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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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明治の女性画家を先駆ける吉田ふじを。

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吉田アトリエ1.jpg
 これまで明治末から大正期にかけ、女性画家の嚆矢として目白文化村Click!は第一文化村のすぐ北側、下落合1385番地Click!にアトリエをかまえていた二科の甲斐仁代Click!や、下落合の会津八一Click!があきらめきれずに追いかけた文展・帝展の渡辺ふみ(亀高文子)Click!については何度か書き継いできた。そしてもうひとり、下落合には女性画家の先駆けとして忘れてはならない人物が住んでいる。
 1934年(昭和9)より、下落合2丁目667番地の第三文化村にアトリエをかまえていたのは、明治期の7歳のときから絵を習いはじめていた文展や太平洋画会Click!、そして朱葉会の吉田ふじを(藤遠)だ。夫で太平洋画会の創立者のひとりだった夫・吉田博Click!(もともとは義兄)の陰に隠れがちだが、彼女の絵画へのめざめは早く16歳のときから太平洋画会展へ11点もの作品(水彩画)を出品している。
 同じく幼少時より、家庭の美術環境のなかで育ち、満谷国四郎Click!の弟子だった渡辺ふみ(亀高文子)より1歳年下だが、ふたりは太平洋画会あるいは朱葉会つながりで顔なじみだったかもしれない。また、文展への入選は吉田ふじをのほうが早く、1907年(明治40)の20歳のとき第1回文展で『カーナックの遺跡』『蓮池』『奈良の茶店』の3点(水彩画)が展示されている。渡辺ふみが文展に入選するのは、2年後に開催された第3回文展へ出品した『白かすり』が最初だった。
 吉田博・ふじを夫妻のご子孫である吉田隆志様Click!のお招きで、三鷹市美術ギャラリーに「世界をめぐる吉田家4代の画家たち」展Click!の内覧会へうかがってから、ずいぶん時間がたってしまったけれど、女性画家の先駆けである吉田ふじをについて改めて記事にしてみたい。わたしは同展で、彼女の作品を実際に目にしているし、同展より7年前の2002年(平成14)には、府中市美術館と福岡市美術館で「吉田ふじを展」が開催されていた。
 吉田ふじをは1887年(明治20)に福岡市で生まれているが、7歳のときに父親を亡くし、吉田家へ養子に入っていた吉田博を頼って東京の麻布区へ住むようになる。このころから彼女は絵画、特に水彩画に興味をもちはじめ、5年後の12歳になると小山正太郎の不同舎に入門して、本格的に絵を学びはじめている。
 吉田ふじをが特異なのは、16歳のときから1907年(明治40)の20歳になるまで日本を離れ、義兄の博とともに米国をはじめヨーロッパ諸国やアフリカなどをめぐって、絵画の勉強をつづけていることだ。すなわち、当時としては他に例のない、出発点からグローバルな視野を身につけた唯一の女性画家だということだろう。
 米国では、各地の美術館やギャラリー、図書館、大学などで「兄妹ふたり展」が開催され、新聞にも大々的に取りあげられて評判となった。このときの高い人気が米国人たちの記憶に鮮明に残り、敗戦直後には下落合の吉田アトリエClick!へマッカーサー夫人をはじめ、美術に興味のあるGHQの将校や夫人たちが次々と訪れては、絵画や創作版画を習う画塾ないしは美術サロンのような場になっていったのだろう。空襲から焼け残った吉田アトリエは、大きな西洋館であるにもかかわらずGHQの接収をまぬがれている。
 吉田ふじをは、海外にいたときから第4回・第5回太平洋画会展へ作品を出展している。20歳になって帰国した彼女は、1907年(明治40)の第1回文展や東京勧業博覧会などで次々と作品が入選した。同時に、太平洋画会の満谷国四郎夫妻Click!が媒酌人となり、義兄の博と結婚して本郷区の駒込動坂町に新居兼アトリエをかまえている。
吉田ふじお「旗日の府中」1902頃.jpg
吉田博「グロスター港」1904.jpg 吉田ふじを「米国グロスター漁船」1904.jpg
吉田ふじを「神の森」1910.jpg
 明治末の水彩画の人気は相当なもので、各地に水彩画塾が開かれ次々と画家を輩出していた。拙サイトでも、その代表的な画家として落合地域を描いた三宅克己Click!をご紹介しているが、吉田ふじをの作品群はその水彩画人気の真っただなかで制作されていた。夏目漱石Click!もまた、吉田ふじをと吉田博の作品には目をとめている。1908年(明治41)に東京朝日新聞へ連載された、『三四郎』Click!(第三書館版)から引用してみよう。
  
 長い間外国を旅行して歩いた兄妹の絵がたくさんある。双方とも同じ姓で、しかも一つ所に並べてかけてある。美禰子はその一枚の前にとまった。/「ベニスでしょう」/これは三四郎にもわかった。なんだかベニスらしい。(中略) 黙って青い水と、水と左右の高い家と、さかさに映る家の影と、影の中にちらちらする赤い片とをながめていた。すると、/「兄さんのほうがよほどうまいようですね」と美禰子が言った。三四郎にはこの意味が通じなかった。/「兄さんとは……」/「この絵は兄さんのほうでしょう」/「だれの?」/美禰子は不思議そうな顔をして、三四郎を見た。/「だって、あっちのほうが妹さんので、こっちのほうが兄さんのじゃありませんか」/三四郎は一歩退いて、今通って来た道の片側を振り返って見た。同じように外国の景色をかいたものが幾点となくかかっている。/「違うんですか」/「一人と思っていらしったの」/「ええ」と言って、ぼんやりしている。
  
 三四郎が絵にまったく興味のないことが、美禰子にバレてしまうくだりだ。文中にもあるが、吉田ふじをの初期の絵は義兄でのちに夫となる吉田博の画面と、ちょっと見ただけでは区別がつかないほどよく似ていた。海外ですごす間、すでにプロの画家だった義兄からみっちり指導を受けていたせいで、その表現の模倣からスタートしているせいだろう。吉田ふじをが、吉田博の影響からハッキリと訣別するのは夫の死後、戦後になって油絵を本格的にスタートさせてからのことだ。
 大正期に入ると、水彩画の人気は徐々に下火となり、油彩画への人気が急速に高まる。夫の吉田博は、油絵と創作版画に重点を移していったが、吉田ふじをは描くモチーフを風景から花や植物などを中心とする静物へと変えただけで、水彩をやめようとはしなかった。このころから、多忙をきわめた家庭生活を含め、彼女の停滞期がつづくことになる。1911年(明治44)に長女を疫痢で亡くし、次いで長男の病気療養がつづいたのも、一家の主婦を自覚していたとみられる彼女にとっては、「制作どころではない」状況がつづいたのだろう。
吉田ふじを(幼年).jpg
吉田ふじを(米国スナップ)1904頃.jpg
吉田ふじを「人形遊びをする子供」1912.jpg
吉田ふじを「窓辺の花」不詳.jpg
 それでも1915年(大正4)、吉田ふじをは太平洋画会の正会員となり、1920年(大正9)からは女性洋画研究団体「朱葉会」にも出品しはじめている。1923年(大正12)に起きた関東大震災Click!による混乱を避け、彼女は夫とともに米国やカナダへとわたり、前回と同様に各地で展覧会を開催している。以後、太平洋画会と朱葉会の両展にはコンスタントに作品を発表しつづけた。
 やがて1934年(昭和9)になると、吉田夫妻は下落合の第三文化村にアトリエを建てて転居してくる。佐伯アトリエClick!の南西50mほどのところ、第2次渡仏直前に制作された佐伯祐三の『下落合風景』Click!にも登場する納邸Click!と、道路をはさんだ南側の広い敷地だった。同年に新宿三越で開催された第16回朱葉会展に、彼女は『ぼたん』と題する水彩画を出品しているが、西坂に建っていた徳川義恕邸Click!のボタン園「静観園」Click!で写生した作品ではなかろうか。吉田博も、1928年(昭和3)に『東京拾二題』のうち「落合徳川ぼたん園」Click!と題する版画を残している。また、当代の徳川様Click!によれば、「祖母の絵画教師が吉田博だったんです」というエピソードもうかがっている。
 その後、戦争による生活の余裕が奪われていく日々がつづき、落ち着いて制作できる環境ではなかったが、吉田ふじをは花や植物をモチーフに寡作ながら作品を発表しつづけている。戦後は、先述のように吉田アトリエがGHQの美術サロンのようになってしまったので、その準備や接待に追われてほとんど制作するまとまった時間がとれなかった。そして、1950年(昭和25)に吉田博が死去すると、彼女は太平洋画会を脱会し、以降はおもに朱葉会のみへ作品を発表するようになる。
 吉田博の死をきっかけに、吉田ふじをの作品は大きく変わりはじめている。いや、変化はもっと以前から試作を繰り返すことではじまっていたのかもしれないが、息子たちと同じく、夫の吉田博に遠慮して見せなかっただけなのかもしれない。それは、水彩から油彩への転向であり、具象からアブストラクトへの転換だった。
 2002年(平成14)に刊行された「吉田ふじを展」図録に収録の、山村仁志『歴史と視線―吉田ふじをの生涯と作品―』から引用してみよう。
  
 穂高は、抽象の油彩作品を父博には決して見せなかったという。/「彼女の次男、穂高は自分の初期の油彩抽象絵画を父親には隠していたが、ふじをにはこうした秘密の実験を内々に見せていたのだった。ふじをはまた、穂高がこうした新しい絵画を1949(昭和24)年の太平洋画会展に出品し、そのひとつが受賞(博自身の手によって)したとき、それをじっと見守っていた。1949年には、遠志(長男)もまた<<渦巻き>>のような抽象の油彩画を描いていたが、それは湾曲し、交差する多くの線がつくる光に溢れた渦巻きを強調した作品だった」(カッコ内引用者註)
  
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吉田ふじを「妙B」1970.jpg
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 吉田ふじをは戦後、花弁や葉を接写したような画面を構成していくが、その多くの表現には水彩のころから見られたやわらかな光と、静謐な気配が満ちている。それらの作品を、ジョージア・オキーフの模倣だと決めつけるのはたやすいが、膨大な水彩作品を生みだした下地に重ねられる彼女の油彩画は、しつこくなくて見飽きない独自の味わいを備えている。

◆写真上:1934年(昭和9)に竣工した吉田アトリエで、手前に立っているのは吉田博。
◆写真中上は、1902年(明治35)ごろ制作の吉田ふじを『旗日の府中』。は、1904年(明治37)制作の吉田博『グロスター港』()と、同年制作の吉田ふじを『米国グロスター/漁船』()。は、1910年(明治43)制作の吉田ぶじを『神の森』。
◆写真中下は、7歳から絵を習う吉田ふじを(上)と、1904年(明治37)ごろに米国で撮影された吉田ふじを(中央)のスナップ(下)。は、1912年(大正元)制作の吉田ふじを『人形遊びをする子供』。は、制作年不詳の吉田ふじを『窓辺の花』。
◆写真下は、1956年(昭和31)制作の吉田ふじを『花(朱)』。は、1970年(昭和45)制作の吉田ふじを『妙B』。は、左下に吉田ふじをが写る南側の庭から撮影された吉田アトリエ(上)と、戦後に油彩でキャンバスに向かう吉田ふじを(下)。

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