Image may be NSFW.
Clik here to view.
JR新宿駅の西口に、とうに忘れ去られた怪談スポットがある。青梅街道と十二社通りがT字形に交叉する交差点、江戸期の地名でいうなら、柏木村柏木成子町の東端にあたるエリアだ。下落合から3.5kmほど南へ下ったところ、常圓寺と徳川幕府の大筒角場(射撃訓練所)、そして3万石の松平下屋敷に囲まれており、明治期になると周囲を淀橋浄水場Click!の工場正門や専売局煙草工場、精華女学校などに囲まれる地点だ。古い事蹟でいえば、高台に築かれた大きな新宿角筈古墳(仮)Click!の真北に位置するエリアだ。
「雷ヶ窪(らいがくぼ)」と呼ばれる地点で怪異現象が記録されたのは、いまから334年前、1687年(貞享4)8月に中山勘解由直守が牛込の自邸で急死し、同家の墓所である飯能の能仁寺へと向かう葬列で起きた。中山勘解由といえば、『武鑑』に記録された正式の役職名でいうと、江戸初期に若年寄支配の捕役「盗賊火方改」をつとめ、その容赦ない取締りから「鬼勘解由」との異名をとった役人だ。「盗賊火方改」などという発音しにくい肩書きは、江戸ではどんどん改変され通称「火付盗賊改」、またはそれもまだまだるっこしいので単に「加役」と呼ばれるようになる警察組織のことだ。
少し余談だが、長ったらしい言葉や口にしにくい言葉が、どんどん短縮されたりいいやすい名詞に変えられていくのは、別に「水道(すいどう)」→「すいど」→「いど」Click!、「御城下町」→「下町(したまち)」Click!、「お師匠さん」→「おしょさん」→「おしさん」の江戸期に限らず、明治以降の東京でも頻繁に起きる現象だ。親から上の世代では、「山手線(やまのてせん)をそのまま発音する人はおらず、ほとんどの人たちが「やまてせん」あるいは「のてせん」と発音していた。現代もまったく同様で、「情シス」「オンプレ」「サステナ」……など、おもに業務現場でカタカナ用語の短縮化が著しい。
さて、中山勘解由が加役に就任した江戸時代の初期、幕府旗本の権威をカサにきた不良若侍たち=旗本奴(はたもとやっこ)の横暴は、江戸の町々で目に余るものがあった。屋敷から街中へ出てきては、商家を脅迫してカネを巻きあげたり、ときに大名に難癖をつけては暴れまわる悪質な行為が目立った。それでも、大名屋敷では旗本奴に対抗できる、腕の立つ家臣を集めることができたが、町人たちはそうはいかなかった。そこで登場したのが、いわずと知れた幡随院長兵衛(ばんずいんちょうべえ)とその一党だ。
江戸時代において、武家と町人とが実力行使(暴力)をともないながら、階級的にもっとも鋭く対立したのは、この旗本奴と町奴(まちやっこ)が対峙した江戸初期だろうか。幡随院長兵衛の本名は塚本伊太郎といい、浅草寺も近い東隣りの花川戸で口入屋(就職斡旋業)を営む見世を経営していた。その彼が、剣の腕が立つ若者や腕っぷしの強いはぐれ者たちを組織して、目にあまる旗本奴の横暴に対抗しはじめたのだ。そして、旗本奴の首魁のひとり水野十郎左衛門の屋敷に招かれて騙し打ちに遭い、長兵衛の死体は江戸川(現・神田川)へ投げこまれたのか、隆慶橋Click!の近くで見つかっている。
ここで、また少し横道にそれるが、江戸時代の町人には苗字(姓)がなかった……というのも、時代劇や講談から生まれたおかしな“神話”や錯覚だろうか? 町人は「姓がない」のではなく、元和偃武より厳しくなった「士農工商」の階級規定から、「士」以外の身分は姓があっても名のれなかったのだ。町名主や庄屋などに「名字帯刀を許される」という表現があるが、名字(苗字)を「許される」のであって、新たに付加するのではない点に留意したい。町人である幡随院長兵衛=口入屋伊太郎も、もちろん「塚本」という姓をもっていた。わが家も江戸全期を通じて町人(商人)だが、江戸初期に北関東で食いっぱぐれて幕府が開かれたばかりの江戸へ出てくるまでは武家なので、もちろん当初からの姓は受け継がれていた。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
Image may be NSFW.
Clik here to view.
幡随院長兵衛を殺害したにもかかわらず、水野十郎左衛門は直接的な証拠がないため特に罰せられなかったが、幕府は眈々と旗本奴の取締りをねらっていたのだろう、1664年(寛文4)に突然家禄(5千石)を没収され、松平阿波守の屋敷へ“お預け”となった。同屋敷でおとなしく謹慎していれば、遠島で済んでいたかもしれないが、おそらく態度も悪く暴れまわったのだろう、翌日「赦し難き重々の無作法」を理由に、幕府から切腹を命じられた。もちろん「重々の無作法」とは、町人を向こうにまわしてケンカや脅迫を繰り返し、おまけに幡随院長兵衛を殺害したことも含まれていたのだろう。切腹には、常に携帯していた愛刀の貞宗Click!を使いたいと申し出て許されている。
水野十郎左衛門と徒党を組んでいた旗本奴の首魁、加賀爪甲斐守(1万石)は八丈へ遠島、そのほか主だった“子分”たちの小出左膳、小笠原刑部、安孫子新太郎ら57名は八丈島、三宅島、大島へ流罪となり、江戸の町々を肩で風きって歩いていた旗本奴は壊滅した。ここで勢いを得たのは、幡随院長兵衛は殺されたが、ほとんど無傷で残った町奴たちだった。幕府の取り締まりで、しばらく鳴りをひそめていた彼らだが、徐々にわがもの顔で江戸市中を歩きまわり、武家さえ脅したりケンカを売ったりして暴れまわった。
旗本奴の粛清から20年後、町奴の動向をにらんで探索を繰り返していた「鬼勘解由」こと加役の中山勘解由は、屋敷にあった仏壇をたたき壊して自ら「鬼になる」と宣言し、1684年(貞享元)を迎えると唐犬権兵衛を皮切りに、放駒四郎兵衛、死人小左衛門、大佛三夫など名うての町奴たち37人を捕縛しては、片端から斬首していった。中山勘解由はこの功績により、すぐに大目付へと抜擢されている。
さて、それからわずか3年後、町奴の祟りか過労からかで中山勘解由が牛込で急死し、ここでようやく飯能にある菩提寺まで遺体が運ばれるという、冒頭の葬列シーンへもどってくる。葬列が四谷をすぎ、内藤新宿をすぎて追分の二叉路から青梅街道に入ると、快晴だった空が一転にわかにかき曇り急に雷鳴が聞こえだした。そのときの様子を、1943年(昭和18)に青磁社から出版された磯萍水『武蔵野風物志』から、少し長いが引用してみよう。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
Image may be NSFW.
Clik here to view.
▼
此日は朝からからりと晴れ渡つた、時雨も心配なささうな日和であつたのに、如何したことか、其處には待構へたかの如く一叢の黒雲も柩を見るなり、御参なれとばかりに舞ひ下る。/忽然として黄昏の暗さに包まれた、と思ふ間もなし、吹き捲る旋風、叩きつける暴雨、紫電瞳に灼鐵を飛ばして、射られた眼は暫し開くべくもない。雷は葬列の真上を、遁さじものと駆け遶る。狂風、暴雨、天と地を引裂く雷光、これを此世の最後かとばかり轟き狂ふ大雷鳴。/柩を護る人々も終に堪りかねて柩を捨てた。袖を冠り、地に伏して、唯々神仏のお助けを希ふより他はない。/何うなり行くのであらう、人々は此儘此處で雷に撃れて殺されるのかと、心から泣いた。いまこそ雷侯激怒の頂上、人々がさう感じた途端に、雷槌は撃下された、鐵壁銅山粉微塵の激轟。/柩の上だ。火柱が立つた。/人々が半死から蘇つた時に、先づ目に映じたのは、柩も、内の仏も、木端微塵に撃砕かれて、寸影を留めぬ、それであった。
▲
どうやら、葬列の一行は夏の積乱雲の真下へ突っこんでしまったようだ。江戸東京では、昔から西と北からやってくる雷雲をそれぞれ大山雷と日光雷Click!と呼んでいたが、中山勘解由の棺桶に落下したのは西からやってきた大山雷だろう。
科学的に考えれば、なぜ棺桶に雷が落ちたのかは、現在の葬儀でもときどき見かける儀礼や習慣によるものではないだろうか。おそらく棺桶の上には、魔除けのために置かれたむき出しの短刀ないしは脇指が、遺体の「守り刀」として置かれていた可能性が高い。現在の葬儀で使われる刀は、プラスチックで造られたレプリカだが、もちろん当時はホンモノの刀剣が置かれていた。金属に落ちやすい雷は、周囲が田畑で突起物がそれほどない窪んだ地勢の中で、それめがけて落下したのではないか。以来、やや窪地状になったその土地のことを、誰かれともなく地元では「雷ヶ窪」と呼ぶようになった。
もっとも、これだけなら別に菅公の落雷祟りと同様で、町奴たちの恨みや呪いが雷となって中山勘解由の棺桶を襲った……ぐらいのエピソードで終わったかもしれない。ところが、不思議なのはそれからのことだ。中山勘解由の遺族たちが、飯能へ墓参りに出かけるため、屋敷を出て青梅街道の雷ヶ窪へ差しかかるたびに、まるで待ち伏せでもされているかように必ず激しい雷雨になった。内藤新宿から柏木成子町の一帯では、晴れていたのに一転にわかにかき曇り激しい雷雨に襲われると、「これは、中山家の誰かが墓参りに出かけたな」と、昭和初期までウワサされるようになったという。
もちろん、現在のJR新宿駅の西口で、超高層ビルが建ち並ぶ谷間を歩いていて、急に空がかき曇り雷雨に襲われたとしても、「これは、中山家の人々が……」などという人はもはや誰もいない。雷も、高層ビルに設置された避雷針に落ちて、ようよう地上まではとどかなくなった。だからよけいに、1960年代末ぐらいから「雷ヶ窪」怪談は完全に忘れ去られ、誰も語り継ぐ人がいなくなってしまったのだ。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
Image may be NSFW.
Clik here to view.
Image may be NSFW.
Clik here to view.
Image may be NSFW.
Clik here to view.
なかなか地上に落雷しないので、中山勘解由に首を斬られた町奴の怨霊たちが、「どうしたってんだい、ええ?」と、雷ヶ窪にドロドロと様子を見に現れたら、どこからか幡随院長兵衛の亡霊も「若(わけ)えの、待ちなせえ。鈴ヶ森の第一京浜よりもひでえありさまなのさ、てめえらクルマに轢(ひっ)殺されちまうぜ。雷よりもおっかねえやな、気をつけな……って、もうとうに死んでるじゃねえか、なぁ」と、いちおう止めに入るだろうか。
◆写真上:祟りだ呪いの雷だといっても、なんの怖さも説得力もない現在の雷ヶ窪。
◆写真中上:上は、1862年(文久2)作成の尾張屋清七版の切絵図「内藤新宿千駄ヶ谷辺図」にみる雷ヶ窪。下は、1910年(明治43)作成の1/10,000地形図にみる雷ヶ窪。
◆写真中下:上は、1858年(安政5)に国貞(三代豊国)Click!が描く幡随院長兵衛。下は、江戸期を外れ1891年(明治24)に香朝樓が描く「水野十郎左衛門」。
◆写真下:上は、1953年(昭和28)に撮影された芝居『御存鈴ヶ森(ごぞんじ・すずがもり)』で初代・中村吉右衛門の幡随院長兵衛(右)と9代目・市川海老蔵の白井権八(左)。中は、1943年(昭和18)出版の磯萍水『武蔵野風物志』(青磁社)の表紙(左)と奥付(右)。戦時出版で紙質やインクが悪くボロボロだが、磯萍水はいまでは忘れられた東京の「怖い話」を蒐集しているので、夏が遠ざからないうちにご紹介したい。下は、現在の雷ヶ窪とその周辺。
Clik here to view.

JR新宿駅の西口に、とうに忘れ去られた怪談スポットがある。青梅街道と十二社通りがT字形に交叉する交差点、江戸期の地名でいうなら、柏木村柏木成子町の東端にあたるエリアだ。下落合から3.5kmほど南へ下ったところ、常圓寺と徳川幕府の大筒角場(射撃訓練所)、そして3万石の松平下屋敷に囲まれており、明治期になると周囲を淀橋浄水場Click!の工場正門や専売局煙草工場、精華女学校などに囲まれる地点だ。古い事蹟でいえば、高台に築かれた大きな新宿角筈古墳(仮)Click!の真北に位置するエリアだ。
「雷ヶ窪(らいがくぼ)」と呼ばれる地点で怪異現象が記録されたのは、いまから334年前、1687年(貞享4)8月に中山勘解由直守が牛込の自邸で急死し、同家の墓所である飯能の能仁寺へと向かう葬列で起きた。中山勘解由といえば、『武鑑』に記録された正式の役職名でいうと、江戸初期に若年寄支配の捕役「盗賊火方改」をつとめ、その容赦ない取締りから「鬼勘解由」との異名をとった役人だ。「盗賊火方改」などという発音しにくい肩書きは、江戸ではどんどん改変され通称「火付盗賊改」、またはそれもまだまだるっこしいので単に「加役」と呼ばれるようになる警察組織のことだ。
少し余談だが、長ったらしい言葉や口にしにくい言葉が、どんどん短縮されたりいいやすい名詞に変えられていくのは、別に「水道(すいどう)」→「すいど」→「いど」Click!、「御城下町」→「下町(したまち)」Click!、「お師匠さん」→「おしょさん」→「おしさん」の江戸期に限らず、明治以降の東京でも頻繁に起きる現象だ。親から上の世代では、「山手線(やまのてせん)をそのまま発音する人はおらず、ほとんどの人たちが「やまてせん」あるいは「のてせん」と発音していた。現代もまったく同様で、「情シス」「オンプレ」「サステナ」……など、おもに業務現場でカタカナ用語の短縮化が著しい。
さて、中山勘解由が加役に就任した江戸時代の初期、幕府旗本の権威をカサにきた不良若侍たち=旗本奴(はたもとやっこ)の横暴は、江戸の町々で目に余るものがあった。屋敷から街中へ出てきては、商家を脅迫してカネを巻きあげたり、ときに大名に難癖をつけては暴れまわる悪質な行為が目立った。それでも、大名屋敷では旗本奴に対抗できる、腕の立つ家臣を集めることができたが、町人たちはそうはいかなかった。そこで登場したのが、いわずと知れた幡随院長兵衛(ばんずいんちょうべえ)とその一党だ。
江戸時代において、武家と町人とが実力行使(暴力)をともないながら、階級的にもっとも鋭く対立したのは、この旗本奴と町奴(まちやっこ)が対峙した江戸初期だろうか。幡随院長兵衛の本名は塚本伊太郎といい、浅草寺も近い東隣りの花川戸で口入屋(就職斡旋業)を営む見世を経営していた。その彼が、剣の腕が立つ若者や腕っぷしの強いはぐれ者たちを組織して、目にあまる旗本奴の横暴に対抗しはじめたのだ。そして、旗本奴の首魁のひとり水野十郎左衛門の屋敷に招かれて騙し打ちに遭い、長兵衛の死体は江戸川(現・神田川)へ投げこまれたのか、隆慶橋Click!の近くで見つかっている。
ここで、また少し横道にそれるが、江戸時代の町人には苗字(姓)がなかった……というのも、時代劇や講談から生まれたおかしな“神話”や錯覚だろうか? 町人は「姓がない」のではなく、元和偃武より厳しくなった「士農工商」の階級規定から、「士」以外の身分は姓があっても名のれなかったのだ。町名主や庄屋などに「名字帯刀を許される」という表現があるが、名字(苗字)を「許される」のであって、新たに付加するのではない点に留意したい。町人である幡随院長兵衛=口入屋伊太郎も、もちろん「塚本」という姓をもっていた。わが家も江戸全期を通じて町人(商人)だが、江戸初期に北関東で食いっぱぐれて幕府が開かれたばかりの江戸へ出てくるまでは武家なので、もちろん当初からの姓は受け継がれていた。
Image may be NSFW.
Clik here to view.

Image may be NSFW.
Clik here to view.

幡随院長兵衛を殺害したにもかかわらず、水野十郎左衛門は直接的な証拠がないため特に罰せられなかったが、幕府は眈々と旗本奴の取締りをねらっていたのだろう、1664年(寛文4)に突然家禄(5千石)を没収され、松平阿波守の屋敷へ“お預け”となった。同屋敷でおとなしく謹慎していれば、遠島で済んでいたかもしれないが、おそらく態度も悪く暴れまわったのだろう、翌日「赦し難き重々の無作法」を理由に、幕府から切腹を命じられた。もちろん「重々の無作法」とは、町人を向こうにまわしてケンカや脅迫を繰り返し、おまけに幡随院長兵衛を殺害したことも含まれていたのだろう。切腹には、常に携帯していた愛刀の貞宗Click!を使いたいと申し出て許されている。
水野十郎左衛門と徒党を組んでいた旗本奴の首魁、加賀爪甲斐守(1万石)は八丈へ遠島、そのほか主だった“子分”たちの小出左膳、小笠原刑部、安孫子新太郎ら57名は八丈島、三宅島、大島へ流罪となり、江戸の町々を肩で風きって歩いていた旗本奴は壊滅した。ここで勢いを得たのは、幡随院長兵衛は殺されたが、ほとんど無傷で残った町奴たちだった。幕府の取り締まりで、しばらく鳴りをひそめていた彼らだが、徐々にわがもの顔で江戸市中を歩きまわり、武家さえ脅したりケンカを売ったりして暴れまわった。
旗本奴の粛清から20年後、町奴の動向をにらんで探索を繰り返していた「鬼勘解由」こと加役の中山勘解由は、屋敷にあった仏壇をたたき壊して自ら「鬼になる」と宣言し、1684年(貞享元)を迎えると唐犬権兵衛を皮切りに、放駒四郎兵衛、死人小左衛門、大佛三夫など名うての町奴たち37人を捕縛しては、片端から斬首していった。中山勘解由はこの功績により、すぐに大目付へと抜擢されている。
さて、それからわずか3年後、町奴の祟りか過労からかで中山勘解由が牛込で急死し、ここでようやく飯能にある菩提寺まで遺体が運ばれるという、冒頭の葬列シーンへもどってくる。葬列が四谷をすぎ、内藤新宿をすぎて追分の二叉路から青梅街道に入ると、快晴だった空が一転にわかにかき曇り急に雷鳴が聞こえだした。そのときの様子を、1943年(昭和18)に青磁社から出版された磯萍水『武蔵野風物志』から、少し長いが引用してみよう。
Image may be NSFW.
Clik here to view.

Image may be NSFW.
Clik here to view.

▼
此日は朝からからりと晴れ渡つた、時雨も心配なささうな日和であつたのに、如何したことか、其處には待構へたかの如く一叢の黒雲も柩を見るなり、御参なれとばかりに舞ひ下る。/忽然として黄昏の暗さに包まれた、と思ふ間もなし、吹き捲る旋風、叩きつける暴雨、紫電瞳に灼鐵を飛ばして、射られた眼は暫し開くべくもない。雷は葬列の真上を、遁さじものと駆け遶る。狂風、暴雨、天と地を引裂く雷光、これを此世の最後かとばかり轟き狂ふ大雷鳴。/柩を護る人々も終に堪りかねて柩を捨てた。袖を冠り、地に伏して、唯々神仏のお助けを希ふより他はない。/何うなり行くのであらう、人々は此儘此處で雷に撃れて殺されるのかと、心から泣いた。いまこそ雷侯激怒の頂上、人々がさう感じた途端に、雷槌は撃下された、鐵壁銅山粉微塵の激轟。/柩の上だ。火柱が立つた。/人々が半死から蘇つた時に、先づ目に映じたのは、柩も、内の仏も、木端微塵に撃砕かれて、寸影を留めぬ、それであった。
▲
どうやら、葬列の一行は夏の積乱雲の真下へ突っこんでしまったようだ。江戸東京では、昔から西と北からやってくる雷雲をそれぞれ大山雷と日光雷Click!と呼んでいたが、中山勘解由の棺桶に落下したのは西からやってきた大山雷だろう。
科学的に考えれば、なぜ棺桶に雷が落ちたのかは、現在の葬儀でもときどき見かける儀礼や習慣によるものではないだろうか。おそらく棺桶の上には、魔除けのために置かれたむき出しの短刀ないしは脇指が、遺体の「守り刀」として置かれていた可能性が高い。現在の葬儀で使われる刀は、プラスチックで造られたレプリカだが、もちろん当時はホンモノの刀剣が置かれていた。金属に落ちやすい雷は、周囲が田畑で突起物がそれほどない窪んだ地勢の中で、それめがけて落下したのではないか。以来、やや窪地状になったその土地のことを、誰かれともなく地元では「雷ヶ窪」と呼ぶようになった。
もっとも、これだけなら別に菅公の落雷祟りと同様で、町奴たちの恨みや呪いが雷となって中山勘解由の棺桶を襲った……ぐらいのエピソードで終わったかもしれない。ところが、不思議なのはそれからのことだ。中山勘解由の遺族たちが、飯能へ墓参りに出かけるため、屋敷を出て青梅街道の雷ヶ窪へ差しかかるたびに、まるで待ち伏せでもされているかように必ず激しい雷雨になった。内藤新宿から柏木成子町の一帯では、晴れていたのに一転にわかにかき曇り激しい雷雨に襲われると、「これは、中山家の誰かが墓参りに出かけたな」と、昭和初期までウワサされるようになったという。
もちろん、現在のJR新宿駅の西口で、超高層ビルが建ち並ぶ谷間を歩いていて、急に空がかき曇り雷雨に襲われたとしても、「これは、中山家の人々が……」などという人はもはや誰もいない。雷も、高層ビルに設置された避雷針に落ちて、ようよう地上まではとどかなくなった。だからよけいに、1960年代末ぐらいから「雷ヶ窪」怪談は完全に忘れ去られ、誰も語り継ぐ人がいなくなってしまったのだ。
Image may be NSFW.
Clik here to view.

Image may be NSFW.
Clik here to view.

Clik here to view.

Image may be NSFW.
Clik here to view.

なかなか地上に落雷しないので、中山勘解由に首を斬られた町奴の怨霊たちが、「どうしたってんだい、ええ?」と、雷ヶ窪にドロドロと様子を見に現れたら、どこからか幡随院長兵衛の亡霊も「若(わけ)えの、待ちなせえ。鈴ヶ森の第一京浜よりもひでえありさまなのさ、てめえらクルマに轢(ひっ)殺されちまうぜ。雷よりもおっかねえやな、気をつけな……って、もうとうに死んでるじゃねえか、なぁ」と、いちおう止めに入るだろうか。
◆写真上:祟りだ呪いの雷だといっても、なんの怖さも説得力もない現在の雷ヶ窪。
◆写真中上:上は、1862年(文久2)作成の尾張屋清七版の切絵図「内藤新宿千駄ヶ谷辺図」にみる雷ヶ窪。下は、1910年(明治43)作成の1/10,000地形図にみる雷ヶ窪。
◆写真中下:上は、1858年(安政5)に国貞(三代豊国)Click!が描く幡随院長兵衛。下は、江戸期を外れ1891年(明治24)に香朝樓が描く「水野十郎左衛門」。
◆写真下:上は、1953年(昭和28)に撮影された芝居『御存鈴ヶ森(ごぞんじ・すずがもり)』で初代・中村吉右衛門の幡随院長兵衛(右)と9代目・市川海老蔵の白井権八(左)。中は、1943年(昭和18)出版の磯萍水『武蔵野風物志』(青磁社)の表紙(左)と奥付(右)。戦時出版で紙質やインクが悪くボロボロだが、磯萍水はいまでは忘れられた東京の「怖い話」を蒐集しているので、夏が遠ざからないうちにご紹介したい。下は、現在の雷ヶ窪とその周辺。