1970年代の半ば近くだったろうか、わたしは高校時代に文学座の舞台で杉村春子の『女の一生』を観ている。どこの劇場だったかはまったく憶えていないが、両親もいっしょだったので、きっと誘われてしぶしぶ観に出かけたのだろう。
このとき、「布引けい」の少女時代を演じた70歳近い杉村春子が、桃割れ髪に紅い懸綿の16歳の少女姿で、黄色い声をあげながら舞台へ登場したとき、わたしは危うく座席からずり落ちそうになった。ただし、三つ編みのお下げ髪にセーラー服姿の杉村春子も確かに観たことがあるので、それが『女の一生』だったか別の芝居だったのか、もはやおぼろげな昔のことで記憶がさだかでない。杉村春子は死去するまで、947回も『女の一生』を演じつづけているから、80歳でも16歳の少女を演じていたのだろうか。
当時は、「すごいもん観ちゃったぜ、かんべんしてくださいよ」と思っていたのだが、第三幕で布引けいが「誰が選んでくれたのでもない、自分で選んで歩き出した道ですもの、間違いと知ったら、自分で間違いでないようにしなくちゃ」という主体性あふれる台詞は、戦後の杉村春子を支える座右の言葉になっていたらしい。この芝居自体が、肺結核のため夭折する文学座の脚本家・森本薫が、杉村春子のために書いた台本だったからだ。
ただし、この言葉にはもうひとつ時勢にからめて深い意味がこめられているように思える。日本がまちがった方向へ進み、それが「間違いと知ったら」ほかでもない自分たちで「間違いでないようにしなくちゃ」。森本薫は、根っからの反戦主義者だった。
戦時中、東中野に母親と住んでいた杉村春子は、頻繁に落合地域へ足を運んでいた。『女の一生』を執筆中だった森本薫の家が、上落合にあったからだ。当時の様子を、2002年(平成14)に日本図書センターから出版された杉村春子『舞台女優』から引用してみよう。この本は、おもに杉村春子へのインタビューを編集してまとめられたものだ。
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戦争中のことですが、その頃私の家は東中野、森本さんの家は落合にあって、歩いて十分程の近さでしたから、しばしば行き来して家族ぐるみでおつきあいしてました。その頃森本さんには既に奥様と二人のかわいい男の子がありました。文学座のこれからのことやなにやかやと、二人は頻繁に会って話していても、恋が私たちの心の中に芽ばえつつあったとは、お互い気づいてもいないことでした。
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森本薫の「奥様」とは、女優の吉川和歌子(森本和歌子)のことだ。「歩いて十分程の近さ」としているので、杉村春子は中央線・東中野駅の北側にあたる中野区の住吉町か桜山町に母親とともに住んでいたものだろうか。森本薫は当時、上落合2丁目829番地(現・上落合3丁目)に家族とともに暮らしていたので、ちょうど両町の駅寄りのあたりから森本邸へは10分ほどでたどりつけただろう。改正道路(山手通り=環六)Click!の工事がかなり進捗し、工事にひっかかる下落合4丁目1982番地(現・中井2丁目)にあった矢田津世子Click!の家が、隣接する敷地へ移転していたころだ。
この上落合2丁目829番地は、すでに拙サイトでは何度も繰り返し登場している地番だ。まず、大正末から昭和初期にかけ、「なめくじ横丁」Click!と呼ばれた安普請の長屋が建っていた場所だ。そこには、檀一雄Click!や尾崎一雄Click!たちが住んでおり、ときおり太宰治Click!や古谷綱武Click!が姿を見せては、中井駅前の喫茶店「ワゴン」Click!で安いウィスキーをひっかけていた。また、向かい合わせの長屋には、上野壮夫Click!と小坂多喜子Click!の夫婦が住み、居候には画家の飯野農夫也Click!も暮らしている。さらに、作家の立野信之Click!や水野成夫、村尾薩男も同地番に住んでいた。
森本薫一家が住むころには、さすがに古びたボロボロの長屋は解体され、1938年(昭和13)に作成された「火保図」を見るかぎり、新たに一戸建ての借家が並んでいたとみられるが、複雑な細い路地のある風情は、昭和初期とあまり変わらなかったかもしれない。杉村春子は、東中野から北上すると早稲田通りを横断して、北へ入るいずれかの細道を進み、やがて上落合銀座通りを突っきり、さらに細い路地を北へ抜けて森本邸を訪れていたのだろう。
当時は戦時中なので、舞台には政府当局からさまざまな制約が課させられていた。上演時間は3時間以内で、場面の転換は許されず1場面のみ、舞台装置も1種類に限られていたから、場所があちこちに変わるような芝居はもはやできなかった。そのため、森本薫は場面を変えずに布引けいが少女から老女になっていく、すなわち時代が流れて変わっていくという同一場面の設定で『女の一生』を書きあげている。
また、『女の一生』は書きあげていくそばから原稿を4~5部ずつを手書きで複写し、杉村春子をはじめ文学座の俳優たちが常に分散して持ち歩くようにしていた。上落合の森本邸が、いつ空襲に遭うかわからないので、執筆済みの原稿が焼けてしまわないよう、森本や杉村が考えだした危機管理の手法なのだろう。
森本薫は、杉村春子によれば「戦争には絶対反対の立場に立つ人で、(中略) 戦争を心底嫌っていました」というような思想の脚本家だった。『女の一生』では、堤家の長男・伸太郎と結婚し、家の貿易業を仕切るようになったヒロインの堤けいが、「金もうけができるなら何でもいいじゃないの」と日本の植民地支配を正当化するのに対し、夫の伸太郎が日本の中国侵略を批判する場面が出てくる。また、左翼の活動家になった伸太郎の弟・栄二が、かくまってくれるよう彼女のもとへ訪れるが、事業を守るためにそんな人間は置いておけないと、特高Click!に栄二がいることを告げてしまう。すると、彼女の娘・千恵は「おじさんを権力に売り渡すなんて!」と、別居していた伸太郎(父親)のもとへ去ってしまう。堤けいは、ますます絶望感とともに孤独になっていく……。
このような台詞のまじる筋立ての脚本が検閲を通ったことに、書いた森本本人はもちろん杉村春子も驚いたようだ。戦争も末期に近づき、緻密な検閲をしている余裕がなくなっていたか、あるいは映画『無法松の一生』Click!のように、たまたま芸術に理解のある文系出身の検閲担当者にあたったものか、その経緯は現在でも不明のままのようだ。
森本薫が、そもそも上落合2丁目829番地に住んでいたのも、なめくじ横丁時代からそのあたりに土地勘があった、あるいは借家の地主をもともと知っていた文学・演劇仲間からの紹介だったのかもしれない。『女の一生』を脱稿したあと、ますます東京への空襲が激しくなり、森本薫の妻と子どもたちは京都へ疎開することになった。東京には森本薫ひとりが残ることになったが、杉村春子は上落合へ通いつづけるのをやめなかった。
1945年(昭和20)になると、森本薫は京都に疎開した家族の様子を見に、鳥取へ疎開する脚本家の田中澄江とともに東京を離れている。『女の一生』の稽古がスタートする直前には、東京へもどることになっていた。ちなみに、『女の一生』の伸太郎は宮口精二が、栄二は中村伸郎が演じる予定になっていた。当時の様子を、同書より再び引用してみよう。
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そして『女の一生』の稽古が大久保の中村伸郎さんの家であるという日の前日に、森本さんは帰ってくることになっていましたので、その日私は何度となく中野の駅まで迎えに行きました。その頃の駅員ときたら、ほとんどが駆り出された若い女の子たちという有様で、それこそズブの素人ですから、列車の到着時刻も何もわかるはずもなく、ずい分心配させられました。/途中で何かあったのでは、空襲は……、と気も狂いそうな思いで幾度も、駅への暗い道を往復したものです。/夜おそくやっと森本さんは帰ってきました。森本さんのお姉さんの家業の鼻緒のお土産をひらいていると、突然、空襲警報が鳴り出しました。それがあの恐ろしい三月十日の東京大空襲Click!でした。/生きた心地のしなかった夜がやっと明けて、とにかくお稽古ということで、中村伸郎さんの家へ行った時、築地小劇場が昨夜の大空襲で焼け落ちたと聞かされ、私はあまりのショックでその場でワァワァ声を出して泣き出してしまいました。
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文学座の中村伸郎Click!の父親は、小松製作所の創業者(社長)であり大久保に大きな邸宅をかまえていたので、広い部屋の家具を片づけて稽古をすることができたのだろう。森本薫が京都からもどったのは、3月9日の夜だったのがわかる。
杉村春子は、生きているうちに最後の芝居をしたいと、『女の一生』の脚本を手にあちこち働きかけたようだ。文学座の演出家たちや東宝が、焼けていない都内の劇場を探しまわり渋谷の東横映画劇場で、1945年(昭和20)4月11日~13日・15日・16日の5日間にわたり久保田万太郎の演出で上演することができた。すでにお気づきの方もいるだろうが、『女の一生』の舞台は4月13日夜半の第1次山手空襲Click!の真っただ中で開演したことになる。14日に休演しているのは、空襲直後の混乱によるものだろう。
森本薫は、5月25日夜半の第2次山手空襲Click!で上落合の家が焼けると、家族のいる京都へ疎開し、そのまま結核の症状が急速に進行して、杉村春子が帝劇で有島武郎の『或る女』を稽古中、1946年(昭和21)10月6日に34歳の若さで急死している。
杉村春子が演じる16歳の娘を眼前に、座席からコケそうになった高校生のわたしは、やがて文学座付属研究所を卒業した女性を連れ合いにするとは夢にも思っていなかった。信濃町の自邸+アトリエ(研究所)での杉村春子については、機会があれば、また別の物語……。
◆写真上:杉村春子が通った、上落合2丁目829番地の森本邸があった界隈。
◆写真中上:上は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる上落合2丁目829番地(現・上落合3丁目)。すでに長屋状の建物は採取されておらず、地主が新たに建てた一戸建ての借家が並んでいるようだ。中は、1945年(昭和20)4月2日に撮影された空襲直前の同所で、この中に森本薫邸が写っているはずだ。下左は、戦時中に『女の一生』を書きあげた森本薫。下右は、広島女学院で音楽教師をしていた10代のころの杉本春子。
◆写真中下:上は、戦前に杉村春子が住んでいた東中野の路地のひとつ。中は、1953年(昭和28)の小津安二郎・監督『東京物語』に出演した杉村春子と山村聰Click!。下は、『女の一生』の初演で栄二役だった中村伸郎(左)と伸太郎役だった宮口精二(右)。
◆写真下:上は、第1次山手大空襲のさなかに『女の一生』が上演された渋谷道玄坂の東横映画劇場。中は、1945年(昭和20)ごろに撮影された『女の一生』の舞台写真で、手前が布引けい(堤けい)役の杉村春子で奥は夫・伸太郎役の宮口精二だろうか。下は、1970年(昭和45)に上演された文学座の舞台『にごりえ』での杉村春子(左)と太地喜和子(右)。