近衛町Click!の夏目利政Click!がプロデュースしたとみられる薬王院墓地Click!の西側、アトリエ建築が建ち並ぶ下落合のアトリエ村Click!とでもいうべき区画に住んでいた人物に、帝展の洋画家・有岡一郎Click!がいる。以前、1926年(大正15)に西坂Click!の徳川義恕邸Click!(旧邸)を描いたと思われる『初秋郊外』Click!をご紹介していた。
彼のアトリエがある同じ下落合800番地の住所には、中村彝Click!とのつながりで鈴木良三Click!と鈴木金平Click!が(関東大震災Click!直後の鈴木良三アトリエでは中村彝Click!も避難生活をしていた)、下落合803番地には柏原敬弘Click!が、下落合804番地には鶴田吾郎Click!と服部不二彦Click!がアトリエをかまえていた。また、同区画から100mと離れていないすぐ北側に位置する村山知義・籌子夫妻Click!が仮住まいしていた下落合735番地のアトリエClick!や、片多徳郎Click!が借りていた下落合596番地のアトリエClick!も、大正期の画家仲間つながりで夏目利政による仕事なのかもしれない。
洋画家・大澤海蔵Click!の証言によれば、下落合では親しかった同じ帝展仲間の松下春雄Click!とともに、西坂の徳川旧邸を描いたとみられる『初秋郊外』と同年、1926年(大正15)に有岡一郎は『或る外人の家』と題するタブローを、第1回聖徳太子奉賛会美術展に出品している。(冒頭写真) おそらく、下落合を散策して見つけた風景を写生している作品だとみられるが、大正末の当時、下落合でこれだけの敷地と広壮な西洋館をかまえていた外国人の屋敷は、たった1邸しか思い浮かばない。
六天坂Click!あるいは見晴坂Click!の両坂を上りきった丘上に、広大な屋敷地を占有していたドイツ人のギル(Gill)邸だ。西坂の徳川邸から、西へ400mほどのところに位置するオシャレな西洋館で、当時はギル夫人と呼ばれた日本びいきの女性が住んでいた。金髪をあえて黒髪に染め、着物姿で出歩いていたギル夫人について、竹田助雄Click!が書いた1966年(昭和41)9月10日発刊の「落合新聞」第40号の記事から引用してみよう。
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大原には大正末期から箱根土地が目白の文化村を造成、戦後の各所につくられる文化村とちがって高度の文化住宅がつくられ、東京の名所として一躍有名になった。この文化村の独逸人のギル夫人などは髪を黒く染め、和服にて、歩き方まで内股で大へんな親日家。わざわざ黒髪を赤くそめ、膝小僧のみえる短いスカートで闊歩する現代娘、四十年の流れはこんなに変るものかとつくづく感じ入る。
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竹田助雄は、ギル邸を「文化村」と表現しているが、目白文化村Click!の第二文化村から東南東へ400mほど離れたところにギル邸は位置している。
ギル邸は、1921年(大正10)ごろ下落合1751~1754番地に建てられたとみられ、当初は別荘として使われていたのかもしれない。少しあと、1923年(大正12)にはすぐ敷地の南側に接して、独特なスパニッシュ建築の中谷邸Click!が建設されている。中谷邸では、ギル夫人から譲ってもらった黄色いモッコウバラClick!をたいせつに栽培しており、5月のいまごろには花を咲かせているはずだ。
『或る外人の家』の画面を観察すると、ファサードを門や車寄せのある六天坂筋の西側に向け、南側に拡がる広大な庭園に面して建っていたギル邸を想定することができる。外壁は、下見板張りかモルタルなのかはハッキリしないが、南側にある大きな暖炉の煙突は、そのままのちの津軽邸へ引き継がれているとみられる。庭園の葉を落とした樹木や変色した草木、空の様子などから秋も深まった時期だろうか、ギル夫人が好きだった多種多様なバラは、季節外れのせいか画面には描かれていない。南側(右手)から強い陽光が射しこみ、澄んでやや冷ややかな空気を感じさせる清々しい画面だ。
手前右手には、六天坂側の低い塀沿いに庭園へ抜ける庭門が描かれ、植木職人によく手入れされていたとみられる、丸く刈りこまれた低木が見えている。有岡一郎は、六天坂を上がりきったあたりから東北東を向いてギル邸を描いており、画角の右手枠外には美しいスパニッシュ風のファサードを画家のほうに向けた中谷邸Click!が、六天坂に面して建っていると思われる。第1回聖徳太子奉賛会美術展は、1926年(大正15)5月の開催なので、『或る外人の家』は前年の1925年(大正14)の秋に描かれている公算が高い。
また、有岡一郎は松下春雄と連れだって『初秋郊外』を描いた可能性が高く(松下春雄は西坂の徳川旧邸を『赤い屋根の家』と題し水彩で制作している)、ひょっとすると松下春雄の作品にもギル邸を描いた画面が「赤い屋根」シリーズClick!の中に混じっているのかもしれない。ただし、松下の同シリーズはいまのところ図録や画集のモノクロ写真でしか見ることができず、ハッキリと邸の姿を確認できないのが残念だ。
さて、1935年(昭和10)ごろになると、ギル夫人は転居あるいは帰国したものか、ギル邸の敷地は屋敷ごと華族の津軽義孝が買収している。そして、築15年ほどの西洋館をリノベーションし、そのまま活用して住んでいたようだ。地元では、昭和初期にギル夫人の屋敷がいつの間にか津軽邸に変わっていたという証言が残っているので、外観はギル邸の面影を残しつつ内装を大きく変えていったのではないだろうか。もし、ギル邸を解体して新たに大きめな屋敷を建設していれば、地元に新邸建築の情景記憶がしっかりと残るはずだからだ。
ギル邸が、いつの間にか津軽邸に変わっていた様子を、1992年(平成4)に出版された名取義一『東京・目白文化村』(私家版)収録の証言から引用してみよう。
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“落合一小”の西側に谷があり、右側近くに「箱根土地」の建物が見えた。で、この校舎の西側奥に一入目立つ洋館があった。/星野邸や神田家辺からは、東方へ二、三分歩くと、当時、雑草だらけの空地が多く、子供の足では歩き悪く、その杜の中にこの洋館があった。/大人たちは「あれは外国人が、ギールさんが住んでいる」と言っていた。/それが知らぬ間に「津軽義孝伯爵が住んでる」ということになった。陸奥・津軽藩主は、代々のうちよく養子を迎えたが、この義孝氏も大垣・徳川家から入ったのである。氏は徳川義寛・侍従長の実弟、同義忠・元陸軍大尉、また北白川女官長の実兄に当る。
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この証言は、名取義一が落合第一尋常小学校Click!の生徒だった時代のことで、おそらく「ギールさん」の記憶は1927年(昭和2)から1929年(昭和4)にかけてのころ、小学校の高学年になってからのものだろう。ギル邸が津軽邸に入れ替わった時期はピンポイントで規定できないが、1933年(昭和8)出版の『落合町誌』(落合町誌刊行会)には、いまだ津軽義孝の名前が見えないので、1935年(昭和10)前後の出来事ではないかと思われる。
大垣・徳川家とは姻戚関係にある津軽家だったので、西坂の徳川邸からほど近い場所に転居してきていると思われる。このとき、ギル邸の下落合1751~1754番地だった敷地だが、東京35区制Click!の施行により津軽邸は下落合3丁目1755番地の住所へと変わっていた。そして、1936年(昭和11)の空中写真を見ると、母家の東側にもうひとつ母家よりも小さめな建物が、新たに建設されているのがとらえられている。また、南の広大な庭園には、見晴坂に沿って独立した建造物が建てられている。
また、1938年(昭和13)に作成された「火保図」、および空襲直前の1945年(昭和20)4月2日に米軍の偵察機F13によって撮影された空中写真を参照すると、東側の小さめな建物とは母家つづきに改築されており、さらに北側にも母家つづきの建物が大幅に増築されている様子が見てとれる。また、見晴坂沿いには南北に細長い建物(大温室Click!だろうか?)が確認できる。津軽邸は、1945年(昭和20)の山手大空襲Click!で焼失してしまうが、最後に確認できる邸の姿は、ギル邸の時代よりもはるかに巨大な大屋敷に変貌していたのがうかがえる。
昭和初期、六天坂を上ると右手の丘上には、中谷邸の鮮やかなオレンジの屋根が見えはじめ、丘を上りきると今度はその背後に、ギル邸のオシャレな西洋館と数々のバラが咲きほこる広大な庭園が姿を見せる……。一度、その時代へタイムスリップして見たいものだ。中谷邸は空襲からも焼け残ったにもかかわらず、津軽邸の全焼したのが残念でならない。
◆写真上:1926年(大正15)5月に開催の第1回聖徳太子奉賛会美術展に出品された、六天坂上のギル邸を描いたとみられる有岡一郎『或る外人の家』。
◆写真中上:上は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる大きなギル邸。中は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみるギル邸。下は、1930年代後半に撮影された斜めフカンの写真にみる津軽邸(旧・ギル邸)と描画ポイント。
◆写真中下:上は、『或る外人の家』の部分拡大。中は、1936年(昭和11)の空中写真にみる津軽邸。下は、津軽邸(旧・ギル邸)の南庭から母家跡を眺めたところ。
◆写真下:上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる津軽邸で、かなり増築が進んでいるのがわかる。中は、空襲直前の1945年(昭和20)4月2日に撮影された津軽邸。周囲には、アマリリスジャムClick!で有名な見晴坂の相馬正胤邸や、演出家の浅利慶太邸Click!が見える。下は、スパニッシュ風の意匠が美しい津軽邸(旧・ギル邸)の南側に残る中谷邸。
★おまけ
有岡一郎が松下春雄とともに、盛んに下落合を散策して風景画を描いていた1925~1926年(大正14~15)ごろ、それを追いかけるように「下落合風景」シリーズを描きはじめた画家に佐伯祐三Click!がいる。下は、1926年(大正15)9月22日に制作された『下落合風景/墓のある風景』だが、薬王院墓地の大正期に造られたままの塀の道路をはさみ反対側(右手)が、まるで「アトリエ村」のような下落合800番台の区画だ。有岡一郎が、下落合に建つ大きめな西洋館や大屋敷を好んで描いているのに対し、佐伯祐三はまったく正反対の工事中・造成中・開発中だった「キタナイ」地域のモチーフが多い。