Quantcast
Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1249

もっとも早い時期の「武蔵野」写真集。

$
0
0
武蔵野らしさ.JPG
 時代が大正期から昭和期に入ると、大震災の影響もあって東京郊外に残っていた武蔵野Click!の風情は、急速に姿を消していった。戦後になると、山手線の内外は住宅が密集し、もはや武蔵野と呼べるような風景は東京23区の外周域に後退していった。こちらでも、武蔵野については折りにつけ、その植生Click!織田一磨Click!『武蔵野風景』シリーズClick!、文学に登場する「武蔵野」Click!などさまざまな角度から触れてきている。
 そんな姿を消しつつあった武蔵野を、まとめて写真で記録しようとする動きが1932年(昭和7)に企画されている。それまでは、いわゆる「武蔵野」の農村地帯は東京郊外に出ればどこでも見られる、ありふれた日常風景だった。画道具を抱えた洋画家が、ときたま風景画を制作Click!するため写生に訪れるぐらいだったろう。そんな風景を、個人的に撮影していた人物はいたかもしれないが、急速に変貌しつつある武蔵野の風情を、組織的な企画で大勢のカメラマンがいっせいに撮影してまわったのは、このときが初めてだったろう。
 組織名は「日本写真会」といい、セミプロやアマチュアの写真家たちが集うカメラ愛好家組織だった。日本写真会は、月ごとに例会を開催していたが、ときに撮影するテーマを決めては作品を持ち寄って、お互いに批評しあうような活動もしていた。1932年(昭和7)11月の例会では、「失はれ行く武蔵野及郷土の風物」というテーマが出題された。
 同年から翌年にかけ、多くの会員たちは東京の郊外へ出かけて、急速に宅地化が進んで消滅しつつある武蔵野風景を撮影し記録しつづけた。そして、1933年(昭和8)には合評会が開かれているのだろうが、持ち寄られた膨大な武蔵野の写真は特に写真集にするでもなく、そのまま“お蔵入り”となった。これらの写真作品が、再び写真集として陽の目を見るのは10年後、戦時中で新たな出版企画が立てにくくなった1943年(昭和18)のことだった。ただし、写真集の編集は1942年(昭和17)春ごろには終了しており、出版まで時間がかかったのは用紙とインクの配給が戦時で思うように進まなかったせいだろう。
 1932年(昭和7)現在で、「武蔵野」の風情が色濃く残る地域といわれているのは、わたしの世代で「武蔵野」Click!らしいと認識していたエリアよりもかなり内側、東京市街地に近い山手線からそれほど離れていない外側の一帯だ。すなわち、1932年(昭和7)に東京35区制Click!へ移行した自治体の名称でいえば、中野区をはじめ目黒区、杉並区、世田谷区、練馬区、板橋区、葛飾区、蒲田区(現・大田区の一部)、さらに三鷹、調布といった地域だ。
 1943年(昭和18)に靖文社から出版された『武蔵野風物写真集』より、その編者であり日本写真会の幹事だった福原信三の「はしがき」から引用してみよう。
  
 武蔵野には武蔵野の風物があります。自然にも人世にも、そして此の人世といふ中にも、信仰や、衣食住や、職業、行為、其の他百般の人間の作つたもの等々……。しかも此れらは急テムポを以て淘汰されつゝあります。今日に於て是れらの記録を結集して置かなければ、幾年かの後には、地上から全く跡を絶つて、復た再び想像する事すら不可能となるのは言を俟ちません。敢て百年後の史家のみとは云はず、僅か五年の後、我等の予言の適中我等自ら驚く事がないとは誰にも断言し得ない處でありませう。
  
世田谷区砧.jpg
世田谷区下北沢.jpg
世田谷区瀬田陸稲.jpg
世田谷区等々力.jpg
杉並区西荻窪駅.jpg
杉並区南阿佐ヶ谷.jpg
中野区鷺ノ宮.jpg
 戦時中にもかかわらず、非常に質のよい半光沢のある用紙を使い(78年後の現在もほとんど褪色せず傷んでいない)、写真製版もきわめて精緻で高品質だ。これら武蔵野の鮮明な写真が撮影されてから、2021年でおよそ90年が経過しているが、ここに記録された風景のほぼすべてが消滅してしまった。かろうじて、それらしい姿をとどめているのは、日本写真会のカメラマンがさらに足を伸ばして撮影した、府中地域から以西や埼玉県の南西部、千葉県の西北部ぐらいだろうか。
 また、わたしが高校生のころに「武蔵野」と認識し撮影して歩いたエリアの風情も、そのほとんどが1980年代を境にたちまち姿を消していった。現在では、公園や緑地帯として保存された一部の例外的な区画に、かろうじて昔日の面影をとどめるだけだ。でも、それはごく狭いエリアに押しこめられた風景であり、雑木林の木々を透かして見えるのは、高層マンションや高速道路の高架、またはどこまでも連なる住宅街だったりする。
 写真集が出版された当時、世田谷区の成城に住んでいた柳田國男Click!は、同写真集の「序」で武蔵野の開発の様子をこんなふうに書いている。
  
 今日はもはやその昔の片影も残るまいと思つて居ると、稀にはまだ敏感なる技術家に見出されて後の世に伝へられるやうな、しほらしい場面もあつたといふことを知つたのである。私の今住んで居る西南郊外の丘陵地などは、ちやうど同じ大きな変化がまさに始まつて、すばらしい勢ひでそれが進行して居る。一週に一度ぐらゐは必ずこの間をあるきまはつて居るので、却つて以前とのちがひに心づくことが少ないが、静かに考へて見ると今あるいて居るのは皆新道で、それが両側の石垣生垣と共に、僅かな歳月のうちに尤もらしく落ちついてしまひ、一方にはそれと併行する榛(はん)の並木の細路が、段々に崩れてたゞの畔みたやうにならうとして居る。林がつて居たうちは必要であつた多くの路しるべの石塔も、拓かれて畠となつて見とほしがきくやうになれば、もはや不用だから知らぬ間に片付けられる。
  
 同写真集には、武蔵野の各地域にある特産物や名物、名品なども登場している。たとえば、豊島区では雑司ヶ谷鬼子母神Click!の茶屋で出されていた里芋の味噌田楽やすすきみみずくClick!、練馬のダイコン、深大寺Click!蕎麦Click!などだが、わたしが意外だったのは目黒のタケノコや竹林が何度も登場していることだ。写真を数えてみたら、目黒の竹林が3枚も収録されていた。同じ地域で同じテーマの写真が3枚は、同写真集でもめずらしい。
豊島区雑司ヶ谷.jpg
板橋区徳丸ヶ原.jpg
蒲田区下丸子.jpg
葛飾区金町.jpg
練馬区大根.jpg
練馬区清戸道志木街道.jpg
 目黒村は、江戸時代からタケノコの名産地として知られているが、昭和初期になってもいまだ孟宗竹の竹林で採れるタケノコが、市場へ出荷されていたようだ。武蔵野の中でも、めずらしく昔から竹林(薮=やぶ)が多かった目黒では、開業する医者もことごとく薮ばかりと書いたのは、目黒川は太鼓橋の近くに住んでいた随筆家の磯萍水Click!(いそひょうすい)だ。「笑ひごとぢやない」と書いているので、過去に目黒の医者にかかってひどい目にあわされた、苦々しい経験でもあったのだろうか。
 写真集と同じ年、1943年(昭和18)に青磁社から出版された磯萍水『武蔵野風物志』から引用してみよう。ちなみに、このころには目黒の竹藪もだいぶ減少していたらしい。
  
 寔(まこと)に昔の目黒は栗の木と竹藪の天地、栗飯筍飯が名物だつたのも故ある哉であつた。その亡された筍の怨念か、未だに目黒の医者は薮ばかり、恐らくこの祟りは、目黒の名物は筍と、その噂の消えない限り、永久に、百年でも二百年でも、扁鵲(へんじゃく=古代中国の春秋戦国時代にいたとされる優れた医者)と雖も目黒で看板をかければ、忽然と薮にある、笑ひごとぢやない、何とも恐しい事ではないか。(カッコ内引用者註)
  
 目黒の“枕詞”はタケノコという、慣用的な表現がこの世から消滅しない限り、その祟りである医者の“薮”化は数百年はおろか永久につづくだろうとしているが、およそ1980年代には早くも自然消滅し、目黒の名産はタケノコだと聞けば、「ウッソ~ッ!」という人が大多数になったろう。だが、磯萍水が嘆息する薮医者の数も減ったかどうかは、1967年(昭和42)に死去した彼の追跡エッセイがないので、さだかではない。
 『武蔵野風物写真集』が特異なのは、同写真集を刊行したのが東京ではなく大阪の出版社だったことだ。靖文社は、天王寺区夕陽丘町20番地にあった会社だが、この手の書籍は東京でかなり売れるだろうと見こんだ、あえて戦略的な出版だったのだろうか。それとも、通常なら地元の出版社に持ちこむこのような企画だが、写真集に見あう用紙やインクの配給先(出版社)が東京では見つからず、大阪でようやく探し当てることができたからだろうか。
目黒区大岡山.jpg
目黒区竹林1.jpg
目黒区竹林2.jpg
目黒区竹林3.jpg
三鷹駅四谷丸太.jpg
調布深大寺蕎麦.jpg
 いずれにせよ、きわめて貴重な武蔵野の記録を残してくれたわけで、今日から見れば靖文社様々というところだろう。なぜなら、このあとの大空襲により、日本写真会の会員たちが東京に保管していたネガや写真の多くが、この世から永久に消滅してしまっただろうから。

◆写真上:埼玉県南部の志木付近で見つけた、昔日の武蔵野らしい風景の一画。
◆写真中上:以下、『武蔵野風物写真集』より1932年(昭和7)に記録された貴重な武蔵野風景のほんの一部をご紹介したい。からへ、世田谷区の砧、同じく下北沢に通う林間の小道、同じく瀬田の陸稲畑、同じく等々力、杉並区の西荻窪駅付近、同じく阿佐ヶ谷駅の付近、中野区の鷺宮の芋畑に設置されたネズミ除けの狐絵馬。
◆写真中下からへ、豊島区雑司ヶ谷の落ち葉焚き、板橋区の徳丸ヶ原、蒲田区(現・大田区)は下丸子の街道茶屋、葛飾区の水郷金町の池にみる水難除けの水神牛札、練馬区名物の大根干し、同じく練馬を貫通する清戸道Click!から志木街道への連続。
◆写真下からへ、目黒区大岡山は東京工業大学周辺のススキ原、同区名物の竹林3葉、三鷹駅近くの「四谷丸太」製造林、調布は深大寺参道の蕎麦屋。
おまけ
同写真集には、残念ながら落合風景は収録されていないが、めずらしい風景も記録されている。1932年(昭和7)の当時、倒壊寸前だった千代田城Click!は和田倉門の最後の姿だ。関東大震災Click!で大きな被害を受けた和田倉門は、このあとほどなく解体されている。
和田倉門.jpg

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1249

Trending Articles