いま、日本の旧石器時代がおもしろい。1949年(昭和24)の相沢忠洋Click!による群馬県の岩宿遺跡の発見以来、全国各地で続々と旧石器を産出する遺跡が見つかり、日本の歴史は一気に10万年前後(島根県出雲市の砂原遺跡は、放射性炭素年代測定=FT法により約11万年前の旧石器時代前期)にまでさかのぼることになった。
落合地域では、岩宿遺跡の発見からわずか5年後の1954年(昭和29)に、目白学園Click!の落合遺跡Click!で旧石器が発見され、旧石器時代人が都内の「新宿」にも住んでいたと、当時のマスコミの話題をさらっていた。
実は、落合遺跡Click!から旧石器が発見されたのはもっと前からで、早稲田大学の直良信夫や滝沢浩による個人的な調査では、岩宿遺跡の発見とほぼ同時期に下落合で旧石器が採取されている。このあたり、戦前から相澤忠洋が自転車で行商をしながら、崖地でコツコツと旧石器を採取していた経緯とよく似ており、1949年(昭和24)の岩宿遺跡の発見は、明治大学が正式に発掘調査をした年紀に由来している。同様に、早大の考古学チームが正式に落合遺跡を発掘調査をしたのが、1954年(昭和29)というわけだ。
同年の目白学園における落合遺跡の発見について、40年ほど前に編集された資料には以下のように記述されている。1983年(昭和58)に新宿区から刊行された、『新宿区の文化財(9)-民俗・考古』(新宿区教育委員会)から引用してみよう。
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現在先土器時代の存在は全国的に認められており、東京都内でも各所でこの時代の石器包含地が発見されている。区内では、落合遺跡から先土器時代の石器が発見された。ここの先土器時代の石器(先土器をプレ・セラミックというので通常略してプレといっている)については、直良信夫博士や滝沢浩氏(略)が早くから採集しておられたが、昭和二十九年七月の調査でも数点が発見された。/遺物のあったのは、黒土(表土)の下の赤土(ローム層)一〇センチほど下の小石(礫)のまじる層(第一層)と、同じく赤土三五~四〇センチの下の層(第二層)でここにも礫が見られた。
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この文章は40年足らず前、1980年代の旧石器時代(落合遺跡)に関する記述だが、現在ではすでに通用しなくなってしまった。文中に登場している、旧石器時代を意味する別名「先土器時代」(ときに「無土器時代」)、あるいは「プレ・セラミック」時代という呼称が、21世紀の今日では揺らいで使用できにくくなってしまったからだ。
旧石器についてのとらえ方も、同様に大きく揺らいでいる。前世紀の「世界史」(実際は「ヨーロッパ史」が中心)では、旧石器時代の次が新石器時代であり、両時代の明確な区分は前者が石を打ちつけて割る打製石器の時代であり、後者が土器の製造とともに石をていねいに研磨して磨製石器を造る時代だと区分し規定していた。このようなヨーロッパ的な史観が、日本の考古学でもそのまま踏襲され、長期間にわたって支配的だった。
ところが、日本の旧石器時代の遺跡からは、刃の部分へていねいに研磨をほどこした磨製石斧(せきふ)の旧石器が続々と発見され、従来では常識といわれていた「世界史」レベルの史観を根底から覆してしまった。この磨製石斧は、それぞれサイズが大小さまざまで、発見された地域によっても多種多様な形状が知られているが、一様に刃を磨製して鋭く切れやすい加工がほどこされている点では共通している。
すでに発掘された旧石器について、改めて旧石器時代の磨製石器(前世紀の「世界史」では、この表現自体がありえない矛盾だと否定されただろう)を意識的に精査したところ、日本で最初に発見されたのは前述の岩宿遺跡だったとみられることが判明している。つづいて、長野県の日向林B遺跡からは磨製の旧石器が一気に大量出土し、いまや日本全国で数百点にのぼる発見事例が蓄積されている。
「世界史」(というかヨーロッパ史)では、磨製石器が登場するのは(いまのところ)新石器時代からであり、旧石器時代の磨製石器は常識外れの「例外」……ということになっている。なぜなら、「世界史」上で「例外」にしておかなければ、ヨーロッパよりも東アジアのほうが“ものづくり”文化が進んでいたことになってしまうからだ。
ヨーロッパ中心の、従来型「世界史」の史観ではない視線で、すでに発掘された落合遺跡の旧石器を観察してみると、改めて単に石材を打ち割っただけでなく、鋭利に薄く研磨されたような痕跡を見つけることができる。たとえば上掲の資料に、精細なイラストでスケッチされた第二層出土の旧石器の一部が掲載されているが、第1図A-1および第2図-3、第3図-1の旧石器には、研磨したと思われるような鋭角の刃が付いている気配を感じる。同遺跡からは、数多くの旧石器が見つかっているが、今日的な観察眼で検証すると、はたしてどのような新しい発見がもたらされるのだろうか。
さらに、前世紀末に旧石器時代の遺跡から世界最古の土器が発掘され、世界中の研究者たちを驚愕させたのは記憶に新しい。しかも、これまた発見されたのは日本であり、東京都内の遺跡が2ヶ所も含まれている。旧石器時代の土器発見という、コペルニクス的な転回事例も「世界史」(ヨーロッパ史)の学界的な視座からみれば、東アジアに位置する日本の「特殊性」に起因した「例外中の例外」にしておきたいテーマなのだろう。
2021年に朝日新聞出版から刊行された、森先一貴『日本列島四万年のディープヒストリー―先史考古学からみた現代―』より引用してみよう。
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「土器の出現」もしかり。今から20年以上前になるが、青森県大平山元I遺跡でおよそ一万六五〇〇年前~1万五〇〇〇年前にさかのぼる土器が出土したと発表され、世界中の研究者を驚かせた。日本をはじめ東アジアはまだ寒冷期だった更新世に、土器を使う狩猟民がいたことになるからだ。まだ農耕や牧畜が始まる気配すらないころである。放射性炭素年代測定技術の進展によって、その後も同じような成果が陸続ともたらされた。しかもその分布をみると、北は北海道の大正3遺跡、本州中央部では東京都前田耕地遺跡・御殿山遺跡、西は長崎県福井洞窟に拡がり、日本列島の大部分でほとんど同時期に世界最古級の土器がつくられたらしい(略)。現在では、ロシア極東や中国南部にも同程度の古さをもつ土器が現れていたと考えられている。
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東京都内では、あきる野市の前田耕地遺跡と、武蔵野市の井の頭公園内にある御殿山遺跡の旧石器時代層から、無紋とみられる同時代の土器が発見されている。それぞれ小さな破片なので、全体像を想定し復元するのは非常に困難なようだが、これらの細かな焼成破片が旧石器時代=先土器時代(無土器時代)と規定された、「世界史」の常識を大きく塗りかえようとしている。これら土器の研究には、日本だけでなくヨーロッパの学者たちが参加しているのも、グローバルな研究成果が期待できるポイントだろう。
そこで、目白学園の大規模な落合遺跡の発掘成果にもどるのだが、発掘調査が行われたのは1950年代や、1970~90年代にかけて間欠的に行われるなどかなり以前のことであり、これら旧石器時代の土器が見逃されている可能性があることだろう。または、すでに発掘され博物館や倉庫に保存されている「縄文式土器」や「弥生式土器」の欠片の中に、旧石器時代の土器がまぎれこんでやしないだろうか?
もちろん発掘当時は、現在のような手軽にできる放射性炭素年代測定=FT法など存在しなかったので、落合遺跡の深層から出土した土器類は縄文期に分類されているとみられるが、もう一度改めて最新技術をベースに検証しなおしてみると、興味深い成果が得られるのではないかと期待してしまう。あるいは、これから再び同遺跡を発掘できる機会があれば、もはや旧石器時代は「無土器」「先土器」「プレ・セラミック」という先入観が、少なくとも日本の研究者の間にはなくなりつつあるので、新たな発見が期待できるかもしれない。
いまでこそ、土器にそのまま時代名が付与されているのは縄文式土器と弥生式土器だが、近い将来には「旧石器式土器」というような名称が登場するのだろう。そのきっかけとなる大きな発見が、落合遺跡を中心に下落合の丘のどこかに眠っているのかもしれない。
◆写真上:下落合の丘上にある、落合遺跡が眠る目白学園キャンパスの遠景。
◆写真中上:上は、長野県の日向林B遺跡から大量に発見された旧石器時代の磨製石器類。中・下は、下落合4丁目2217番地(現・中落合4丁目)の目白学園キャンパスで発見された旧石器。この中で、第1図A-1に研磨加工の気配を感じる。
◆写真中下:上・中は、同じく目白学園落合遺跡から発掘された旧石器で、第2図-3および第3図-1の鋭角な刃部に磨製の痕跡を感じてしまう。下は、旧石器時代層から土器が発見された青森県の大平山I遺跡と、同遺跡から発掘された土器片。
◆写真下:上は、東京都あきる野市にある旧石器時代の土器片が発掘された前田耕地遺跡のモニュメント。中は、同じく都内武蔵野市の井の頭公園内にある御殿山遺跡の記念碑。下は、同じく御殿山遺跡から発掘された旧石器時代の無紋とみられる土器片。