Quantcast
Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1249

吉行エイスケと結婚した原因はパンデミック。

$
0
0
公楽キネマ跡2.JPG
 昨年(2021年)の5月、日本経済新聞の『私の履歴書』に女優の吉行和子が、1ヶ月間にわたって吉行一家のことや仕事の思い出を執筆している。その過程で、上落合にあったとみられる吉行あぐりが経営したバー「あざみ」Click!の話が、母親か兄の淳之介あたりから聞かされた逸話として登場するかと期待したが、残念ながら東京での生活はすぐに美容院時代のエピソードへと推移してしまった。
 吉行あぐりが、吉行エイスケと結婚する要因になったのはパンデミック、すなわち1917年(大正6)ごろから1920年(大正9)ごろまでの約3年間にわたり全国で大流行した「スペイン風邪」Click!だった。そのときの状況を、2021年5月1日発行の日本経済新聞(朝刊)に掲載された、吉行和子『私の履歴書①』から引用してみよう。
  
 もう一つ、母からよく聞いた話をする。私は「スペイン風邪」の流行のおかげで生まれたともいえるらしい。/およそ100年前にスペイン風邪(インフルエンザ)が世界で大流行したことは、昨年来、新型コロナウィルスが問題になる中で、よく知られるようになった。一方、101年前の1920年、母あぐりの父と2人の姉が、スペイン風邪で相次いで亡くなった。この死がなければ、15歳の母が父に嫁ぐことはなく、私も、兄も妹も生まれていなかった。
  
 わたしは祖父母の時代からの“ことづけ”として、関東大震災Click!にまつわる伝承については両親からずいぶん聞かされたが、「スペイン風邪」がわが家に及ぼした影響についてはあまり聞いたことがない。祖父母の世代が、関東大震災では復興へ向け互いに協力しあいながら努力した印象が強いのに対し、パンデミックに対してはあまりにも無力で、子どもたち(父母たち)へ話したがらなかったせいなのかもしれない。
 吉行エイスケは、アナキズムと文学に傾倒してまったく家族や生活をかえりみず、吉行和子にいわせれば「あまりに自由人すぎた」性格だった。結婚して子どもでも生まれれば、少しは落ち着くだろうと考えた彼の父親は、いまだ少女のあぐりと結婚させたのだが、岡山で子どもが生まれるとすぐに妻子を放りだして、ひとりでさっさと東京へ出奔してしまう始末だった。女学校へ通わせてくれるという約束で結婚した15歳のあぐりだったが、子育てに追われてそれどころではなくなった。
 1935年(昭和10)8月に長女(和子)が生まれると、今度こそ家庭が円満にということで、家族に「和」をもたらす子という願いをこめて、祖母は「和子」と名づけたそうだ。だが、吉行エイスケの家族や生活をかえりみない性格は変わらず、まったく働こうとはせずに東京へいったきりになった。エイスケの父親は、市ヶ谷駅前に100坪の土地を買って与え、それで見こみのない息子とは縁を切ったとされている。
 吉行エイスケが、外でどのような仕事(?)をしていたのか、家族はほとんど知らなかった。吉行和子は、父親が雑誌を編集して各地の書店へ持ちこんでいたのを母親から聞かされているようだ。ただ、それも仕事だか趣味だかわからないような内容のものだった。2021年5月3日発行の同紙に掲載された、吉行和子『私の履歴書②』から引用してみよう。
  
 エイスケが何をしていたのか、すべては分からないが、一つには「売恥醜文」という名の雑誌を作って、各地の書店に持ち込んで置いてもらっていたようだ。タダイストの作家と呼ばれた父の文章は前衛的でトンガっていて、気楽な読み物とは少し違うものだった。/家族のことはほったらかしだったエイスケだが、あぐりの美容院のお弟子さんたちには人気があった。いつも優しくて、差し入れも持ってきてくれたという。家ではともかく、外ではいい男だったのだろう。
  
 一家が食べていけないので、吉行あぐりは米国から帰国した美容師の山野千枝子Click!に弟子入りして、美容院を開業することになった。父親からもらった市ヶ谷駅前の敷地には、吉行エイスケの友人だった上落合186番地の村山知義Click!が設計した三角の「山ノ手美容院」Click!が建設される。エイスケは文字どおり江戸期そのままの「髪結いの亭主」となって、妻に生活を支えてもらう「自由人」としての基盤が整ったことになる。
日本経済新聞20210501.jpg
吉行エイスケ・あぐり夫妻.jpg
 そんな吉行エイスケの書いたもの、あるいはその生き方や態度に嚙みついた作家がいた。当時は、下落合1986番地の借家に母親とともに住んでいた矢田津世子Click!だ。ふだんは静かで穏和な彼女がめずらしく怒ったのには、なにか特別な理由がありそうだ。彼女が書いた作品に対し、吉行エイスケがなにか見当はずれなケチをつけたか、それとも彼女のカンに触るような行為をしでかしたのかもしれない。
 以前、矢田津世子が1932年(昭和7)発行の「新潮」2月号に書いた、『吉行エイスケ氏』Click!の一部をご紹介したことがある。彼女にしてはめずらしく、ほんとうに怒っているらしい皮肉たっぷりな同作は、本文に「吉行エイスケ」という名前が一度も登場せず、すべて「貌麗はしい王子(プリンス)」としか呼称していない。華やかな外見に似ず、秋田女性らしい質朴剛毅な矢田津世子には、よほど腹にすえかねることがあったのだろう。
 1989年(平成元)に小澤書店から出版された『矢田津世子全集』に収録の、矢田津世子Click!『吉行エイスケ氏』から引用してみよう。
  
 つまり、王子自身の美貌が稀世のものであると同様に、彼のロマンは当然、高貴なダイヤ、(いや、或ひは、誰れもが持つてゐさうもない鐵の光沢であつてもいいが。)でなければならない、と彼は決意しました。自分を特徴づけるといふことは、いかなる時代にも必要なことです。で、王子は、ロマンの方向を一廻転させました。機械が、煙突が、工場地帯が……。また、はるばる舟を仕立てて、隣国をも視察にいくことを忘れませんでした。そして、一層、彼のロマンの色彩は複雑に、隣国支那の動乱や、そこにある工場や、踊り場や、虞美人草のやうなダンサアや……で、賑はつていきました。彼の特徴が完成に近づくと、次に、彼の精力的な感応が別の要求をするやうになりました。折角の才能をロマンに注ぎかけるだけでは勿体ない。より一層偉大なものへ! そして、王子は、その希望どほり、いまや、レビユウ劇場の顧問としてその手腕を振ふことになつたのです。
  
 矢田津世子Click!が、他のテーマで表現するふだんのエッセイ類の、几帳面かつ真摯でやさしい眼差しの文章と比較すると、『吉行エイスケ氏』の文体はほとんど罵倒と同様の表現になるだろう。彼女は、同エッセイの最後に「この童話はほんの序節に過ぎません」と収まらない怒りで書いているので、また怒らせるようなことを書いたり、ヘタな行為におよんだりすれば、「もっと書くから覚悟なさい」と脅している。
 以来、続編は書かれていないので、なにか思い当たるふしがあったらしい吉行エイスケが自重したか、あるいは特高Click!に留置された矢田津世子Click!が身体をこわし、続編を書いている余裕がなくなってしまったのかもしれない。矢田津世子の文章(特に随筆類)にはほとんど目を通しているが、これほど怒気を含んだ文章をほかには知らない。
吉行エイスケ一家(大正末).jpg
上落合東中野1936.jpg
 さて、この記事を書くために資料を漁っていたら、面白い新聞記事を見つけた。1931年(昭和6)8月18日に発行された都新聞で、当時の同紙は「日盛りと女流」シリーズという訪問記事を連載していた。その7回目の記事は、下落合1470番地に建つ「目白会館」Click!の一室に当時は住んでいた、矢田津世子Click!を訪問してインタビューした内容だ。その「日盛りと女流(7)」の冒頭には、記者の言葉で「以前に龍膽寺雄君が此処に居た時分、一度来たことがあるので記者も覚えてゐるアパートだ」と書いている。
 つまり、龍膽寺雄(龍胆寺雄)Click!はまちがいなく下落合1470番地の第三文化村Click!内にあった目白会館に住んでいたことになり、下落合538番地の「目白館」Click!ではなかったことになる。だが、目白会館には屋上庭園は見えないし、また建築は木造モルタル造りの西洋館然とした仕様で、もちろんコンクリート構造のアパートでもなかった。ということは、移り住んだいくつかのアパートの情景を、龍膽寺雄は断片的な記憶同士でつなげてしまい、混同して記述しているのではないか。
 龍膽寺雄が、目白会館についての想い出を書いているのは、1979年(昭和54)に昭和書院から出版された『人生遊戯派』(実際に執筆されたのは前年のようだ)であり、目白会館に住んでいた時代から戦争をはさみ、約50年の歳月が経過したあとのことだ。その時代経過とともに、東京を転々としたいくつかのアパートの情景がいっしょくたになり、記憶に齟齬や錯覚が生じているのではないだろうか。もう一度、改めて『人生遊戯派』を読み直して、目白会館についての記述を再検討してみたいと考えている。
山の手美容院.jpg
吉行エイスケ.jpg 矢田津世子.jpg
都新聞19310818.jpg
 日本経済新聞に2021年5月に連載された吉行和子のエッセイは、劇団民藝や早稲田小劇場、映画、ドラマ、俳句などなど、わたしにとっては後半のほうがかなり面白い証言だった。ネットでもまとめ読みができるので、演劇や映画などに興味のある方へはお奨めだ。

◆写真上:公楽キネマ跡から見た、早稲田通り(正面)と東中野駅へと抜けられる住吉通り(現・区検通り/左手)。美容術を勉強中だった吉行あぐりがママをつとめていたバー「あざみ」は、両通り沿いかあるいは旧・八幡通りClick!のどこかにあった。
◆写真中上は、2021年5月1日~31日まで日本経済新聞に連載された「私の履歴書/吉行和子」の第1回。は、結婚して間もないころの吉行夫妻。
◆写真中下は、大正末ごろに撮影された吉行一家。中央は祖母の吉行盛代で、左の子どもは吉行淳之介。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる多くのタダイストの作家や詩人、画家などを集めていたバー「あざみ」が開店していたエリア。ちなみに上落合503番地には辻潤Click!が、上落合742番地には尾形亀之助Click!が住んでいた。
◆写真下は、市ヶ谷駅前にあった村山知義の設計による「山ノ手美容院」。は、怒りをかった吉行エイスケ()と、怒りを隠さないエッセイを書いた矢田津世子()。は、1931年(昭和6)8月18日に発行された都新聞に掲載の矢田津世子訪問記。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1249

Trending Articles