あるところに、星座の運行によって「運気」を判断する「巫(かんなぎ)」Click!がいた。彼女は、明治末に生きていた人物で、星座の運行とともに星くずClick!が降りそそぐ地域の、地面から発する「好気」を見る「望気術」も身につけていた。
望気術は、もともと大昔から山師(探鉱師)が修得していた技術で、地下に眠る鉱物、たとえば金(かね:鉄・砂鉄)や銅(あかがね)、黄金(こがね)、丹(に:辰砂=水銀)、錫(すず)の五大金属を発見するために、地面から上空へとあがる鉱脈の「気」を望見して場所を特定し、鉱山を開発するという特殊能力を備えた専門の職業だった。
唐に留学した空海(弘法大師)Click!は、この望気術をマスターして帰国し、ときの政権が展開する山師(探鉱師)の元締めとして、日本全国の地脈を探査してまわったのは有名な話だ。山師としての空海の足跡は、いくつかの専門書も出ているのでご存じの方も多いだろう。各地には、「弘法大師の温泉」や「弘法大師の井戸」が存在するが、もちろん空海ひとりが調査し試掘してまわったわけではなく、彼が組織化したいくつかのプロジェクトチームが全国各地へと展開したのだろう。
そして、彼らが探していたのはもちろん温泉や湧水ではなく、地中にある五大金属のいずれかだった。藤原時代になると、金(かね:砂鉄)や銅(あかがね)の精錬は各地でおよそ軌道に乗っており、同時代にもっとも探索されたのは、より稀少な黄金(こがね)と丹(に:辰砂)だったと思われる。空海は、山師としての大きな功績により、近畿圏ではもっとも黄金の気が強かったといわれる、高野山を拝領して金剛峯寺を建立している。
望気術について解説した書物に、江戸後期の『山相秘録』という書物がある。だが、これは金・銀・銅が重要な貴金属だと認知され、貨幣の価値へとそのまま投影された近世の価値観を反映しており、それらの鉱脈を探すのに特化した書物ということになるのだろう。したがって、空海が用いた広義の望気術からは少なからず変質している可能性がある。黄金(こがね)探査の望気術について、1999年(平成11)に河出書房新社から出版された、加門七海『黄金結界』より引用してみよう。
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雨上がりの後、晴れ上がった時を最高として、時間帯は巳から未の間――即ち、午前九時頃から午後三時頃までに観るという。/このとき、青翠色の大気の中に「露光瑞靄」を発して、鮮明に他と異なるところが、金を含む山である。/「露光瑞靄」とはわかるような、わからないような表現だ。微細に光り輝く靄や霞の立ちこめる山ということか。/ともあれ、これを「最初遠見の法」と言う。諸山の中から、金のある山を見立てる方法だ。次に行なうのは「中夜望気の法」。目当ての山のどの部分に、金があるかを探る法である。これは五月より八月までの間に行えと書いてある。/「諸金精気ノ出現スルハ大抵夜半子ノ時。月ノナイヨク晴レタ夜ヲ選ブベシ」とあり、一度ではなく、幾度も窺って確認しなければならないとか。/すると金精は華のごとく、銀精は龍のごとく、銅精は虹のごとくに見えてくる。これもまた抽象的な表現だ。
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望気術の基盤には、古くから伝わる中国の陰陽五行の思想が通底しており、先に書いた東洋式に星座の運行を観察して「運気」を占う巫術(ふじゅつ=占星術)や十二支による方位学もまた、同思想から大きな影響を受けている。
巫の彼女は、方位盤を手に北辰(この場合は北極星)のある東京の真北の空を、頻繁に観察していた。ソメイヨシノが咲いたばかりだが、いまだ冬の余韻が感じられて肌寒く、白い巫衣裳を通して夜明け前の冷気が身にしみた。だが、あらゆるものが生まれいずる弥生三月、もっとも星々の動きが見えやすいのは夜明け前をおいてほかになかった。このところ長雨つづきで星が見えず、望気術で観察することがかなわなかったが、3月末のこの日は夜空に雲がほとんどなく北の天空は快晴だった。時刻を確認すると寅一ツ(午前4時ごろ)、巫は5日ぶりに見晴らしのいい高所に立つと、北辰(北極星)を中心にすえ北斗七星の位置を確認する。本来の望気術なら、北から南側の風景を眺めて「景気」を探るのだが、それだと仕事の依頼主が信奉する妙見神、すなわち北斗七星の位置が視界に入らない。
古くから妙見神と習合している北斗七星は、春を迎えたいまの時刻、ちょうど北辰の左手に見えており、方位盤で確認すると「戌(いぬ)」と「子(ね)」の間、「亥(い)」の方角に7つの星々が光っていた。彼女は方位盤を置くと、やや腰を落としながら、両手を円を描くように頭上に高くあげたあと、手のひらを「亥」の方角にかざして目を閉じ、両目の間に「気」を集中する。そして、全身から眉間に「気」が満ちみちたと感じた瞬間、そっと目を開いて北斗七星の真下の地域を注視した。
すると、その方角に初めて光の柱が2本、地上から空へ向けてぼんやりと伸びているのが望見された。しばらく見つめていると、左手の光柱に向けて流星がひと筋、落ちていくのを瞬間的に観察することができた。彼女が気を抜いて大きく息を吐きだすと、たちまち光の柱は消えてなくなり、もとの夜空へともどっていた。
巫は、別に五大金属が眠る鉱脈を、東京の北側に探していたわけではない。彼女が使った望気術は、近世に入り占星術や方位学などと習合し、鉱脈ならぬ「運気のいい地域や地脈、あるいは好気の方角を規定する」ための巫術のひとつになっていた。彼女は依頼者に報告できるよう、その方角に該当する最新の参謀本部地図Click!を参照して、光の柱が立つように見えたあたりを調べはじめる。およそこのあたりと地図に印をつけた地域へ、翌日、助手たちを調査に派遣すると、ほどなく彼らは期待どおりの成果を持ち帰った。
北斗七星の真下、左手に見えた光柱のあたりには、古くから妙見山Click!と名づけられた丘のあることがわかった。古えの昔から、星降る山として妙見山は知られており、流星が降ったのも必然のようだ。落合村の葛ヶ谷と呼ばれる地域で、千川分水(落合分水)Click!の西側にそそり立っている山だ。また、右手に見えた光柱のあたりには、高田村雑司ヶ谷の法明寺Click!つづきの鬼子母神Click!の境内があり、その本堂の真裏には妙見社の奉られていることが判明した。法明寺によって妙見堂の妙見菩薩と神仏習合がなされているが、鳥居が残る明らかに妙見神を奉った古えからの妙見社だ。その2点間の距離は、ほぼ2.80kmほどだ。巫は、東京の広域地図を広げると2点間に迷わず直線を引いた。
次に、自身が方位盤を手に望気術を行なった赤坂氷川明神社Click!へ、2点から直線を引いて細長い三角形を形成した。出雲Click!に由来する赤坂氷川社の主柱にも、北斗七星と関連の深いスサノオと神田明神社Click!と同様にオオクニヌシが奉られている。だから、望気術をほどこす起点に選んだわけだが、こうして地図上の図形を見ると、「亥(い)」の方角に北斗七星との関連が深いふたつのメルクマールが近接してあるのも、まちがいなく必然なのだろう。彼女はそう確信すると、落合村葛ヶ谷の妙見山と高田村雑司ヶ谷の妙見社の間に引いた線の中間点、落合の妙見山から東へ1.4km、雑司ヶ谷の妙見社からも西へ1.4kmのところに☆点をふり、☆点から直線を一気に赤坂氷川社まで引き下ろした。
この長大な三角形、いわば北斗七星=妙見神による結界の中を通る中心線、この線上であればどこへ屋敷を新築して転居しても、運気は上がりこそすれ下降することはないだろう。巫は地図を折りたたむと、この屋敷の主人と会見したい旨を家令に告げた。彼女が逗留している屋敷とは、赤坂氷川明神社の南隣り、江戸期には相馬藩中屋敷だった敷地へ明治以降に建っている、赤坂今井町40番地(現・六本木2丁目)の相馬順胤Click!邸だった。やがて、その中心線上には下落合の未開発地だった御留山Click!がひっかかっているのを、相馬家の誰かが発見して当主に進言した……。
……と、見てきたようないい加減なことを書いてきたが、赤坂の相馬邸が下落合へと移転するに際して、たとえばこのような巫術が行われた可能性は高いと考えている。あるいは順序が逆で、近衛家より売りに出されていた下落合の御留山について、巫に占術の側面から運気の“ウラ取り”調査を依頼したとも考えられる。
以前は、おもに神田明神を中心とする出雲社と妙見山つながりの、レイラインにもとづいた巫術Click!について想定してみたが、今回はまったく異なる角度から相馬邸の下落合転居を探ってみた。東京の西北部に、妙見神の事蹟が残るのは上記の2ヶ所に限られ、江戸期に相馬藩中屋敷を建設する際に重要だった、北面の赤坂氷川社を起点にして形成される三角形(結界)の中心線上に、偶然か必然か下落合の御留山が位置することになる。
ここに書いた望気術は、すでに鉱脈発見の手段として用いられていた時代から変質し、地脈や地味、地中から湧きでる「好気」をとらえる、方角や風水などと混然一体となった、より人々の生活に密着した巫術として想定してみた。明治末の東京は、いまだ住宅群には埋もれてはおらず、高所に立てばかなり遠くまで見わたせたはずだ。北斗七星が「亥」の方角にかかるには、もう少し季節を春爛漫の時期に近づけたいが、とりあえず生命がいっせいに芽吹く弥生3月の末に設定している。
このような巫術の成果を踏まえ、1915年(大正4)に下落合の御留山に邸が竣工すると、相馬家は赤坂をあとに転居してきているのではないだろうか。そして、邸敷地の丑寅(うしとら)の方角、すなわち鬼門に太素神社(妙見社)を遷座して奉っている。
さて、以前の記事で相馬邸の七星礎石Click!に加え、同邸の主屋根が北斗七星を模したかたちに並んでいたことにも触れていた。その際、北斗七星の“尾”は南西の方角、つまり御留山の谷戸のほうへ向いているように解釈していた。だが、もうひとつ別の、ちょっと怖しい配列も想定できることに気がついてしまった。それは、母家Click!(相馬順胤邸→相馬孟胤邸Click!)の二階建てを含む大屋根の配置に、玄関からすぐの客間があった2階の応接棟の屋根を含めると、武具蔵Click!の北側にある相馬惠胤Click!邸をへて、太素社(妙見社)へと抜ける北東の方角につづく“尾”だ。
つまり、この想定の場合、北斗七星のもっとも不吉な“尾”の先、太素社(妙見社)=「破軍星」が指している方角は、以前の未申(南西)の方角=裏鬼門の想定とは正反対の丑寅(北東)の方角ということになる。そして、その破軍星が向く先にあるものといえば、相馬邸が竣工した1915年(大正4)の時点では近衛町Click!が開発される以前、近衛篤麿邸Click!(同時代の当主は近衛文麿Click!)の母家ということになる。
これは、将門相馬氏が近衛家(藤原氏)へ仕掛けた、ひそやかな呪術の一種だろうか。母家の主屋根のかたちも、見方によっては木・火・土・金・水の互いの相克を表す魔除けの五芒星(魔方陣=☆印)のようにも見える。わたしの妄想は、空中写真と地図を眺めながら、どんどんふくらんでいく。そして、のちに太素社がその写真などから相馬邸敷地内を移動(再遷座)しているとみられるのは、近衛町が開発されて以降、近衛邸Click!がかなり北寄りの位置(下落合436番地)に移転しており、この呪術が意味をもたなくなったからではないか。
◆写真上:赤坂区今井町40番地にあった、現在は米国大使館の宿舎が建つ相馬邸跡。
◆写真中上:上は、江戸後期の山師マニュアル『山相秘録』に描かれた「金精図」。(加門七海『黄金結界』より) 中上は、赤坂の相馬邸に隣接していた赤坂氷川明神社。中下は、1861年(万延2)に作成された尾張屋清七版「今井谷六本木赤坂絵図」に掲載された相馬藩中屋敷。下は、雑司ヶ谷鬼子母神の真裏にある妙見社。江戸期の神仏習合から「妙見菩薩」とされているが、鳥居が保存された形態は明らかに妙見社だ。
◆写真中下:上は、落合町葛ヶ谷(現・西落合)の妙見山を南斜面から見あげたところ。中は、相馬邸が下落合から中野広町へ転居したとき御留山へ大量に残された七星礎石の1組。下は、葛ヶ谷妙見山と雑司ヶ谷妙見社を結んだ直線とその中心点。
◆写真下:上は、、赤坂氷川社(相馬邸)との間に形成される長大な三角形の七星結界。中は、下落合の相馬邸敷地へ遷座した太素社(妙見社)。下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる御留山の相馬邸。主要な屋根を結ぶと、いろいろ妄想できて楽しい。