東京の住宅街を歩いていると、昔のマーケットに出あうことがある。マーケットとは、ひとつの大きめな建物に複数のテナントが入り、そこで買い物をすればたいていの食品や日用品がそろってしまうことから、当時はとても便利な施設だったろう。
落合地域やその周辺域にも、大正期から現在の中井駅前にあたる位置に設置されていた下落合市場Click!をはじめ、昭和初期には旧・月見岡八幡社Click!の向かいにあった上落合市場Click!、下落合から目白通りを越えた長崎バス通り沿いにあった、ヨーロッパの古城のような意匠の長崎市場Click!、そして目白駅前には川村学園Click!の女子学生たちが運営する喫茶店Click!などが入り、小熊秀雄Click!が描いた同じく古城のようなデザインの目白市場Click!などが目にとまる。これらの公営市場の多くが、大正期の米騒動をきっかけに東京各地へ設置された経緯についてはすでに書いた。
これらの施設は、マーケットとは呼ばれずに訳語の「市場」と名づけられていたが、東京市や東京府などが運営する公営のものが多く、時代をへるにしたがい私営のマーケットも増えていった。マーケット(市場)が、いくつかの商店が応募する個人店舗の集合体で運営されていたのに対し、戦後になると鉄道会社や百貨店など大手企業が設立し、食品から日用雑貨、衣料品まで生活に必要なありとあらゆる商品をそろえる、大型のマーケットが出現する。マーケット(市場)を超える大規模な流通施設ということで、超市場(スーパーマーケット)と呼ばれるようになった。
わたしが子どものころ、近所にはスーパーマーケットとマーケットの双方があったが、母親はスーパーマーケットのほうをよく利用していた。おそらく、個人商店の集合体であるマーケット(市場)よりも、大量仕入れのスーパーのほうが安かったからだろう。わたしの学生時代には、目白通りや椎名町駅の近くには大型スーパーが、長崎バス通りの入口や少し入ったところには昔ながらのマーケットがあったが、利用率は半々ぐらいだったろうか。
肉や調味料、加工食品などはスーパーで、魚や野菜、できたての惣菜類はマーケットで買っていた憶えがある。おしなべて、マーケットは新鮮な素材食品に強く、スーパーはあらゆる食品をそろえた種類の豊富さで集客していたようだ。また、スーパーは夕方ともなれば近所の人々で混雑していたが、マーケットはそれほどでもなかったので、当時からマーケットは大型スーパーに押され気味だったのだろう。空いているマーケットでは魚介類を買い、その日のうちに調理して食べていた記憶がある。
買ってきた肉や野菜は、いっぺんに茹でたり炒めたり、味つけをしたりして冷凍庫に入れて凍らせストックしておくと、あとあと料理の手間が省けて便利だった。また、冷蔵庫の中でいつの間にか腐ったり、野菜が溶けだしたりする心配もなく、日もちもよかった。貧乏学生は、できるだけ外食を控えるのが生活の鉄則だったのだ。
凍らせた肉や野菜は、小出しにして溶かしては調理したり、味のついている肉などはそのままフライパンで野菜と炒めたり、改めて鍋で煮なおしたりして食べることになる。電子レンジはすでに当時からあったが、とても高価で学生には買えなかった。アルバイトで稼いだおカネは、電子レンジなどに消費するよりも、レコードや本、少し貯めてオーディオ装置Click!などにつかいたかった。料理が面倒なとき、よくマーケット(市場)へ寄っては刺身や出来あいの惣菜を買ってきて、飯だけ焚いては食べたものだ。
先日、箱根土地Click!が目白文化村Click!を開発した直後、下落合の姻戚つながりで1925年(大正14)から開発に着手した東大泉村一帯=練馬区の大泉学園Click!を散策していたら、昔のマーケット(市場)のような施設を見つけた。すでに、いくつかの店舗はシャッターを閉めて廃業しているようだが、歩道に面したクリーニング店のみは営業をつづけているようだ。すでに看板の文字も朽ちかけているが、かろうじて「西武名店ストア」と読めるので、大泉学園の住民をターゲットに西武鉄道が戦後に設置したマーケットだろう。
大泉学園は、大規模な開発計画にもかかわらず、販売から20年ほどたった1941年(昭和16)6月の段階でも、いまだ駅の北側に小規模な住宅街が形成されているにすぎなかった。空中写真を年代順に見ていくと、戦後すぐの1947年(昭和22)の写真では住宅街が北へ伸びはじめ、1960年代になると当初の開発予定地はほぼ住宅で埋めつくされている。そして、1963年(昭和38)の写真では「西武名店ストア」の敷地は空き地だが、1965年(昭和40)の写真には同マーケットがとらえられている。つまり、「西武名店ストア」は1963年(昭和38)から1965年(昭和40)までの2年間のどこかで開業したものだろう。
大泉学園の住宅街は、駅から北側へ細長く伸びているため(当初の計画では北側全体を開発する予定だったが、西側半分の住宅地を開発し終えたところでストップしている)、駅から遠い住民たちの便宜を考え、北寄りの敷地に住宅敷地がほぼすべて埋まったた段階で、いくつかのテナントが入った「西武名店ストア」を開設しているのだろう。グリーンのオーナメントには、「鮮魚/精肉/青果/豆腐」と書かれているので、クリーニング店も含め少なくとも5店舗以上が入居していたと思われる。
わたしが学生時代、学校の帰り道で利用していたマーケットも、鮮魚・精肉・青果が中心だったので同じような店舗構成だったのがわかる。鮮魚店では注文に応じて魚をおろし、すぐに食べられるよう刺身にして売っていただろうし、精肉店では惣菜となるトンカツやコロッケ、メンチカツなどを揚げていただろう。北側の住宅から、大泉学園の駅前に形成された商店街へ出かけるには、片道でも600~700mは歩かなければならず、「西武名店ストア」の存在は周辺住民にしてみれば便利だったにちがいない。
さて、「西武名店ストア」から西へ白子川に架かる東西橋をわたると、わずか100mほどで牛乳を生産する小泉牧場に着く。1935年(昭和10)創業の、乳牛ホルスタインClick!を40頭ほど飼育する、いまや東京23区内で唯一残る「東京牧場」Click!だ。近年、ここで搾られた牛乳をもとに、さまざまな風味のアイスミルク(アイスクリーム)×6種類が作られて好評だったが、新型コロナ禍の影響で製造を中止してしまったのが残念だ。2022年4月の時点でうかがったところ、製造再開のめどは立っていないという。
大手乳業メーカーと提携しているので、ほとんどの搾乳はそちらへまわしてしまうのだろうが、戦前は落合地域と同様に、大泉学園の住宅街にも殺菌消毒Click!した搾りたてのミルクを販売する牛乳店(ミルクスタンド)があったのではないだろうか。明治以降、膨大な軒数の「東京牧場」Click!が市街地近郊で操業していたし、練馬区だけでも戦前は20軒を超える牧場が存在したが、いまでは小泉牧場のみとなっている。
住宅街が押しよせてくると、「東京牧場」Click!は郊外へ郊外へと市街地から離れていった。関東大震災Click!のあとはもちろん、特に1932年(昭和7)に東京35区制が施行されて以降、郊外における宅地開発には拍車がかかり、牧場は周辺住民にとっては邪魔な存在となっていく。その様子を、1990年(平成2)に発行された『ミルク色の残像』(豊島区教育委員会)収録の、「消えゆく東京牧場」から引用してみよう。
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この背景には、東京市域そのものの住宅地化の進展が大きく作用している。東京の牧場ならではの光景である住宅地の中の牧場は、「臭い」「汚い」などと周辺の住民の不評を買うようになり、さらに郊外への移転を余儀なくされる。先に紹介した巣鴨の吉川牧場がその典型であり、西巣鴨→板橋→埼玉県戸田市と移転を繰り返し、牧場経営を続けた。また、一方では、後継者を得られずにそのまま経営にピリオドを打つ牧場も多かった。牧場はその形からも、非常によい住宅地の供給源になったとの話しも残されている。
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文中の「住宅地の供給源」となった牧場としては、牧草地がそのまま郊外住宅の「籾山分譲地」になった、籾山牧場Click!がもっとも知られていただろうか。
小泉牧場が、練馬区の住宅街に残ったのは、地域に密着した経営方針をとったからだ。先のアイスミルクの製造販売もそうだが、牧場を見たいという訪問者を拒まず、できるだけ牛舎を衛生的に整備して見学客を受け入れている。わたしが訪れたときも、アイスミルクが製造中止だったのは非常に残念だったが、「ご自由に見てください」と小泉さんにいわれた。
もうひとつ、周辺の小学校と連携して牛乳の生産現場を子どもたちに見せる、社会見学のコースに含めたことで、より親しみを感じる牧場として地域に根づいたのだろう。スーパーの牛乳パックしか知らない子どもたちには、とても印象的な搾乳体験だったにちがいない。
◆写真上:箱根土地が開発した大泉学園に残る、マーケット形式の「西武名店ストア」。
◆写真中上:上は、昭和初期(1935年前後)に撮影された古城のような意匠の目白市場(背後)。中は、1930年代に描かれた小熊秀雄『目白駅附近』(部分)。下は、昭和初期に撮影されたやはり古城のようなデザインの長崎市場(背後)。
◆写真中下:上は、1930年代に描かれた小熊秀雄『青果市場(上落合)』Click!。いわゆるマーケットではなく、上落合にあった青果専門の簡易市場だったようだ。中は、長崎バス通りに残る山政マーケットClick!。下は、1975年(昭和50)撮影の大泉学園。
◆写真下:上は、創業から6年目の1941年(昭和16)6月25日に撮影された空中写真にみる小泉牧場。下は、小泉牧場の外観と飼育されている乳牛ホルスタイン。
★おまけ
少し前に、家の玄関先へやってきた2m超のアオダイショウClick!をご紹介したが、上落合でも健在のようだ。上落合で育つ、アオダイショウの赤ちゃんの写真を送っていただいた。