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その昔、「ガメラ」シリーズClick!と(大映)ともに、2本立て同時上映されていた作品に「妖怪」ものがあった。わたしが小学生のとき、いちばん印象に残っているのは『妖怪百物語』(1968年)というタイトルだ。そこに、8代目・林家正蔵が出演していて百物語を語る設定で、十八番だった怪談を披露していた。8代目・正蔵は晩年に彦六と改め、「正蔵」の名は林家三平が死去したあとの海老名家へ返上している。
当時から、わたしの好物だった怪談を演じる落語家であるにもかかわらず、林家正蔵(彦六)はどうしても好きになれなかった。あのモタモタとしゃべる調子と、独特な節まわしやイントネーションをつける語り口のクセが気に入らず、まことに僭越ながら子ども心にも野暮ったい噺家だと感じていた。この印象は、わたしが学生になってからも変わらず、あのモタついた話し方についていけずにイライラしたものだ。語りがモタモタしているから、効果的な息つぎや間がうまくとれない……そんなふうにも感じていた。
噺家は、緩急自在に東京弁Click!の(城)下町言葉Click!を、ツツーッと歯切れよくリズミカルで流れるように語れなければ、江戸東京落語は似合わない。わたしが好きだったのは圓生や小さんClick!、志ん朝、小三治などで、志ん生Click!や文楽Click!は時代がちがうから知らない。林家正蔵(彦六)もそうだが、親父が「歳ばっか喰いやがって」とけなしていた噺家には5代目・三遊亭圓楽もいた。圓生の愛弟子だったようだが、この人もテンポは悪くないものの歯切れが悪く、破擦音もヘタでモゴモゴとモタついたしゃべりの口調が嫌味でカンにさわり、確かに聞いていて気持ちが悪かった。だが、キラ星のごとく名人ぞろいだった時代を知る親父は、もっと気持ちが悪かっただろう。
宇野信夫は、正蔵改め林家彦六についてこんなことを書いている。2007年(平成19)に河出書房新社から出版された、『私の出会った落語家たち』から引用してみよう。
▼
息子のおかげで小半治は楽をしているようなことを聞いたが、その後、新宿の寄席の前で倒れたという。/林家彦六にあったとき、そのことをいうと、/「いいえ、それは違います。柳家小半治は、新宿の駅で倒れました。そうして駅員の手あつい看護のもとに、息をひきとりました」/小半治の哀れな死も、晩年、顫え声になってばかにテンポがゆるやかになった彦六のあの調子でいわれると、なんとなくケブ半の小半治らい最期のようにきかれた。
▲
上記のエピソードはふたりとも記憶が混乱していて、小半治が倒れたのは上野広小路駅だったのが事実だ。噺家のしゃべりや雰囲気のことを、よく「もち味」というけれど、彦六も圓楽も「もち味」というにはあまりにしゃべりがまだるっこしかった。宇野信夫は「晩年」の彦六と書いているが、あの歯の裏に餅がひっかかっているようなしゃべり方は、わたしが小学生のころから基本的に変わらなかった。
正蔵(彦六)の弟子が真打になったとき、圓生から「あんなまずい者を真打にするのはどういう了見だい?」といわれ、以来、正蔵は圓生のことを目の敵にして批判するようになった。わたしの目から見ると、正蔵の弟子はおろか「情実人事」の正蔵自身に、圓生の爪のアカでも煎じてのませたなら、もう少しスマートなしゃべりができるようになるのではないかと思ったぐらいだ。わたしでさえイライラするぐらいだから、よりせっかちで耳が肥えていた親父にしてみれば、江戸東京落語を演じるのが許せない噺家のひとりだったのだろう。
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さて、わたしの知らない「黒門町の師匠」こと8代目・桂文楽には、興味深いエピソードが残っている。文楽は戦前、子どもがいなかったために親戚から養子を迎えたが、日米戦争がはじまると、その養子が軍需工場で働くために満州へわたりたいといいだした。危険だからと文楽は止めたが、養子はきかずに満州へ旅立っていった。
心配でいてもたってもいられない文楽は、よく当たるという雑司ヶ谷にいた「拝み屋」に出かけていき、養子のゆくすえを占ってもらっている。この雑司ヶ谷の「拝み屋」とは、4代目・柳家小さんの妹が開いていた占い処で、ひょっとすると彼女は江戸期からつづく巫女の系譜だったのかもしれない。文楽は、ふだんから小さんの妹ということで顔なじみだったらしく、さっそく養子について相談している。同書より、占術の箇所を引用してみよう。
▼
大きな数珠を首にかけた小さんの妹は、頷いて祭壇へむかい、数珠をもんで拝みはじめた。経文をとなえるうち、からだ中に顫えがきて、何かがのり移ったらしい。しばらくからだを顫わしていたが、ややあってしづまると、/「もくず――という言葉が出ました」/もくず――拝み屋は、その意味がわからないという。文楽にも、もちろんその意味はわからなかった。/それから半年後、養子の乗った船が撃沈され、全員が戦死をとげた、という知らせがとどいた。/養子は海の藻屑となったのである。
▲
非常によくできた話だが、これは文楽があとから尾ひれをつけて語った“物語”ではないだろうか。小さんの妹は、確かに「もくず」とつぶやいたのかもしれないが、養子が海で死んだのか、満州で戦闘に巻きこまれて死んだのかは戦後になってもわからず、文楽は満州引揚者の尋ね人メディアを使って、戦後もずっと養子の消息を探しつづけている。また、養子は軍人(海軍という話に変わっていく)ではなく、軍需工場の工員として満州へわたったのであり、「半年後」に「戦死」の公報が入ることはありえないだろう。
結局、養子は行方不明のまま、1年後には死亡したということで文楽はあきらめがついた。だが、「拝み屋」が発した「もくず」という言葉が心にひっかかっていたらしく、ひょっとすると戦時中に海上で乗っていた船が、米軍の潜水艦による攻撃で撃沈されたのかもしれないと、思いこむようになったのではないだろうか。
なぜなら、戦後に文楽が身体を壊して入院したとき、再び雑司ヶ谷にいた4代目・小さんの妹に、今度は自分自身のゆくすえを占ってもらっているから、あながち彼女の占いを信用していなかったわけではないようだ。この占いで、「桂文楽はまだ大丈夫」といわれ、それが効いたのか再び元気に高座をつとめるようになった。
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4代目・柳家小さんの妹がやっていた占術は、江戸期には社(やしろ)にいた巫女(現代のアルバイト「巫女もどき」ではなく神主のこと)が占っていたようなテーマで、彼女たちは政治(まつりごと)や生活(たつき)など、市民たちの多種多様な困り事や悩み事について助言したりする役割を担う、よろず相談所のような役割が与えられていた。
だが、中国や朝鮮半島の思想普及にことさら熱心で忠実な薩長政府が、「儒教の七去三従が、婦人道徳の基調となれば、巫女の身の上にも動揺を来たさぬ理由はない筈」(中山太郎)と、政府教部省は1873年(明治6)に「女子が社の神主とはケシカラン」と巫女禁断法Click!を発令した。もっとも早くから知られる日本の歴史で、巫(ふ)女王だったとみられる卑弥呼(日巫女)をいただく原日本の文化(文化人類学ベースの広義の文化)が、外来思想によって無理やり大きく変質・破壊されようとした近代における危機だったろう。
以来、神主だった巫女たちは社(やしろ)を追いだされ、市中に住んで「拝み屋」や「占い師」などに姿を変えて、街なかのカウンセラーとして生計を立てていくことになる。戦後になると、東京では次々に女性神主(本来の意味での巫女)が復活しているが、いまだ朝鮮半島経由の儒教思想が根づいてしまった地方では、「神主は男がつとめるもの」という、薩長政府がまいたここ100年ほどのしがらみから抜けきれないようだ。
このような市井に追いだされた巫女たちの系譜は、政治(まつりごと)について予言や助言を行なう巫女のほか、生活に根ざしたさまざまな課題について占い予言する、おもに5つのタイプに分類できるという。1929年(昭和4)に脱稿した膨大な原稿をもとに、2012年(平成24)に国書刊行会から出版された中山太郎『日本巫女史』から引用してみよう。
▼
一、口寄せと称する、死霊を冥界より喚び出して、市子(市井の巫女)の身に憑らせて物語りをする<俗にこれを「死口」という>か、これに反して、遠隔の地にある物の生霊を喚び寄せて物語りする<俗にこれを「生口」という>こと/ 二、依頼者の一年間<または一代>の吉凶を判断する<俗にこれを「神口」とも「荒神口」ともいう>こと/ 三、病気その他の悪事災難を治癒させ、または祓除すること/ 四、病気に適応する薬剤の名を神に問うて知らせること/ 五、紛失物、その他走り人(行方不明者)などのあったとき、方角または出る出ないの予言をすること(カッコ内引用者註)
▲
この分類によれば、雑司ヶ谷で開業していた4代目・小さんの妹の「拝み屋」は、「二」あるいは「三」あたりの巫術に長けていた女性だとみられる。ちなみに、その巫術に古くは鋳成神とともに大鍛冶・小鍛冶Click!の奉神であり、江戸期の生活では火床や台所にある竈(かまど)の神とされていた(三宝)荒神Click!と習合しているのが面白い。「荒神」が江戸期の「庚申」信仰と習合し、中にはサルタヒコを祀っていた巫女も存在したかもしれない。
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もうひとり、わたしの知らない古今亭志ん生(柳家甚語楼)だが、彼が戦前の一時期に師事した柳家三語楼に面白い噺が残っている。戦前、現代落語で知られた三語楼だが、長屋の会話で熊さんが隠居に、「なぜ貧乏人はプロレタリヤってんです?」と訊くと、日ごろから物知りを自慢にしている隠居は返答に困り、「プロレタリヤは元来、フラレタリヤといったんだ。貧乏人は女によくフラれるだろうが」と答えた。すると、熊さんが「フラレタリヤじゃ、フに丸がついてねえじゃありませんか?」と問い返すと、「マル(円)がねえからフラれるんだ」。……次回の記事もなんとか書けたから、おあとがよろしいようで。
◆写真上:子ども時代、親には多くの舞台を連れ歩かれたが寄席は少なかった。
◆写真中上:上は、1968年(昭和43)に上映された『妖怪百物語』(大映)のオープニング。中は、同映画で夜どおし百物語を語る噺家を演じた林家正蔵(彦六)。下は、小学生のわたしにはあまりにも怖かったろくろっ首のお姉さん。いまとなっては、こういうキレイなお姉さんなら少しぐらい首が伸びてもいいかもしれない。(爆!) でも、岸田今日子のどこまでも追いかけてくるろくろっ首Click!はおっかないからイヤだ。(爆!×2)
◆写真中下:上は、映像はともかく実際に見たことがない古今亭志ん生(左)と桂文楽(右)。下は、噺家といえばこのふたりだった三遊亭圓生(左)と柳家小さん(右)。
◆写真下:上は、巫女が歩いてきそうな法妙寺裏あたり。中は、雑司ヶ谷鬼子母神の大イチョウ。下は、1921年(大正10)に撮影された『日本巫女史』の著者・中山太郎。(後列左から3人目) 前列には金田一京助Click!やニコライ・ネフスキー、柳田國男Click!、後列左には折口信夫Click!、今泉忠義など民俗学の研究者たちが顔をそろえている。
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その昔、「ガメラ」シリーズClick!と(大映)ともに、2本立て同時上映されていた作品に「妖怪」ものがあった。わたしが小学生のとき、いちばん印象に残っているのは『妖怪百物語』(1968年)というタイトルだ。そこに、8代目・林家正蔵が出演していて百物語を語る設定で、十八番だった怪談を披露していた。8代目・正蔵は晩年に彦六と改め、「正蔵」の名は林家三平が死去したあとの海老名家へ返上している。
当時から、わたしの好物だった怪談を演じる落語家であるにもかかわらず、林家正蔵(彦六)はどうしても好きになれなかった。あのモタモタとしゃべる調子と、独特な節まわしやイントネーションをつける語り口のクセが気に入らず、まことに僭越ながら子ども心にも野暮ったい噺家だと感じていた。この印象は、わたしが学生になってからも変わらず、あのモタついた話し方についていけずにイライラしたものだ。語りがモタモタしているから、効果的な息つぎや間がうまくとれない……そんなふうにも感じていた。
噺家は、緩急自在に東京弁Click!の(城)下町言葉Click!を、ツツーッと歯切れよくリズミカルで流れるように語れなければ、江戸東京落語は似合わない。わたしが好きだったのは圓生や小さんClick!、志ん朝、小三治などで、志ん生Click!や文楽Click!は時代がちがうから知らない。林家正蔵(彦六)もそうだが、親父が「歳ばっか喰いやがって」とけなしていた噺家には5代目・三遊亭圓楽もいた。圓生の愛弟子だったようだが、この人もテンポは悪くないものの歯切れが悪く、破擦音もヘタでモゴモゴとモタついたしゃべりの口調が嫌味でカンにさわり、確かに聞いていて気持ちが悪かった。だが、キラ星のごとく名人ぞろいだった時代を知る親父は、もっと気持ちが悪かっただろう。
宇野信夫は、正蔵改め林家彦六についてこんなことを書いている。2007年(平成19)に河出書房新社から出版された、『私の出会った落語家たち』から引用してみよう。
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息子のおかげで小半治は楽をしているようなことを聞いたが、その後、新宿の寄席の前で倒れたという。/林家彦六にあったとき、そのことをいうと、/「いいえ、それは違います。柳家小半治は、新宿の駅で倒れました。そうして駅員の手あつい看護のもとに、息をひきとりました」/小半治の哀れな死も、晩年、顫え声になってばかにテンポがゆるやかになった彦六のあの調子でいわれると、なんとなくケブ半の小半治らい最期のようにきかれた。
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上記のエピソードはふたりとも記憶が混乱していて、小半治が倒れたのは上野広小路駅だったのが事実だ。噺家のしゃべりや雰囲気のことを、よく「もち味」というけれど、彦六も圓楽も「もち味」というにはあまりにしゃべりがまだるっこしかった。宇野信夫は「晩年」の彦六と書いているが、あの歯の裏に餅がひっかかっているようなしゃべり方は、わたしが小学生のころから基本的に変わらなかった。
正蔵(彦六)の弟子が真打になったとき、圓生から「あんなまずい者を真打にするのはどういう了見だい?」といわれ、以来、正蔵は圓生のことを目の敵にして批判するようになった。わたしの目から見ると、正蔵の弟子はおろか「情実人事」の正蔵自身に、圓生の爪のアカでも煎じてのませたなら、もう少しスマートなしゃべりができるようになるのではないかと思ったぐらいだ。わたしでさえイライラするぐらいだから、よりせっかちで耳が肥えていた親父にしてみれば、江戸東京落語を演じるのが許せない噺家のひとりだったのだろう。
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さて、わたしの知らない「黒門町の師匠」こと8代目・桂文楽には、興味深いエピソードが残っている。文楽は戦前、子どもがいなかったために親戚から養子を迎えたが、日米戦争がはじまると、その養子が軍需工場で働くために満州へわたりたいといいだした。危険だからと文楽は止めたが、養子はきかずに満州へ旅立っていった。
心配でいてもたってもいられない文楽は、よく当たるという雑司ヶ谷にいた「拝み屋」に出かけていき、養子のゆくすえを占ってもらっている。この雑司ヶ谷の「拝み屋」とは、4代目・柳家小さんの妹が開いていた占い処で、ひょっとすると彼女は江戸期からつづく巫女の系譜だったのかもしれない。文楽は、ふだんから小さんの妹ということで顔なじみだったらしく、さっそく養子について相談している。同書より、占術の箇所を引用してみよう。
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大きな数珠を首にかけた小さんの妹は、頷いて祭壇へむかい、数珠をもんで拝みはじめた。経文をとなえるうち、からだ中に顫えがきて、何かがのり移ったらしい。しばらくからだを顫わしていたが、ややあってしづまると、/「もくず――という言葉が出ました」/もくず――拝み屋は、その意味がわからないという。文楽にも、もちろんその意味はわからなかった。/それから半年後、養子の乗った船が撃沈され、全員が戦死をとげた、という知らせがとどいた。/養子は海の藻屑となったのである。
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非常によくできた話だが、これは文楽があとから尾ひれをつけて語った“物語”ではないだろうか。小さんの妹は、確かに「もくず」とつぶやいたのかもしれないが、養子が海で死んだのか、満州で戦闘に巻きこまれて死んだのかは戦後になってもわからず、文楽は満州引揚者の尋ね人メディアを使って、戦後もずっと養子の消息を探しつづけている。また、養子は軍人(海軍という話に変わっていく)ではなく、軍需工場の工員として満州へわたったのであり、「半年後」に「戦死」の公報が入ることはありえないだろう。
結局、養子は行方不明のまま、1年後には死亡したということで文楽はあきらめがついた。だが、「拝み屋」が発した「もくず」という言葉が心にひっかかっていたらしく、ひょっとすると戦時中に海上で乗っていた船が、米軍の潜水艦による攻撃で撃沈されたのかもしれないと、思いこむようになったのではないだろうか。
なぜなら、戦後に文楽が身体を壊して入院したとき、再び雑司ヶ谷にいた4代目・小さんの妹に、今度は自分自身のゆくすえを占ってもらっているから、あながち彼女の占いを信用していなかったわけではないようだ。この占いで、「桂文楽はまだ大丈夫」といわれ、それが効いたのか再び元気に高座をつとめるようになった。
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4代目・柳家小さんの妹がやっていた占術は、江戸期には社(やしろ)にいた巫女(現代のアルバイト「巫女もどき」ではなく神主のこと)が占っていたようなテーマで、彼女たちは政治(まつりごと)や生活(たつき)など、市民たちの多種多様な困り事や悩み事について助言したりする役割を担う、よろず相談所のような役割が与えられていた。
だが、中国や朝鮮半島の思想普及にことさら熱心で忠実な薩長政府が、「儒教の七去三従が、婦人道徳の基調となれば、巫女の身の上にも動揺を来たさぬ理由はない筈」(中山太郎)と、政府教部省は1873年(明治6)に「女子が社の神主とはケシカラン」と巫女禁断法Click!を発令した。もっとも早くから知られる日本の歴史で、巫(ふ)女王だったとみられる卑弥呼(日巫女)をいただく原日本の文化(文化人類学ベースの広義の文化)が、外来思想によって無理やり大きく変質・破壊されようとした近代における危機だったろう。
以来、神主だった巫女たちは社(やしろ)を追いだされ、市中に住んで「拝み屋」や「占い師」などに姿を変えて、街なかのカウンセラーとして生計を立てていくことになる。戦後になると、東京では次々に女性神主(本来の意味での巫女)が復活しているが、いまだ朝鮮半島経由の儒教思想が根づいてしまった地方では、「神主は男がつとめるもの」という、薩長政府がまいたここ100年ほどのしがらみから抜けきれないようだ。
このような市井に追いだされた巫女たちの系譜は、政治(まつりごと)について予言や助言を行なう巫女のほか、生活に根ざしたさまざまな課題について占い予言する、おもに5つのタイプに分類できるという。1929年(昭和4)に脱稿した膨大な原稿をもとに、2012年(平成24)に国書刊行会から出版された中山太郎『日本巫女史』から引用してみよう。
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一、口寄せと称する、死霊を冥界より喚び出して、市子(市井の巫女)の身に憑らせて物語りをする<俗にこれを「死口」という>か、これに反して、遠隔の地にある物の生霊を喚び寄せて物語りする<俗にこれを「生口」という>こと/ 二、依頼者の一年間<または一代>の吉凶を判断する<俗にこれを「神口」とも「荒神口」ともいう>こと/ 三、病気その他の悪事災難を治癒させ、または祓除すること/ 四、病気に適応する薬剤の名を神に問うて知らせること/ 五、紛失物、その他走り人(行方不明者)などのあったとき、方角または出る出ないの予言をすること(カッコ内引用者註)
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この分類によれば、雑司ヶ谷で開業していた4代目・小さんの妹の「拝み屋」は、「二」あるいは「三」あたりの巫術に長けていた女性だとみられる。ちなみに、その巫術に古くは鋳成神とともに大鍛冶・小鍛冶Click!の奉神であり、江戸期の生活では火床や台所にある竈(かまど)の神とされていた(三宝)荒神Click!と習合しているのが面白い。「荒神」が江戸期の「庚申」信仰と習合し、中にはサルタヒコを祀っていた巫女も存在したかもしれない。
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◆写真上:子ども時代、親には多くの舞台を連れ歩かれたが寄席は少なかった。
◆写真中上:上は、1968年(昭和43)に上映された『妖怪百物語』(大映)のオープニング。中は、同映画で夜どおし百物語を語る噺家を演じた林家正蔵(彦六)。下は、小学生のわたしにはあまりにも怖かったろくろっ首のお姉さん。いまとなっては、こういうキレイなお姉さんなら少しぐらい首が伸びてもいいかもしれない。(爆!) でも、岸田今日子のどこまでも追いかけてくるろくろっ首Click!はおっかないからイヤだ。(爆!×2)
◆写真中下:上は、映像はともかく実際に見たことがない古今亭志ん生(左)と桂文楽(右)。下は、噺家といえばこのふたりだった三遊亭圓生(左)と柳家小さん(右)。
◆写真下:上は、巫女が歩いてきそうな法妙寺裏あたり。中は、雑司ヶ谷鬼子母神の大イチョウ。下は、1921年(大正10)に撮影された『日本巫女史』の著者・中山太郎。(後列左から3人目) 前列には金田一京助Click!やニコライ・ネフスキー、柳田國男Click!、後列左には折口信夫Click!、今泉忠義など民俗学の研究者たちが顔をそろえている。