なにごとも、キチンとしないと気が済まない人がいる。特に、戦前の教育を受けた親や祖父母の世代には、だらしのない生活を嫌う人が多かった。机の抽斗やロッカーの中が雑然としていると、「抽斗の中は、その人の心の中や性格をよく表わすものだ」という教師がいた。女子が男子のことを「君」づけで呼んでいると、目下の者を呼ぶ「君」ではなく「さん」づけで呼びなさいと訂正した。小学校3~4年生の担任だった定年間近の笹尾先生だが、おそらく大正初期の生まれだったろう。
高尾山から大正天皇の墓(多摩御陵)へ遠足に出かけたとき、陵墓に90度の最敬礼をしている姿が印象的でいまも目に焼きついている。「多摩御陵」Click!はそのかたちから、わたしは小学生の間じゅうずっと「卵陵」だと思いこんでいたが、そんなことを口にしたらたちまち頭にゲンコツをもらったにちがいない。外で遊ぶのに忙しく午後7時になると眠くなり、まず宿題などやっていかなかったわたしは、しょっちゅうゲンコツを頭にゴツンとくらっていたが、なぜか笹尾先生が大好きだった。
その思想性からいえば、もう戦後民主主義とはまったく相いれない時代遅れなアナクロニズムであり、おそらく戦前から教師をしていたであろう彼は、その激動の中を文字どおり命がけで歩んできたのだろう。そんな笹尾先生がときおり見せる、1960年代半ばを自由にノビノビとすごす教え子たちを見るまぶしそうな眼差しや、どこかで自分の教育がまちがっているのではないかと自問自答しているような内向的な眼差しや、そんな迷いをどこかで子どもたちに見透かされていると思うのか、ときにドギマギして恥ずかしそうな表情と眼差しをするのが、子どものわたしには教師以前にとても人間らしく思え、信頼できるいい先生だと直感的に感じとれたのかもしれない。
いまのわたしなら、抽斗の中や心の中が雑然としていたって、そのほうがよほど人間らしいし、特に心の中はいちいちキチンキチンと、右から左へいつも整理整頓できているもんじゃない、むしろ雑然としていたほうが新しい方向性やアイデアが生まれる基盤になるし、より生活や人生が楽しめるのではないか……などと考えながら反発するのだろうが、笹尾先生に関しては当時もいまもまったく反発も反感も湧いてこない。それだけ、子どもながらに人間として教師として信頼し、信用していたのだろう。確か、それからすぐに退職されているので、わたしたちのクラスの2年間が最後の担任だったのかもしれない。
うちの父親にも、妙なところに頑固で形式主義的で几帳面な性格が出ていたのを憶えている。ワサビおろしがないと、いくら大好きな蕎麦を茹でても口にしなかったし、カツオの刺身には辛子がないとショウガおろしではあまり箸をつけなかった。湯豆腐にタラではなく、別の魚が入っていたりすると食べなかったし、薬研(やげん)=七色唐辛子がないと、せっかくの手づくり豆腐もあまり口に運ばなかった。
これは、几帳面でキチンとするのとはまた少し別のテーマなのかもしれないが、酒をまったく飲まなかった親父にしてみれば、自身の味覚や作法、伝統に沿った料理の“お約束”や、自身が育った食文化に関するキチンとしたこだわりや規範・形式、口に入れるものに対するこの地域人としての矜持が崩されるのを、なによりも頑固に嫌い抵抗したかったのだろう。ちなみに、東京方言では「薬研(やげん)」または「七色唐辛子(なないろとんがらし)」というが、最近よく耳にする七味唐辛子(ひちみとうがらしClick!)は関西圏の方言だ。七色とんがらしは、親父がときどき冷奴やおみおつけにもふって食べていた憶えもある。
向田邦子Click!も、親父と同じようなことをして、おみおつけに薬研をふりながら食べている。おそらく、麻布出身の(城)下町娘Click!だった祖父母や母親からの影響だろう。1980年(昭和55)に文藝春秋から出版された、向田邦子『無名仮名人名録』より引用してみよう。
▼
小さなしあわせ、と言ってしまうと大袈裟になるのだが、人から見ると何でもない、ちょっとしたことで、ふっと気持がなごむことがある。/私の場合、七色とんがらしを振ったおみおつけなどを頂いて、プツンと麻の実を噛み当てると、何かいいことでもありそうで機嫌がよくなるのである。/子供の時分から、七色とんがらしの中の麻の実が好きで、祖母の中に入っているのを見つけると、必ずおねだりをした。子供に辛いものを食べさせると馬鹿になると言って、すしもわさび抜き、とんがらしも滅多にかけてはくれなかったから、どうして麻の実の味を覚えたのか知らないが、とにかく好きだった。
▲
向田家では、寿司はサビ抜きだったようだが、うちでは子どものころから大人と同様にワサビのきいた寿司を食べさせてくれた。子どもの敏感な鼻には刺激的で、ツーンときては涙のでるワサビのきいた寿司だったが、春先の花粉症でつまり気味だった鼻がみるみるとおるのは気持ちがよかった。
おそらく寿司からワサビを抜いたら、まったく食べさせる意味も寿司の醍醐味もないと考えた親父の想いであり判断だったのだろう。乃手風なサビ抜き向田家とは、そこがちょっとちがう習慣であり考えなのかもしれないが、子どものころから辛いものを食べていた結果、成長して馬鹿に育った……とはやはり思いたくない。
もうひとり、笹尾先生によく似た人物を知っている。この人も、親父よりもずいぶん歳が上の大正半ばに生れた人で、学生時代にアルバイト先の会社Click!にいた総務経理部長だ。非常に几帳面な性格で、社内がキチンとしていないと我慢ができない性格だったらしく、よく社員の素行や言葉づかいを注意しているのを見かけた。おそらく、どこかの会社を定年退職したあと再就職したか、あるいは社長の縁故関係でアルバイト先の会社へ入社した総務経理畑の専門家だったのだろう。
社員からは、かなり煙たがられている存在だったが、わたしはどこか笹尾先生と同じ匂いがする、歳をとった総務経理部長が嫌いではなかった。正社員とアルバイトの差別をしないし、ときどきわたしのいるスーバーマーケット用のPOPを支店別に仕分けする、パーティションで仕切られ他の部署からは見えない仕分け室へやってきては、紐のついた老眼鏡を外しながら楽しそうに短い世間話をしていった。
だが、部長がいなくなってから、ものの30分もしないうちに今度は経理の女子が連れだってやってきて、細かい部長の性格や仕事のグチをこぼしていったりするのでおかしかった。少し彼をかばいたくなり、総務経理部長が細かくなくてど~するんだよ?……とノドもとまで出かかるのだが、彼女たちはひととおりグチをこぼすと、気分転換ができたのか再び財務経理の最前線へともどっていった。どうやら、各部署から見えない仕分け室が、社員たちの憩いの場になっていたフシがあり、入れかわり立ちかわりさまざまな部署から社員たちがやってきては、5~10分ほど話して一服すると気がすむのか帰っていった。
かなりのお歳なのに総務経理部長の声は大きくて張りがあり、電話をかけるときは特に仕分け室まで響いてきた。まるで、戦前の壁掛け電話を使っているような雰囲気で(手にしているのは通常のビジネスフォンなのだが)、立ちあがって大声で話さないと相手に聞こえないかのように通話していた。祝電や弔電などの電報を依頼するときが最大音量で、「岡山県の<お>、眼鏡の<め>、出初式の<で>、東横線の<と>、丑三つ時の<う>、午前様の<ご>……」と、いちいち文字を規定しながら文面を1文字ずつ伝えている。その例に挙げる用語が、1980年代にしてはかなり古めかしく、相手の局員が訊き返すのか、何度か用語を変えながら伝えたりしていた。
おそらく、40年以上にわたり総務経理部門を一筋に歩いてきたくだんの部長には、ある一定の模範的あるいは規範的な“型”があり、それを保持しようとする「これだけは譲れない」という矜持があったのだろう。同じく、40年以上も教師をつづけてきた笹尾先生にもまた同じような“型”があり、時代のめまぐるしい移ろいを横目で眺め、ときにとまどいつつも「悪いことは悪い、いけないことはいけない」と、子どもたちの頭にゲンコツをゴツンと食らわす、教師としての誇りと自信があったのだろう。それは、どこか職人の世界にも通じるプロフェッショナルな“型”の頑固な美しさがあって、周囲を反発させず心を素直にさせ納得させる力があるように思える。実力や中身が薄いのにプライドばかり高い、現代に多いエセ専門職や職人モドキとは、まったく次元を異にする存在に見えていた。
それはどこか、江戸時代の古い演劇なのに芝居が見せる所作や流暢な七五調のセリフ、誰もが知っている古典落語の予定調和な展開やオチにも似て、形式美に通じる側面があるのかもしれない。プロの決められた仕草や技(わざ)に魅せられる、強い説得力と独特な美意識の世界だ。親父の食事に対する決められた“型”も、どこかこの地域の食文化の美意識を教育的に体現して、向田家と同様に子どもへ見せ、あえて伝えようとしていたのかもしれない。
初ガツオの刺身は、ショウガでもワサビでもカラシでもいけるし、中トロClick!やどんど焼き(お好み焼き)Click!を美味いといって食べているわたしは、親父からみれば地域教育の大失敗に映るのかもしれないが、小学校の笹尾先生やアルバイト先の経理総務部長が体現していた矜持を、いまではとてもよく理解できるように、親父の食に対するこだわりや伝統的な美意識もまちがいなく理解できる……というところで、およそ勘弁してもらうことにしたい。
◆写真上:抽斗の整理整頓は、人の性格や心の中を表しているというのだが……。
◆写真中上:上は、笹尾先生とわたしがいた小学校の現状。校舎が建て替えられてまったくちがうので、当時の面影はない。下は、スーパーで見かけるPOP。チェーン営業をする大型スーパーになると、当時は専門の版下制作・印刷・配送の会社があった。
◆写真中下:上は、1980年(昭和55)に出版された向田邦子『無名仮名人名録』(文藝春秋/左)と、薬研=七色とんがらし(右)。下は、江戸前期には七色唐辛子や薬種問屋が多かったことからその名がついたといわれる、1859年(安政6)作成の尾張屋清七版「日本橋北内神田両国浜町明細絵図」にみる薬研堀界隈Click!。日本橋の米沢町(現・東日本橋)や浜町、横山町、若松町などに囲まれた薬研堀は、幕末なので埋め立てが進んでいる。
◆写真下:上は、子どものオヤツだった醤油が似合うどんど焼き(お好み焼き)。下は、親父は箸をつけなかったトロの握り(江戸東京では下魚だったマグロ自体を好まなかった)。わたしは双方とも美味しく食べるので、食文化面からの伝統教育は半ば失敗だったのだろう。