若いころの佐々木孝丸Click!は雑司ヶ谷に住み、近所の秋田雨雀Click!やワシリー・エロシェンコClick!とともに、よく雑司ヶ谷墓地を散策している。雨雀がめぐる散歩コースはほぼ決まっていて、メインストーリとの近くにある夏目漱石Click!の墓の横を通り、横道の外れにひっそり建っている島村抱月Click!の墓の前でしばらくたたずみ、小泉八雲Click!や綱島梁川の墓の前をめぐって、最後に死刑囚の共同墓地へ抜けるというコースだった。天気がよければ、そこにある芝生で休息していた。
当時、佐々木孝丸は新劇の世界へ入る以前の話で、島村抱月の墓前でもそれほど深い感慨はおぼえなかったのかもしれない。この時期、彼は秋田雨雀とともに新宿中村屋Click!の2階で行われる朗読会「土の会」に参加しており、雨雀作などの新しい創作戯曲をはじめイプセンやチェーホフ、ゴーゴリなどの戯曲を選んでは朗読していた。秋田雨雀と親交のある仲間のほか、神近市子Click!や相馬黒光Click!、当時は自由学園Click!の生徒だった相馬千香Click!なども加わり、相馬愛蔵Click!とエロシェンコClick!が聞き役や批評を行なっていた。
この「土の会」がきっかけとなり、佐々木孝丸は演劇に強く惹かれたものか、1923年(大正12)の春に新宿中村屋が麹町平河町で華族の大屋敷を購入したとき、大きな土蔵を小劇場に改造することが決まると、真っ先に参画して仲間と劇団「先駆座」を起ち上げている。“土蔵劇場”は、すべて決まった観客を前提にした会員制の小劇場で、真っ先に申しこんできたのは島崎藤村Click!、次が有島武郎Click!、その次が水谷竹紫と水谷八重子Click!というように、ほとんどが文学や演劇の関係者で占められていた。
“土蔵劇場”は、柳瀬正夢Click!の舞台装置も話題になったが、新宿中村屋が60人ほどの観客へ茶菓を提供することでも評判になった。佐々木孝丸は、同劇場でストリンドベリーの『火あそび』で主役を演じ、秋田雨雀の『手投弾』にも出演している。このとき、彼は有島武郎から「君にはコメディアンの素質がある。真剣に芝居をやつてみませんか」(佐々木孝丸『風雪新劇史』より)といわれ、本格的に演劇の世界へのめりこむきっかけとなった。
このあと、佐々木孝丸は前衛座を興し、前衛芸術家同盟の結成で前衛劇場、東京左翼劇場、新築地劇団へと参加し、日本プロレタリア演劇同盟(プロット)の初代委員長をつとめている。しかし、たび重なる逮捕・拘留と、ささいな路線や方針のちがいで繰り返される揚げ足とりのようなセクト主義的対立、さらにつまらない理由(酒を飲み歩いて遊んでいたことが問題視された)により演劇団体や組織から干されるにおよび、「感情的社会主義者」(当人規定)だった佐々木孝丸は運動の狭量さにウンザリして、地下に潜行した共産党にふりまわされる劇団活動がつくづくイヤになっていったようだ。
1931年(昭和6)ごろになると、めぼしい左翼や組合の活動家はことごとく逮捕・拘留され、特高警察Click!は特に違法行為をしていない人々まで、ありもしない罪状をデッチ上げて逮捕するまでになっていた。佐々木が出演していた築地小劇場へも、特高や私服憲兵が姿を見せるようになった。その時の様子を、1959年(昭和34)に現代社から出版された佐々木孝丸『風雪新劇史―わが半生の記―』から引用してみよう。
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芝居の稽古場へ特高が踏み込んで来て、「無届集会」を理由に、劇団の主だつたものを引つ張つて行つてブタ箱にぶち込んだり、芝居を見に来た観客を一人々々身体検査して嫌がらせをやつたり、という具合で、入場者の数は減る一方、そこへもつてきて、土方(与志)や佐野(碩)は外国へ行つてしまい、村山(知義)、杉本(良吉)、小埜(裕二)、千田(是也)等の有力メンバーは捕えられて未決へ放り込まれ、かてて加えて、劇団員のお話にならぬ困窮と病人の続出などで、正常な演劇活動は極度に困難の度を加えて行つたのである。「太陽のない街」や「西部戦線(異常なし)」の頃のような意気揚々たる気配はどこにも見られなくなつた。(カッコ内引用者註)
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左翼活動家はもちろん、そのシンパまで逮捕・拘留しはじめる端緒の出来事だった。
1933年(昭和8)2月、小林多喜二Click!が築地署で虐殺されたとき、たまたま築地小劇場に出演していた佐々木孝丸は、同署から多喜二の遺体を引きとり、数人で杉並町馬橋3丁目375番地(現・杉並区阿佐ヶ谷南2丁目) の自宅まで運んでいる。そして、弔問や葬儀へ参列するために小林家を訪れた人々は、すべて特高によって追い払われるか検挙されたが、江口渙Click!と佐々木孝丸だけが「死体の始末」(特高が発言した言葉のママで、まるでヤクザか殺人犯のようだ)を理由に、葬儀への参加を許可されている。「死体の始末」とは、多喜二の遺体を火葬場へと運ぶには男手が必要だったからで、佐々木孝丸は江口はともかく自身は「感情的社会主義者」なのを特高がそれを見透かし、相対的に「危険が少ない人物」(同書)として許可されたのだろうと想像している。
共産主義者や社会主義者、アナキズムの活動家などが思想犯としてあらかた投獄され、そのシンパたちも根こそぎ逮捕・拘禁されてしまうと、特高は年々「成果」=検挙数が減少しはじめている。そこで、大正デモクラシーを体現していた民本主義(ないしは民主主義)者、あるいはサンディカリスト、自由主義者などに弾圧の範囲を拡げ、「反政府活動」を理由にデッチ上げて逮捕・拘禁しはじめている。つまり、資本主義革命の基盤を支えた政治思想である自由主義や民主主義さえ政府に対する「危険思想」として位置づけ、まるでタコが自分の足を食うように弾圧しはじめたのだ。
ちょっと余談めくけれど、官僚などの組織にはありがちなことだが、とある部局の目に見える「成果」(特高なら思想犯や反戦を口にする人間の摘発・逮捕)が年々低下すれば、業務の減少から予算を減らされたり組織が縮小され、やがてその存立基盤がゆるぎかねないのはいつの時代でも同様だ。したがって、「成果」を減らさないためには、常に前年度と同等か前年度よりもさらに大きな「成果」を上げなければならないことになる。
10年ほど前までの笑い話に、東京の地震対策関連部局が発表していた、大震災による犠牲者数の「減少」がある。ずいぶん以前(わたしの学生時代)には十万人単位だった大震災で想定される犠牲者数が、役所によるさまざまな防災計画や対策が年々実施されるうち、被災シミュレーションをもとに発表される犠牲者数が年々「減少」しはじめ、万人単位から千人単位、そして百人単位となり、しまいには関東大震災Click!と同等の大地震が発生しても、東京での犠牲者は十人単位あるいはゼロまでいくのではないかと、巷間では「お役所仕事の典型」と呆れられ笑い話のネタになっていた。それが、東日本大震災を契機に、いつの間にか再び万人単位へともどっているのはなぜだろう?
つまり、同部局では耐震設計の徹底をはじめ、道路の安全整備、河川における災害時物流桟橋の確保、各種施設などの脆弱箇所の改善、危険点の解消などを通じて、年々犠牲者が「減少」していく「成果」を常に発表せざるをえなかったのだ。防災・減災部局の対策にもかかわらず、相変わらず十万単位の犠牲者が予想される状態がつづいていれば、「なにをやってる?」と部局の存在意味が問われ責任者のクビも危うかっただろう。部局のスタッフに「悪意」はなく、できるだけ安全性を担保する施策を行なってきたと思われるが、それによって「減少」しつづけた犠牲者数の数値は、明らかに都合のいいことばかりを想定し、すべて予測どおりにコトが運び、突発的な想定外アクシデントなど起こりそうもない、楽観主義が横溢した“図上演習”での犠牲者数だったにちがいない。
まったく同様のことが、内務省の特高警察でも起きている。しかも、こちらは悪質かつ陰湿な思想弾圧の暴力装置なので始末が悪い。特高警察は、1928年(昭和3)の三・一五事件Click!による思想弾圧の成果で、199万円余(当時の給与換算だと現在の約99億5,000万円)の莫大な予算が第55議会を通過しており、内務省の一部局としては例外的な予算だった。そして、肥大化した組織にはより大きな成果が求められるようになり、翌1929年(昭和4)の四・一六事件を引き起こすことになる。この功により、当時の特高課長だった纐纈彌三(こうけつやぞう)は、天皇から勲五等旭日双光章を授与されている。特高は敗戦の日まで、常に前年比を上まわる成果を上げることが目標となり、ほんの些細な政府批判でも当該者を逮捕し、拷問にかけて「自白」させ起訴を繰り返す悪質な弾圧組織と化していく。
昭和10年代になると、政府に「異」を唱える人物はことごとく検挙されていくことになった。左翼のシンパから、とっくに足を洗った佐々木孝丸のもとにも、さっそく特高たちが逮捕にやってくる。1940年(昭和15)8月19日、思想性の希薄な娯楽作品を書き、舞台を演出していた彼には「寝耳に水の愕き」だった。この時点から、特高はその人物の思想性ではなく、政府の意向に沿わなさそうな(さらには特高の個人的かつ恣意的な感情で)、すべての言論や表現に対して弾圧の手を伸ばしていく。同書より、つづけて引用してみよう。
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「戦時体制」を強化するために、少しでも自由主義的な傾向のものは、根こそぎ刈り取つてしまおうとする政策の一つの現われであることが、私にも分つた。左翼からは反動扱いにされていた帝大教授の河合栄治郎氏のようなリベラリストでさえが、その自由主義の故に逮捕され起訴されている時代だったのだ。
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大正期や昭和初期の感覚で、同じようなことを口にすればたちまち逮捕・拘留される、そんな時代が到来していた。しかも、今日の北朝鮮のような隣組制度Click!に象徴されるように、相互監視と当局への密告が奨励されていた。JAZZはおろかクラシック音楽(ドイツ)を聴いていただけでベートーヴェンのレコードまでが押収され、欧米音楽の「愛好家」として特高に引っぱられるケースまで起きている。1941年(昭和16)には、治安維持法の条項が従来の7条から65条まで増加され、政府の方針に少しでも異議を唱えた人物は「死刑」の極刑を含む重罰に課せられることになった。
日米が開戦し、自由主義者や民主主義者の主だった人物たちを逮捕・拘禁してまうと、特高はまたしても「成果」を維持・拡大するために、今度は気に入らない新聞や出版社など言論機関、教育機関、学者・研究者などに対してありもしない「事件」をデッチ上げ、「犯罪」や「罪状」を捏造していくようになる。穏健な学者である安倍能成Click!でさえ、特高や憲兵隊に目をつけられる時代が招来していた。もはや権力の暴走を止められる組織はなく、戦時中の混乱期には膨大な犠牲者を生む結果となった。今日では、元・特高の刑事たちを告訴し、戦後も長期間にわたり裁判がつづいた「横浜事件」がもっとも有名だが、同様の事例は全国各地で起きている。国家を滅ぼす「亡国」状況が、目前に迫っている時代だった。
◆写真上:1923年(大正12)4月に新宿中村屋の「土蔵劇場」で上演された、先駆座による「竹内事件」をベースとする秋田雨雀『手投弾』の舞台。
◆写真中上:上は、雑司ヶ谷墓地にある夏目漱石の墓。中は、1935年(昭和10)ごろの新宿中村屋。下は、同店で行われていた朗読会の様子。
◆写真中下:上は、「土蔵劇場」で上演された秋田雨雀『手投弾』の舞台。少女が出演しているが、自由学園の生徒だった相馬黒光の二女・千香だろうか。中は、柳瀬正夢のスケッチ『手投弾舞台』。下左は、朗読会では聞き役だったV.エロシェンコ。下右は、1912年(明治45)制作の中村彝Click!『帽子を被る少女(習作)』でモデルは相馬千香。
◆写真下:上は、戦後に合同の還暦祝いへ出席した新劇仲間で左から久坂栄二郎、佐々木孝丸、土方与志。中は、戦後に撮影された『種蒔く人』の創刊メンバーで左から小牧近江、村松正俊、松本弘二、佐々木孝丸。下は、今日の香港国家安全維持法における公安警察の思想弾圧のように、「共謀罪」を根拠に特高警察の復活をいいはじめる人物が政府内に現れれば、そのような「亡国」思想Click!の輩こそ憲法違反で摘発してほしい。