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上落合の大江賢次と芹沢光治良。

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芹沢光治良.jpg

 上落合での芹沢光治良Click!の影は薄い。ほどなく、上落合から華洲園Click!跡に造成された中野町の小滝台住宅地Click!に新邸を建てて転居しているので、上落合206番地は敷地探しと自邸が竣工するまでの短期間しか住まなかったからだろう。
 ちょうど芹沢光治良が住んでいた1930年(昭和5)ごろ、上落合にはプロレタリア文学の作家や美術家たちが大勢住んでおり、大江賢次Click!もその中のひとりだった。同年の春、改造社が主催した第3回懸賞創作(小説)募集で、大江賢次の『シベリヤ』が2等賞に入選し、賞金の750円(今日の価値で370万円前後)をもらっている。このとき、1等賞だったのが芹沢光治良の『ブルジョア』で1,500円の賞金を手にしている。ふたりは、芝区愛宕下町にあった改造社の賞金授与式で、初めて顔をあわせた。
 大江賢次Click!は、2等賞に入選したこの年を「わが人生で最良の年」と表現し、「風船玉のようにフワフワと、天にも昇らん心地」だったと、『故旧回想』(1974年)の中で述懐している。芹沢光治良の『ブルジョア』は、別に階級観を押しだしたプロレタリア文学ではなく、パリ留学で胸を病みスイスのサナトリウムにおける自身の生活体験を描いた芸術派の作品で、1935年(昭和5)の「改造」4月号に掲載された。一方、大江賢次の『シベリヤ』は、日本のシベリア出兵をテーマにした反戦小説で、特高Click!の検閲により伏字だらけで同年の「改造」5月号に掲載されている。ちなみに、改造社の文学賞は第1回の1等が下落合に住んだ龍胆寺雄Click!で、第2回の1等は該当作なしだった。
 当時の上落合は、「落合ソヴェト」などと呼ばれたぐらい左翼作家たちが集合して住んでおり、芹沢光治良や檀一雄Click!尾崎一雄Click!などは場ちがいで、疎外感すらおぼえていたのではないだろうか。当時の街の様子を、1974年(昭和49)に牧野出版から刊行された大江賢次『故旧回想』から引用してみよう。
  
 そのころの上落合は、いうなれば左翼文学のメッカで、私服の特高刑事も目をつけていた。だから立野(信之)は急に私の肩をつかんで、横っ飛びに路地を走り、/「あいつは本庁のイヌだ」/私はあえぎながら、いっぱしの闘士ぶった心境に浸ったものである。だから中央線の東中野駅前の交番には、でっかい鏡で昇降口の人びとを映して、刑事は一般から見えない横っちょから、赤いやつらを見張っているしまつであった。東中野には「ユーカリ」という、昼は喫茶、夜は酒場があって賑合った(ママ)ものだ。よっちゃんというマドンナがいて、当時わかい左翼作家の林房雄など、さかんに張っていた。これは余談だが、それからずっとあと、もうユーカリもつぶれた付近に、岸田劉生の「麗子像」の本人が店をだしたので、私は行ってみたがすでにあの童女でなく、齢より老けた爛熟の頽廃が見るにしのびなかった。(カッコ内引用者註)
  
 家が近くだった立野信之Click!と、連れ立って歩いていたときの情景だが、東中野駅前の交番に大きな鏡を置いて、左翼の作家たちの動向を監視していたのは初めて知るエピソードだ。ここでも、喫茶店「ユーカリ」Click!「よっちゃん」Click!が登場しており、やはり林房雄Click!の名前が挙がっているのでよほど熱心に通ったものだろう。
 15歳で父親を亡くした岸田麗子Click!が、1934年(昭和9)1月から母子の生活のために、東中野に喫茶店「ラウラ」を出していた話は有名だが、当初は本人がカウンターに入って接客していたものの、いちいちマスコミに騒がれるのでイヤになり、ほどなく出勤しなくなってしまった。岸田麗子は、このとき20歳になったばかりのいまだ童顔の面影が残る顔立ちをしていたはずで、大江賢次が見て「齢より老けた爛熟の頽廃」を感じたのは、麗子に代わってカウンターに入っていた、成長した麗子に面影がよく似て歳よりは若く見えた岸田劉生Click!の夫人、岸田蓁Click!ではなかっただろうか。w
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東中野駅踏切り.jpg

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 岸田家の喫茶店「ラウラ」は東中野駅から北上し、上落合から中野町小滝1567番地(1932年より中野区小滝町52番地)へ転居した芹沢光治良の家からも近かったようで、彼もたまに寄ってはコーヒーを飲んでいたようだ。ただし、それは4~5年ほどあとの話で、上落合206番地の芹沢邸にもどろう。大江賢次は、芹沢邸を初めて訪問したときの印象を、次のように書いている。同書より、再び引用してみよう。
  
 芹沢さんはそのころ、上落合の貸家に住まっていた。私が初めて訪問したとき、パリーで胸を患い、スイスの療養所で闘病後の彼は、東大で川端康成、大仏次郎、大森義太郎、三木清などと同級で、私とは十ちかく年上であった。奥さんは名古屋の私鉄社長の娘で、ざっくばらんに人柄が親しめたし、ことにあちら生まれの長女のマリコちゃんが、/「テ、テー」と、しきりにいうので、私はぶこつな手をつん出したら、/「いえ、フランスでは、お客さんにお茶を出すのをテイーというのです」と、説明をうけて赤面した。
  
 大江賢次は、成績がよかったにもかかわらず進学できず、尋常小学校を卒業したあと小作人の両親を手伝い、農閑期には土方をして暮らしていたという経歴だったが、芹沢光治良は帝大を卒業すると、フランス文学を学びにパリのソルボンヌ大学へ留学し、1928年(昭和3)の帰国後はすぐに新邸建設の敷地探しをしながら、上落合の借家に仮住まいをするような暮らしぶりだった。
 本来なら、まったく水と油の生活環境であり、文学も芸術派とプロレタリア派でどこにも交点がないようなふたりなのだが、改造社の文学賞を受賞したときから10歳の年齢差を超えて、なぜかお互いウマがあったようだ。ふたりとも育った家庭が貧しく、非常に苦労しながら文学を志していたところが共感を呼んだものだろうか。大江賢次が上落合を4年間も離れて、鶴見で特高に検挙され川崎警察署でしばらく拘留されたのち、小滝橋Click!近くに建っていた上落合の素人下宿にもどってきたとき、ふたりの交流はすぐに復活している。
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芹沢光治良邸上落合206.jpg

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 大江賢次は、しばらくすると上落合の素人下宿を引きはらい、小滝橋の少し上流に位置する旧・神田上水(1966年より神田川)沿いの1戸建てに移っている。その小さな2階家は、1階が6畳と4畳半、2階は6畳が2間の構成だったが、彼は2階の6畳1間を借りて住んでいる。小滝台住宅地へ転居していた芹沢光治良邸とは、「四百米ほどの近さであった」(同書)と書いているので、おそらく現在の中野区立第三中学校(旧・東中野尋常小学校)の川向こう、柏木5丁目(現・北新宿4丁目)のどこかに建っていた借家なのだろう。
 ふたりは、お互いの家を往来しては、近くの戸山ヶ原Click!を散歩している。大江賢次は、芹沢を訪問するとき小滝台の急坂かバッケ階段を上っていったはずで、大きな屋敷街の芹沢邸の前に立つと、イヤでも暮らしのちがいを見せつけられるような気になっただろうが、なぜか親しみは薄れなかった。芹沢光治良も、散歩に出ると大江宅に立ち寄っては、連れ立って歩くことが多かった。そんな道すがら、大江はロシア文学には詳しかったがフランス文学には疎かったので、芹沢光治良からずいぶん“講義”を受けたようだ。芹沢は盛んに、バルザックを研究するよう彼に勧めている。
 いちおう結核は回復しているとはいえ、芹沢光治良は寝室の窓を開け放して寝ていた。結核には新鮮な空気がいいという、当時の自然療法からの考え方からだが、スイスのサナトリウムでも冬に窓を開けたまま寝ていたので、窓から雪が吹きこんでベッドに積もるほどだったという。ある日、芹沢は「きみと会って話していると、若い健康な肉体が発散するエネルギーに、じつは息苦しい圧迫を感じたものでしたが、しだいに馴れてきたのは私の回復のしるしと、その目安にしてましたよ」と、大江にしみじみと語っている。
 バルザックの次は、ユーゴ―、フローベル、ドーデー、モーパッサン、スタンダール……と、芹沢光治良の“講義”はつづいた。ある日、散歩に出るとき芹沢は長女を連れてきたことがあったが、大江宅に上がるとあどけない声で「きたないわ」といったので、以後はひとりで誘いに寄るようになった。大江賢次が酔っぱらって終電で帰っても、小滝台の丘を下から見上げると、芹沢邸の書斎にはポッと灯りが点いており、執筆か勉強に打ちこんでいるのがわかった。芹沢は非常にストイックで、身体にさわるせいだろう酒もタバコもたしなまず、一心不乱に創作へ取り組みつづけていた。
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芹沢光治良邸1936.jpg

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 大江賢次の友人が、「彼からフランスを取り除いたら、何が残るかね何が?」と意地悪く批判したとき、彼は「じゃあおれたちから、何をとりのぞけばいいだろう何を……?」と反論している。思想や表現の立場はちがったが、大江は芹沢光治良を終生尊敬していた。

◆写真上:小滝町52番地に新築の、自邸の庭で撮影されたとみられる芹沢光治良。
◆写真中上は、1930年(昭和5)の「改造」4月号に掲載された懸賞創作入選の発表と芹沢光治良『ブルジョア』。大江賢次の『シベリヤ』は、翌5月号に掲載された。は、戦前の中央線・東中野駅踏み切り。当時の駅舎は左手の少し先にあり、この踏み切りをわたってまっすぐ北上すると、芹沢邸のある小滝台の西側を通って上落合へと抜ける。は、戦後に撮影された大江賢次()と直筆のサイン()。
◆写真中下は、1938年(昭和11)作成の「火保図」にみる上落合206番地の旧・芹沢邸(2軒のうちのいずれか)。は、1940年(昭和15)ごろの空中写真にみる旧・芹沢邸。は、文学の集まりで中央が芹沢光治良で左側が林芙美子Click!
◆写真下は、1936年(昭和11)と1940年(昭和15)ごろの空中写真にみる中野町小滝1567番地(1932年より中野区小滝町52)の芹沢光治良邸。は、上落合の南隣りに接する小滝台に竣工した芹沢邸。は、小滝台の丘に上るバッケ(崖地)Click!の急坂。

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