Quantcast
Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1249

龍胆寺雄の「目白会館」を再度考える。

$
0
0
目白会館跡.JPG
 作家の龍膽寺雄(龍胆寺雄)Click!が、『人生遊戯派』の中で述懐している「目白会館」とは、下落合1470番地の第三文化村Click!に建っていた「目白会館・文化アパート」Click!のことか、それとも彼が描写した「目白会館」の様子が実際の建物の意匠とはかなり異なるので、同じ下落合538番地に建っていた「目白館」Click!のことなのか、「?」マークのままで終えた記事をわたしは過去に二度ほど書いている。
 ところが、前回の吉行エイスケClick!矢田津世子Click!に関連する記事Click!でも引用しているように、1931年(昭和6)の夏、下落合1470番地の「目白会館・文化アパート」Click!に住む矢田津世子Click!を訪問しインタビューした都新聞の記者は、1931年(昭和6)8月18日付けの同紙の記事で「以前に龍膽寺雄君が此処に居た時分、一度来たことがあるので記者も覚えてゐるアパートだ」と記述している。つまり、龍膽寺雄はまちがいなく少し前まで第三文化村の目白会館・文化アパートのほうに住んでいたことになり、目白通りの北側に位置する目白館ではないことが明らかになった。
 そこで、1979年(昭和54)に昭和書院から出版された龍膽寺雄『人生遊戯派』所収の、「私をとりまく愛情」へ頻繁に登場する「目白会館」をめぐる記述と、実際に文化村に建てられた目白会館・文化アパート(以下 目白会館)について、改めてもう一度検討してみよう。以下、同書より「目白会館」が登場する部分を引用してみる。
  
 目白会館は、東京で民営のアパートとしては、確か最初のもので、かれこれ二十室はあるコンクリートの二階建てだった。共通の応接間が二階の中央にあり、その隣りの、六畳と四畳半位の控えの間つきの二間を、私は借りた。/階下に広い食堂があり、別に、共同浴室や玉突き室、麻雀室が付属し、二階の屋上は庭園風になっていた。部屋が満員になったので、二階の中央の共通の応接室を、そのまま洋間として、その頃目白の川村女学院で絵の先生をしていた洋画家の佐藤文雄が、そこに住みついてしまっていた。私の処女出版の、改造社版『アパアトの女たちと僕と』に、美しい装釘をしてくれた。
  
 まず、下落合1470番地の目白会館はコンクリート建築ではない。1938年(昭和13)に作成された「火災保険地図」(通称「火保図」)では、スレート葺き屋根の木造建築として記録されている。また、外壁はモルタル仕様だったのか、太い線で「防火建築」と同様の表現がなされている。この木造モルタル造りの外観を、龍膽寺雄は「コンクリート」造りと勘ちがいしたのだろうか。
 「火保図」は、火災保険の料率算定のための基礎資料として作成されているので、住民の氏名採取ではときどきいい加減なミスが見つかるが、地図の使用目的からコンクリート建築を木造スレート葺き建築として採録してしまうとは考えにくい。
 また、目白会館が東京の民営アパートで最初のものでないことは以前にも記した。
目白会館1936.jpg
目白会館1935-40.jpg
目白会館1938.jpg
  
 引っ越して行った目白会館の、四畳半と八畳と二た間続きの部屋の、八畳のほうの白壁に、初山滋の童画の額縁を掛けようと思って、何気なく、長押の上へ手をやったら、小さな紙片れの折ったのが、その奥に挟んであった。ひろげて見ると、こういうことが書いてあった。/「この部屋には百万円かくしてあります。」/先住者のいたずらだ。
  
 書かれている「白壁」は、コンクリートに白ペンキを塗った壁ではなく、木造建築に多い漆喰壁だろう。その壁の上部に「長押」があることからも、木造アパートであることは想定できるはずなのだが、なぜか何度も「コンクリート」造りと書いている。
 では、龍膽寺雄が木造モルタル造りの建築をよく知らなかったかといえば、彼は同書の「川端康成のこと」の中で、吉行あぐりClick!が経営する村山知義Click!が設計した市ヶ谷駅前の「山ノ手美容院」Click!について次のように書いている。
  
 市ヶ谷見付を見おろす靖国通りのはしの三叉路の角に、吉行エイスケの妻君(ママ:細君)のあぐりさんが美容院を経営しており、そこに村山知義が設計したという、青っぽいモルタル三階造りの、軍艦のような形をした、シャレた建物があって……(以下略)
  
 まるで、見た目がコンクリートビルのような「山ノ手美容院」について、彼は正確に木造モルタル3階建てと観察しているにもかかわらず、スレート葺き屋根の見るからに木造モルタル建築然とした目白会館を「コンクリート」建築だったとするのが解せない。
 確かにモルタルには、防火・耐火のニーズからセメントを混ぜるが、木造モルタル2階建ての建築を「コンクリート」建築とを見まちがえる、あるいはそう呼称するはずがないのは、「山ノ手美容院」の記述でも明らかだろう。
目白会館1944.jpg
龍胆寺雄・安塚まさ夫妻.jpg
龍膽寺雄「人生遊戯派」1979.jpg アパアトの女たちと僕と1930.jpg
 もうひとつ、おかしな記述がある。同書の「私をとりまく愛情」から引用してみよう。
  
 コンクリート建ての、二階の屋上に、屋上庭園のようなものがあり、大きな洋風の共同の応接間や、一階には食堂のほか、浴室、玉突き場、麻雀荘などの設備があった。もっとも、その応接間は、満員でハミ出した洋画家が、アトリエを兼ねて借りてしまっていたので、塞がっていた。この洋画家というのは、目白の川村女学院で絵の先生をしていた佐藤文雄でのちに、改造社から出した私の処女出版『アパアトの女たちと僕と』の装釘をしてくれた。『アパアトの女たちと僕と』は、ここでのアパートの生活からヒントを得て書いた作品で、もちろんフィクションだが、谷崎潤一郎から激賞を受けた。
  
 目白会館に、「屋上庭園」は存在しないと思う。なぜなら、1936年(昭和11)から空襲で焼ける1945年(昭和20)までの、いずれの時代の空中写真を参照しても、「屋上庭園」が設置できるような仕様の屋根には見えないからだ。
 目白会館の屋根は、全体でひとつの主棟(大棟)を形成する大きな三角形をしたスレート葺きで、南向きと北向きの鋭角な屋根面には、2階の部屋の屋根窓(ドーマー)が並ぶ意匠をしているため、ある程度の広さが必要な「屋上庭園」を設けられる平坦なスペースが存在しえない。同建物を上から、あるいは南斜めから見るかぎりだが、2階屋根の主棟(大棟)に連なる2階のドーマーが確認できるだけだ。
 さて、前回の記事でも少し書いたが、龍膽寺雄は下落合に建っていた目白会館と、かつて住んでいた東京の別のアパートでの生活の記憶とが、どこかで錯綜してやしないだろうか。川村学園で絵の教師をしていた洋画家の佐藤文雄との想い出や、目白会館から目白通りをまっすぐ東へ歩いて新目白坂近くの佐藤春夫Click!を1週間に一度訪ねた記憶は確実だとしても、当時住んでいた目白会館の意匠や構造に関する記憶が、コンクリート造りで屋上庭園のある別のアパート(ひょっとすると民営アパートとしては東京で最初のものといわれていた建物?)と、ゴッチャになっているのではないだろうか。
 龍膽寺雄が目白会館にいたころから、1979年(昭和54)に『人生遊戯派』が書かれるまで(実際には1978年に執筆されたらしい)約50年の歳月が流れている。彼は1928年(昭和3)6月から1930年(昭和5)6月ごろまでの2年間、下落合の目白会館に住んでいるが、彼が転居した直後に屋根が改装されて屋上庭園がなくなった……とも考えにくい。当時、目白会館は建設されて間もない時期であり、矢田津世子Click!が入居したころでさえ、いまだ新築に近い状態だった。龍膽寺雄の記憶における齟齬、とみるのが自然だろうか。
龍胆寺雄太陽199906.jpg
矢田津世子1931.jpg
矢田津世子(目白会館にて).jpg
 あるいは、こうも考えられるだろうか。龍膽寺雄は「目白会館で最初に書いた作品が、『アパアトの女たちと僕と』だった」と同書で書いている。そして、この作品に登場するアパートはコンクリート建築であり、2階上には住民たちが集える屋上庭園が存在している。小説家にはありがちだというが、自身の創作で想像した情景と、現実の情景の記憶とが約50年の時間経過とともに、期せずして融合してしまったのではないか。いつか、「全身小説家」Click!井上光晴Click!について書いたことがあるが、彼も創作と現実の境目が徐々に曖昧となり、自身の創作上の想像を現実にあったことのように語りはじめている。

◆写真上:目白会館跡に建っていたアパートだが、現在は解体されて存在しない。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる目白会館と、1940年(昭和15)ごろに南斜めフカンから撮影された同館。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」に採取された同館。(ス)は木造スレート葺きで、太線は木造モルタル(防火)建築を意味している。なお、コンクリート建築は太線と細線の二重線で表現される。
◆写真中下は、空襲の前年にあたる1944年(昭和19)に撮影された目白会館。は、ダンスをする龍膽寺雄・安塚まさ夫妻だが室内の様子は目白会館ではない。は、1979年(昭和54)に出版された龍膽寺雄『人生遊戯派』(昭和書院/)と、1930年(昭和5)に出版された龍膽寺雄『アパアトの女たちと僕と/その他』(改造社/)。
◆写真下は、1999年(平成11)発行の「太陽」6月号の表紙になった龍膽寺雄。は、1931年(昭和6)8月18日発行の都新聞に掲載された目白会館の矢田津世子。転居して間もないころで本箱がなく、多くの本が床面に重なって置かれている。窓にはカーテンが吊るされているが、白壁の下は畳敷きだったのがわかる。は、同じく目白会館の矢田津世子。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1249

Trending Articles