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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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いわくつきだった高根町の無人踏み切り。

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高根町踏切1.JPG
 中井駅前の辻山医院Click!で開かれていた文学サロンClick!には、東京帝大の全協グループClick!に属していた荒木巍(たかし)もいた。大江賢次Click!林芙美子Click!らとともに、ときどき辻山医院に立ち寄っては院長の辻山義光や、妻の辻山春子らと文学談義に花を咲かせていたのだろうが、このとき荒木巍は中野区の城山町に住んでいた。
 鶴見で特高Click!に逮捕され、川崎署に拘留されて拷問を受けたあと釈放された大江賢次Click!は、最初の妻と別れて再び上落合にもどると、鶴見に住んでいたころの家具調度を下落合4丁目2133番地の五ノ坂下にあった、林芙美子・手塚緑敏邸Click!の地下室にあずけ、神田川に架かる小滝橋近くの借家2階にひと間を借りて下宿している。この2階家の住所がどこだったのか、大江の著作には書かれていないので不明だが、おそらく村山知義アトリエClick!からそれほど離れていない位置だったのではないかと思われる。ほどなく、旧・神田上水沿いの中野区側に転居してしまうので、住んだ期間もかなり短かったのだろう。
 このころから、大江賢次は近くの小滝台に住んでいた芹沢光治良邸Click!や、歩いて20分ほどの城山町に住んでいた荒木巍のもとを頻繁に訪ねている。当時の荒木巍は、東京帝大の全協グループがつぶされたあと転向し、「改造」の懸賞小説に当選して作家活動をつづけており、武田麟太郎Click!が主催する「日暦」に参加していた。「日暦」グループには、下落合の矢田津世子Click!や友人の大谷藤子Click!が参加していたが、荒木巍は大谷藤子とつきあっているというウワサがあった。
 1958年(昭和33)に新制社から出版された、大江賢次『アゴ傳』から引用してみよう。
  
 彼(荒木巍)は結核で夭折したが貴公子然たる男ぶりだった。「日暦」の大谷藤子と愛しあっているという、もっぱらの噂に私が結婚をすすめると、/「大谷さんは、故郷が近いよしみだけでそんなことはないよ。むしろ、矢田さんをすすめてるくらいなんだ。……しかし、個性のつよい作家同士は不幸だし、君の破婚ばなしを聞くと、恐くなつてねえ」/その、美しい矢田津世子も死んだ。うつくしいものは愛惜されながら、はやくほろんでいく。そして私みたいなヒネこびた容貌の持主は、いくらもみくちやにされても生き永らえて……死神すらそつぽを向いている!(カッコ内引用者註)
  
 この当時の矢田津世子は、姻戚関係にある坂口安吾Click!との仲もなんとなく中途半端で、当時はいまだ時事新報社(のち中外商業新報社に転職)の記者をしていた、和田日出吉との交際もつづいていただろう。それとも、和田と別れてフリーになったことを知っていた親友の大谷藤子が、荒木巍に矢田津世子との交際を勧めたものだろうか。
 大江賢次が「ヒネこびた容貌の持主」と書くのは、もの心つくころから前に突きでた自分のアゴに大きなコンプレックスを抱いていたからだ。自伝である著作を『アゴ傳』としたのも、子どものころからアゴのことでさんざん繰り返し嫌な目にあってきたからで、やや自嘲気味にタイトルをつけたのだろう。この容姿(顔貌)へのコンプレックスは、彼の精神生活に終生ついてまわり、どこか道化て“トレードマーク”のようにも表現しているエッセイが頻繁に登場する。ちなみに、大江賢次は花王石鹸Click!花王のマークClick!が入った商品もことのほか嫌いだったと書いているので、おそらく同じ下落合でもミツワ石鹸Click!のほうを使っていたのだろう。w
大江賢次「アゴ伝」1958.jpg 大江賢次サイン.jpg
矢田津世子.jpg 大谷藤子.jpg
岸田劉生.jpg 大江賢次1956.jpg
 この特徴のあるアゴに、すかさず目をつけた画家がいた。大江賢次が、小岩の武者小路実篤邸Click!で書生をしていたころ、頻繁にやってきていた岸田劉生Click!だ。劉生は、武者小路実篤の子どもと戯画を描いて遊んでいたが、さっそく彼の前に座ると筆で写生をはじめている。いわゆる劉生マンガClick!を写生用に持ち歩く和紙へ描いたのだろうが、そのときの様子を同書より再び引用してみよう。
  
 あるとき、酔余の筆をとつて、可愛いざかりのお子さん相手に、鍾馗と桃太郎が相撲をとつている戯画をかいていたが、私がお茶をもつていくとジロリと見るなり、/「おやおや、書生さんの三日月アゴとおいでなすつた……よいこらどつこいしよ――」と、いきなり筆勢もあざやかに私の横顔をえがくと、その長いアゴを渥美半島のようにのばして、みるみる鍾馗と桃太郎の土俵にしたではないか。/「やあ、お見事お見事!」/「こいつは岸田劉生の、畢生の傑作だぜ」/「高山寺の、鳥羽僧正の絵巻よりもシニカルでいいや。岸田はなぜこんなのを書かないんだね、きつと受けるんだがなあ!」/一座のひとびとが賛辞を呈すると、彼はおどけて厚いおでこをたたいて、/「それこそ、この書生さんの額面どおりガク然としまさあ、えつへ! えつへ!」と、わらいのめした。/私は、赤くなりながら記念に乞うた。すると画伯は「双雄力闘宇宙顎然之図」と右に書き、左下に「老花子 劉生」と署名してくれた。
  
 絵をもらい受けた大江賢次は、のちに額装しようと大切にしまっておいたのだが、特高によるガサ入れ(家宅捜査)で押収され、二度ともどってはこなかった。この事例でもそうだが、ガサ入れで押収した物品の中から検挙理由になりそうなもののみをリスト化し、そうではないカネ目のものは押収品リストから外して横領したり、横流しして金品を着服する腐敗した特高刑事たちがずいぶんいたようだ。
 要するに、警察権力をバックにしてドロボーを働いていた特高刑事たちで、ガサ入れで「押収」された高価な品々や金品はもどってこないことのほうが多かった。大江賢次のたいせつな絵も、端に「劉生」という署名を見つけた特高が、どこかの画商へでもいい値段で横流しした可能性が高い。押収した特高のいる警察署へ、大江賢次は繰り返し「お百度」参りをしているが、「知らぬ存ぜぬ」ととぼけられたうえ追い返されたようだ。戦災で焼けていなければ、「渥美半島」のような大江賢次のアゴの上で相撲をとる鍾馗と桃太郎の劉生マンガは、いまでも日本のどこかの骨董屋をさまよっているのかもしれない。
岸田劉生「料理のない時をる化けもの」.jpg
大江賢次コース1940.jpg
高根町踏切2.JPG
 さて、上落合の小滝橋近くにあった下宿から、そして転居した小滝町さらには柏木5丁目の借家から、大江賢次は東中野駅と中野駅の中間にあたる中野区城山町(現・中野1丁目)の荒木巍をよく訪ねている。どちらの家からも、東中野駅に出て線路沿いに西へ歩き、中央線の南側にある城山町へ抜けるためには、その手前で線路を渡ることになる。
 城山町への最短の道筋は、中央線の線路沿いをまっすぐ西へ歩いてきたあと、同町の東に接する高根町14番地と15番地の間にある無人踏み切りをわたるのが、まわり道をせず距離も近くてアクセスに効率がいい。その220mほど手前、氷川町14番地に架かっていた跨線橋(現在は撤去)をわたると道路が少し南へ下るため遠まわりになる。高根町の無人踏み切りを利用していた大江賢次は、なぜかわたるたびに無性に電車へ飛びこみたくなる不思議な衝動を味わいつづけていた。同書から、つづけて引用してみよう。
  
 彼(荒木巍)は武田麟太郎の「日暦」グループで、高見順や新田潤と轡をならべていた。同じ共通した転向の悩みにつながつているだけに、私たちはよく連れだつてそこらあたりをテクテク歩いた。彼もまた、私の愚痴ばなしのゴミ箱を任じてくれたものだ。城山町の下宿へいく途中に、中央線の無人踏切があつたが、そこは妙にとびこみたくなる誘惑を感じるともらすと、荒木巍は顔色をサッとかえて、/「あそこは、今年になつて三人もとびこんだ。君は今後、絶対に陸橋をわたれ――」と、忠告したものだ。/その後、どうも胸さわぎがしてならないから、君の安否をたしかめにきた、と深夜にきてくれた友情をどうして忘れ得よう!(カッコ内引用者註)
   
 この高根町の無人踏み切りは、過去の拙記事にもすでに登場している。吉岡憲Click!が深夜に中央線へ飛びこんだ、あの踏み切りだ。
 書き置きも遺書もなにもなく、「あれは事故だった」としたがる画家仲間や、「制作のいきづまりか」と書くマスコミ、そして「妻の病気と家政の逼迫」という家庭環境を理由に挙げる書籍などとは別に、大江賢次によれば踏切りが近づくと、「妙にとびこみたくなる誘惑」にかられるという不可解な要因を、もうひとつ加えなければならないだろう。この無人踏み切りで、過去にいったいなにがあったのだろうか?
高根町踏み切り1936.jpg
高根町踏切3.JPG
ベンチ吉岡憲.jpg
 あまりに人身事故が多かったせいだろうか、同踏み切りは廃止され、現在はそのすぐ東隣りに跨線橋が設置されている。荒木巍は、踏み切りのことを聞くと「顔色をサッとかえて」いるので、なにかこの場所にまつわる因縁話でも知っていたのかもしれない。

◆写真上:人身事故が多くて廃止されたとみられる、高根町の無人踏み切り跡。
◆写真中上は、1958年(昭和33)に新制社から出版された大江賢次『アゴ傳』()と著者の献呈サイン()。は、矢田津世子()と大谷藤子()。は、若き日の岸田劉生()と1956年(昭和31)に撮影された大江賢次()。若いころの大江賢次は、顔貌にコンプレックスを抱えていたせいか写真がきわめて少ない。
◆写真中下は、岸田劉生「ばけもの」画帖の1作で『料理のない時をる化けもの』(部分)。筆で大江賢次の横顔を描いた戯画も、おそらくこのようなタッチだったのだろう。は、城山町の荒木巍のもとへ向かう大江賢次の訪問コースと、死の誘惑からの危険を避ける荒木巍のおすすめ安全コース。は、高根町の廃止された踏み切り跡の現状。
◆写真下は、1936年(昭和11)ごろの空中写真にみる中央線が通過する高根町の無人踏み切り。は、高根町踏み切り跡を北側から。は、駅のベンチで一服する吉岡憲。

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