富永哲夫Click!の『家庭衛生の常識』Click!(帝國生命保険/1932年)の記述では、食物が原因で罹患する疾病や中毒症のボリュームがもっとも大きい。内科の臨床医だった富永博士の専門であり、もっとも得意な分野でもあるからだろう。また、この冊子が書かれる7年前、東京市内でコレラが大流行したことも、当時は落合町葛ヶ谷24番地で医院を開業していたとみられる彼の印象に、強く残っていたせいかもしれない。
1925年(大正14)9月、東京市内はコレラの大流行で猖獗をきわめていた。市当局は、即座に東京湾での漁業を禁止している。当時は下水の浄化設備など存在しないので、市内で発症した患者の糞便が下水管をとおって東京湾に流れこみ、コレラ菌が魚介類を汚染する可能性が高かった。魚介類が汚染されれば、漁業関係者や水揚げされる魚市場が汚染され、魚を購入した料理屋や消費者まで危険にさらされることになり、流行がさらに拡大する怖れがあったからだ。
コレラに限らず、当時の東京では食物に起因する感染病が少なくなかった。これは、戦後しばらくたってからも同様で、赤痢や腸チフス、パラチフス、疫痢などの患者が、市内のあちこちで頻繁に発生していた。これは日本に限らず海外でも同様で、これら食物に付着する細菌による感染症は、上下水道が完備し社会の衛生レベル全体が向上するまで発症しつづけている。
これら病原菌の厄介なのは、細菌に感染して発症すれば患者だと認定でき隔離入院または隔離治療が行なえるが、感染しているにもかかわらずキャリア(保菌者)としてまったく発症しないケースもあるからだ。そうとは知らず、保菌者は日常生活を送りつづけ、病原菌を周囲にいる関係者に文字どおり撒いて歩くことになる。すると、該当する怪しい食物に由来しそうもない新たな患者があちこちで発症し、共通する知人・友人をたどっていくと保菌者が浮かび上がってくる……というようなことがしばしば起きている。
感染しているのに元気な患者は健康保菌者と呼ばれ、いまだに米国で語り継がれている「腸チフスのメアリー」などのケースが有名だ。彼女の周囲では、22人が発症しひとりが死亡している。病原菌は、手指に付いている場合は握手などで感染し、また保菌者の身体にとまったハエなどを媒介にして飲食物に付着したり飲料水にまぎれ、それを飲食した人間へ伝染することになる。
それを避けるためには、伝染病の流行中は生食を避け、飲食物はかならず火を通してから食べるとかなりの割合で予防できるとしている。同冊子より引用してみよう。
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伝染病は飲食物の生食を避けることによつて完全に予防することが出来る。これは云ひ易くして、なかなか行ひ難いことであるが、平素に於ても、特に伝染病流行時には実行しなければならぬ。我国には「チフス」及び赤痢は常に流行してゐる。従つて絶えず流行地にある注意を怠つてはならぬ。よく煮て食べるなら「コレラ」流行時と雖も魚介を食用して何等差支ないのである。かゝる場合には魚介を鍋の中に受けとり、それを他の器物に移すことなく、そのまゝ水を加へて煮るのである。大正十四年の「コレラ」流行時に、著者とその仲間が鮪を非常に安価に買ひ入れ、この方法により盛に食べたことを思ひ出す。
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文中の「著者とその仲間」とは、落合町葛ヶ谷24番地に住んでいた富永哲夫一家と、同じ敷地内の別棟に住み日本航空輸送会社に勤務していた、姻戚(兄弟?)の富永五郎一家のことだろう。のち、1971年(昭和46)に富永五郎は日本航空の社長に就任している。ちょうど、日航を舞台にしたTVドラマ『アテンションプリーズ』(TBS)が流行り、スチュワーデス人気が沸騰していたころだ。
以上は、おもに食物を媒介にして罹患する伝染病についてだが、もうひとつ食物に起因する危険な疾病として、富永哲夫は食中毒を挙げている。昭和初期の当時は、現代の目から見れば日常生活においては比較にならないほど不衛生な環境があちこちにあり、腐敗したあるいは腐敗しかかった食物を口にして食中毒を起こす事件が頻発していた。しかも、既述の伝染病と比べても、食中毒の症状は激烈であり、死亡率もきわめて高かった。家庭に冷凍冷蔵庫が普及した今日では、ほとんど想像もつかない生活環境だが、数多くの食中毒事件が日々新聞紙上をにぎわしている時代だった。
これらの食中毒は、サルモネラ菌をはじめ、腸ビブリオ菌、ブドウ球菌、ボツリヌス菌、ノロウィルスなどに起因しているとみられるが、富永哲夫はそれを全部ひっくるめて「毒素」と表現している。食中毒が、これらの菌によって引き起こされるのは当時も知られていた(ノロウィルスは除く)はずだが、彼はそれらの性質や毒物を形成し排出する仕組みなどの解説をしていると、文章が長くまた煩雑になるので避けたのだろう。「毒素」は、腐敗した食物のみに付着しているものではなく、食物の容器や調理器具を介して周囲に拡がることも警告している。
また、あらかじめ食品自体に毒物が含有されている例として、江戸東京では昔から食べる習慣はないが、関西の食文化ではフグのアルカロイド系毒による中毒Click!をはじめ、貝類などに含まれる毒素による中毒、誤って毒キノコClick!を口にする中毒、青梅による青酸中毒なども事例として紹介している。同冊子より、つづけて引用してみよう。
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腐敗により毒素が生じて、それを食用して中毒を起すことは甚だ多い。祝賀会等の宴会に出席した全部の人々が中毒したなど云ふのは多くはこの種の中毒である。その最も多いのは蛋白質の腐敗により「プトマイン」を生じ、これが原因となつて中毒を来すのである。かゝる腐敗は夏多いものである。然しながら冬の寒い時でも油断して中毒することもないではない。又食物に附着した細菌が適当の温度により盛に発育して、その細菌の毒素により中毒を惹き起すことも少くない。
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真冬における食中毒は、当時の小学校や中学校でよく起きていた。持参した弁当を、午前中から昼まで石炭ストーブやスチームの近くに置いて「温める」ため、あらかじめ食材に付着していた菌が大量に繁殖することで起きる中毒だ。
東京市衛生試験所では、暖房器具のかたわらに置かれた弁当箱も調査したようで、とある小学校の蒸気が滞留するスチーム(約100度)の近くに置いた弁当箱の中身は、約38~39度の温度にまで上昇することを突きとめている。この温度は、食物の細菌が繁殖するのにもっとも適した温度で、スチームのそばに置いた弁当箱では約17分で細菌が2倍に繁殖し、午前8時から正午までの4時間では約6万倍もの細菌増殖を確認している。
弁当の食材に含まれている細菌が、どこにでもいるようなタイプのものであれば、お腹をこわすぐらいで済んだのだろうが、先に挙げたような食中毒菌が混じっていた場合は、生命さえ危うい重篤症状になっただろう。富永哲夫は、温めるなら常に60度以上の温度を確保し、それができないのならむしろ冷やすことを推奨している。真冬に弁当箱を外へ放置し、「冷や」して食べることは、さすがに教師と生徒ともに抵抗があっただろう。
1928年(昭和3)の統計によれば、東京市内における食中毒患者は3,679人におよび、このうち167人が死亡している。ただし、この数字は患者が医療機関を受診し、病院から保健所へ連絡があった件数のみのカウントなので、下痢や腹痛ぐらいでは病院にかからない(かかれない)中毒患者を含めると、おそらくケタちがいの膨大な数字になるとみられる。富永哲夫も、「実際は尚遥かに多数であることは勿論である」とし、食中毒は適切な調理をしさえすれば、そのほとんどが予防できると結んでいる。
また、富永哲夫は食品添加物による害毒についても言及している。当時は、有害な食品添加物に関しては内務省が省令で「取締規則」を定めていたが、それに従わない食品業者も多くいたのだろう。また、現代のように厳密な食品衛生法が存在せず、添加物に関する化学的な分析も十分でなかったため、身体への影響との因果関係を確認できない毒性の強い添加物も、そのまま野放図に使われていた時代だ。
今日のように成分表示の義務がなかった時代なので、東京市衛生試験所で分析でもしてもらわない限り、消費者は食材の含有物をまったく知ることができなかった。当時から使用禁止の防腐剤と無害の着色料を、富永哲夫は一覧にして掲示している。
今回で、食べ物の項目は終わりだが、次回は人に病気をもたらす害虫について、昭和初期の対策をいろいろ眺めてみたい。家庭用の手軽な殺虫剤など、まだまだ普及するはるか以前の話で、住宅の虫除けは江戸期と同様に蚊帳を吊るのが一般的な時代だった。
◆写真上:青酸配糖体が含まれ、強い毒性のある収穫したての青梅。
◆写真中上:上は、コレラ菌(左)と腸チフス菌(右)。中は、赤痢菌(左)と腸ビブリオ菌(右)。下は、冷凍冷蔵庫の普及で戦後は食中毒が劇的に低減した。
◆写真中下:上は、毒キノコのチャンピオンであるベニテングダケ。中は、現在でも死者が絶えないトラフグ。下は、1932年当時の有害・無害食品添加物表。
◆写真下:上は、昭和初期には食中毒の主因だった弁当。下は、その弁当を温めて学校などで頻繁に中毒事故を起こしていたスチーム暖房(左)と石炭ストーブ(右)。