古老の方にお話をうかがったとき、空襲時の様子や行人坂沿いにある雅叙園の百段階段が焼け残った理由などを詳細をうかがうことができた。その方も太鼓橋の近くにお住まいで、戦前までは礒萍水邸のご近所だったのかもしれない。