米国の国防総省に保存され、前世紀末から米国国立公文書館で公開されている1944~1945年(昭和19~20)の日本本土の米軍偵察写真を参照していると、改めて都市や工業地帯、軍事施設などの詳細な情報が筒抜けだったことがわかる。地上の鉄道や車両はもちろん、歩いている人までがハッキリと精細に確認できる。これらの偵察写真は、B29を改造したF13偵察機Click!によって撮影されたものだ。
落合地域の詳細なクローズアップ写真は、1945年(昭和20)4月2日に撮影されており、これは11日後の4月13日夜半に予定されていた第1次山手空襲Click!の事前偵察として準備されたものだ。この偵察写真が、戦前の姿を“無傷”なまま伝える、落合地域の街並みをとらえた最後の写真となった。つづいて、同年5月17日にも落合地域がクローズアップで撮影されている。これは、焼け残った山手エリアの状況を把握し、8日後に予定されている第2次山手空襲Click!のための偵察写真だった。写真が斜めフカンから撮影されているのも、焼け残りの住宅街を特定する意図があったものだろう。
この5月17日の偵察写真は、落合地域のどこが焼失し、どこがかろうじて焼け残っているのか、あるいは防火帯工事(建物疎開)Click!がどこまで進んでいたのかなどを知る、貴重な手がかりを教えてくれる。そして、第2次山手空襲から3日後の5月28日に撮影された偵察写真は、二度にわたる山手大空襲Click!の爆撃効果がどれだけあったのかを測定する記録資料として撮影されているとみられる。
5月28日の落合地域をみると、上落合は全域がほぼ壊滅状態Click!だが、下落合と西落合は樹木が多く生えていた区画を中心に、かなりの住宅が難を逃れているのがわかる。だが、それから8月15日の敗戦の日まで、落合地域とその周辺域は繰り返し沿岸に接近した米機動部隊の艦載機や、硫黄島から飛来した戦爆機の攻撃にさらされ、250キロ爆弾や機銃掃射の攻撃にさらされていく。5月28日の偵察写真で焼け残っている住宅街のうち、これらの攻撃で破壊されたものも少なくない。
また、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!の直前、3月8日の偵察撮影では東京市の市街地全域がとらえられているが、落合地域も高高度から撮影されている。旧・神田上水(1966年より神田川)沿いや妙正寺川沿いでは、防火帯36号江戸川線Click!の建物疎開が急ピッチで進められている様子がとらえられている。また、3月10日の午前中に飛来したF13は東京大空襲の成果を確認するために、おもに(城)下町Click!の上空から斜めフカンで撮影しているが、何枚かの写真には被災していない落合地域もとらえられている。
いずれの写真にも、地上の陣地からの対空砲火は確認できないし、F13が攻撃を受けている様子も見えない。すでに高射砲の弾薬や迎撃戦闘機Click!の燃料が不足し、少数機で現れる明らかに攻撃ではなく偵察を目的としているF13は、迎撃対象から外されていたのだ。広島に疎開して、8月6日の原爆で被爆した大田洋子Click!は、爆撃の前後にF13とみられる偵察機の姿や爆音を頻繁に目撃したり聞いたりしているが、日本側が同機を攻撃している様子は見なかった。だからこそ、エノラゲイに原爆を搭載しわずか3機でやってきたB29を、またしても攻撃ではなく偵察と誤認した市民も多かっただろう。
単機あるいは少数機で飛来する、B29にそっくりなF13偵察機は弾薬や燃料がもったいないので攻撃しないという事実は、東京大空襲の直後3月10日の午前中に飛来したF13の写真でも明らかだ。同機は同日午前10時20分ごろ、二宮ないしは大磯西部の上空から炎上する東京市街地を遠望するカットを撮影しているが、下に見えている千畳敷山(湘南平)Click!の山頂に設置された対空陣地は沈黙したままで、12.7センチ高射砲が発射されている様子がない。F13の航路前方に、対空砲火の弾幕がまったく見えないのだ。
こうして、F13偵察機は“見て見ぬふり”をしてスルーされたが、実は偵察機こそが詳細で貴重な情報を米軍へふんだんにもたらし、より的確で精度の高い攻撃を実現して被害を大きくする要因となっていたので、できる限り阻止しなければならない重要目標だったのだ。日本政府や軍部の暗号電文がダダ漏れだったこともあわせ、こんなところにも「敵機は精神で落とす」Click!(東條英機Click!)などとわけのわからない神がかり精神論をふりまわし、精密な情報収集の重要性を軽視する軍部の姿勢が見え隠れしているように思う。
1945年(昭和20)4月6日、天一号作戦に備え広島の柱島泊地を離れ、山口の徳山沖へ集結している第二艦隊の姿も鮮明にとらえられている。旗艦の戦艦名が「大和」Click!だということも、とうに暗号電文の解読から米軍には判明していた。翌日、同艦隊は航空機の援護もないまま、徳之島沖で米軍の集中攻撃を受けて壊滅している。
どんなに些細な情報でも、地道に細かく集めては、それらの断片をつなぎあわせて組み立て、せっせと次の作戦や攻撃に活用していた米軍と、現地の実情をなんら把握せず兵站の保証もまったくないまま、ただ「突っこめ~!」とウ号作戦でインパール突撃を発動していた稚拙な大本営とは、その作戦の質においては雲泥の差があったといえるだろう。
また、F13偵察機による成果物には、戦争とは直接関係のない貴重な写真類も残されている。1944年(昭和19)12月7日に発生した東南海大地震の記録だ。熊野灘沖が震源の同地震は東海・近畿地方に巨大な津波を引き起こし、紀伊半島や愛知県の海沿いを中心に大きな被害をもたらした。だが、戦時中だったため、地震の発生やその大きな被害は軍部によってすべてが秘匿され、関東大震災の規模に匹敵する最大震度6を記録した大震災にもかかわらず、今日にいたるまで被害の全貌はわかっていない。
東南海大地震について、2015年(平成27)に(財)日本地図センターから刊行された『米軍に撮影された日本』に収録の、小林政能「1944年12月7日、隠された東南海地震」から引用してみよう。ちなみに同書では、地震から3日後の1944年(昭和19)12月10日に撮影された、三重県尾鷲町の偵察写真をクローズアップしている。
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1944(昭和19)年12月7日午後1時36分に熊野灘を震源(図番号略)として発生したマグニチュード7.9、最大震度6の地震が、1944年の東南海地震です。死者・行方不明者数1,223名といわれ、東海地方は大きな被害を受けました。しかし当時は、日本の敗戦が色濃くなった太平洋戦争末期で、報道管制下のため地震や、その被害の報道は抑えられ「隠された地震」とも言われています。(中略) 1944年東南海地震発生から3日後の12月10日、サイパンを飛び立った一機の米軍偵察機が、紀伊半島南東岸から渥美半島かけて(ママ:にかけて)、空中写真の撮影を行っていました。そのフィルムの中には、津波の痕跡が見られる写真も複数枚含まれていました。(カッコ内引用者註)
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海岸沿いの流出した街々や、がれきに埋もれた河川、陸に打ち上げられた船舶などが鮮明にとらえられている。津波は河川をさかのぼったとみられ、内陸の奥まで被害に遭っている様子がわかる。幕末に記録された安政年間の記録によれば、まるで太平洋のプレート沿いをドミノ倒しのように起きる東海地震→東南海地震→南海地震の想定被害を研究するには、これらのF13偵察写真は願ってもない1級資料といえるだろう。
そのほか、同書では戦後になってまとめられた「空襲被災地図」についても、そのかなりの不正確さが指摘されている。当時、各地の自治体が空襲被害の地図を作成するには、地域住民の証言や現実に目の前に展開する街々の風景をベースに、地図上へ逐次記録していったものと思われる。だが、その被害エリアが敗戦後すぐに空中写真部隊Click!によって撮影された米軍の空中写真と、必ずしも一致しない場合が少なくない。
これはわたしも感じていたことで、たとえば戦後に作られた下落合地域などの「空襲被災地図」と、戦後すぐに撮影された米軍の空中写真の様子とがあまり一致しない。おしなべて、「空襲被災地図」のほうが被害(赤く網掛けされたエリア)が広めに描かれ、実際の空中写真のほうが焼け残っている区画の多いことに気づく。これは、戦後も間もない時期の人々には、空襲で「すべてが焦土と化した」「東京は空襲で壊滅した」というイメージが強く、実際の被害よりもやや大きめに証言してしまった可能性を指摘できるだろうか。
あるいは、戦後になって区画整理で壊されてしまった街角も、空襲で焼けたと錯覚するような記憶の混乱があったのかもしれない。いずれにせよ、戦時中から戦後にかけてF13偵察機による空中写真は、その高解像度とあいまって貴重な証言を今日までとどけてくれる。
◆写真上:爆弾倉の代わりに垂直航空カメラを搭載し、撮影窓を装備したF13の胴体。
◆写真中上:上は、任務を終えて帰還したF13偵察機。中は、1944年(昭和19)11月7日に撮影された空襲前の中島飛行機武蔵製作所。下は、空襲後の同製作所。
◆写真中下:上から下へ、1945年(昭和20)3月8日に撮影された落合地域、同年3月10日午前10時35分ごろ撮影された落合地域、同年4月2日の空襲直前に撮影された“無傷”で見られる最後の下落合東部、同じく4月2日に撮影された落合地域西部、同年5月17日撮影の下落合東部、同年5月28日に撮影された第2次山手空襲から3日後の落合地域。
◆写真下:上は、1945年(昭和20)3月10日午前10時20分ごろ大磯上空を東へ飛ぶF13からの撮影。弾幕が見えず、千畳敷山(湘南平)に設置された高射砲陣地からは1発も撃ってきていない。中は、同年4月6日に撮影された徳山沖の第二艦隊で、赤丸の中が24時間後に撃沈される戦艦「大和」。下は、1944年(昭和19)12月10日に撮影された東南海大地震による三重県尾鷲町の惨状。津波が河川づたいに、内陸部まで押し寄せた様子がうかがえる。