大正初期に誕生した日本活動写真株式会社(略して「日活」)と、それを追いかけて国際活映株式会社(略して「国活」)、演劇界を席巻していた「松竹」、そしておもに米国映画を配給する「大正活映株式会社(略して「大活」→のち「松竹」に吸収)などが群雄割拠していた大正期、これらの映画会社からは大量の無声映画が生産されていた。
当時の映画は、そのほとんどが芝居(歌舞伎)や新派の舞台をフィルムに写しただけのような作品が多く、出演する俳優たちも映画俳優というよりは舞台俳優がほとんどで、新しいメディアである映画独自の世界をいまだ形成できずにいた。映画の草創期は、欧米でもまったく同様に舞台劇をフィルムに写したような作品が多かったが、それでは満足できない表現者たちがあちこちで出現してくる。
特にヨーロッパでは、演劇舞台の代用品ではない映画ならではの表現が追求され、その流れが観客のニーズともマッチしていたため、映画だからこそ表現できる独自の物語(シナリオ)の制作へと向かっていった。出演俳優たちも、舞台俳優ではなく映画会社が養成した映画俳優が次々と登場し、舞台劇をしのぐような演劇集団として成長していった。
でも、日本では芝居人気や役者の知名度が高かったせいか、なかなか映画オリジナルの作品群が生まれず、相変わらず「芝居映画」や「新派映画」が作られつづけていた。ただし、あとから映画へ進出してきた松竹は、映画に登場する女性を歌舞伎の女形(おやま)Click!ではなく、女優を育てて起用するという手法を採用している。この手法は大成功を収め、人気女優が出演するだけで映画館は超満員となり、松竹蒲田の女優たちは映画ファンの人気をさらっていった。それを見た日活も、従来の女形(おやま)が活躍する京都撮影所の芝居路線を排し、映画専門の女優の育成に注力しはじめている。
松竹は、さらに競合相手の日活を引き離すために小山内薫Click!を顧問に迎え、芝居や新派とは異なるモダンな新劇ふうの映画作品を生みだしていった。大活もまた、それを追いかけて「映画は初めから映画劇の形式で」を合言葉に、次々とモダンな作品を制作している。大正期も後半に入り、日本ではようやく旧演劇の表現とは縁を切って、純粋な映画のためのシナリオや表現が追求されるようになっていった。
当時の映画はサイレント(無声)映画で、日本で初めてトーキー(発声)映画が一般に公開されるのは、1931年(昭和6)に制作された松竹蒲田の『マダムと女房』(監督・五所平之助)とされているが、松竹では実験的に小山内薫による『黎明』が、すでに1927年(昭和2)にトーキー作品として制作されていたといわれる。だが、技術的な課題から実験的作品にとどまり、劇場で公開されることはなかった。
無声映画は、いわゆる「活動弁士(活弁)」による台詞や解説によって観られるか、あるいは今日の外国映画のように字幕付きで観賞されるのが普通だった。豪華な映画館では、弁士が何人もいて映画俳優ごとに入れ替わったり、楽団ピットが用意されてBGMを流したりしている。わたしは知らなかったのだが、映画が芝居や新派の焼き直しではなく、映画独自の物語や表現を獲得するにつれ、「活動弁士(活弁)」という職業がなくなり映画の「説明者」と名のるようになったそうだ。
説明者というと、まるで映画解説者の淀川長治Click!のような映画評論家をイメージしてしまうが、モダンな映画は弁士ではなく説明者がスクリーン横で、ストーリーを解説したり台詞をしゃべったりするようになった。その様子を、雑司ヶ谷で育ったシナリオライターであり映画評論家の森岩雄Click!が、1978年(昭和53)に青蛙房から出版された「シリーズ大正っ子」の1冊、『大正・雑司ヶ谷』に書いているので引用してみよう。
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日本物の場合は「旧派」(芝居=歌舞伎のこと)にしても「新派」にしても台詞、声色、鳴物入りの賑やかさで、スクリーンに舞台の幻想を再現させるために、「弁士」が何人も居て役柄を一つ一つ受け持って行くやり方と、西洋物の場合は字幕によって説明されて行くので、その翻訳を日本語で行なう「弁士」と二つの役割があった。前者の方では浅草の土屋松濤という弁士が最も有名であった。土屋松濤は自分一人で何役もこなすことの出来る弁士であったが、賑やかしのために「楽屋総出」で舞台を勤めたものであった。しかし、このやり方は日本映画が映画劇の形式に代ると共にいつの間にか消えてしまい、西洋映画の「弁士」のやり方のみが残るようになった。そして「弁士」と言わず「説明者」と名乗るようになった。東京で、浅草では生駒雷遊、山の手では徳川夢声が、説明者の両横綱と称されていた。(カッコ内引用者註)
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説明者には、やはり得意分野があって喜劇や文芸物、活劇・時代劇といったジャンルごとに、担当の説明者も交代していたようだ。また、噺家のように上映される映画の前半を若い説明者が前座として、後半をベテランの説明者が担当していた。人気の高い説明者はギャラもよく、競合する映画館同士で引き抜き合戦もめずらしくなかった。
ちょっと横道へそれるが、青蛙房から出版された「シリーズ大正っ子」が、本来の江戸東京地方の町場感覚を反映していて面白い。別の地方の方々は、よく江戸東京地方に昔から住んでいる人間のことを「江戸っ子」などと表現するが、もちろん地元ではこんな漠然とした出自が不明な表現はしない。「シリーズ大正っ子」がタイトル化しているように、「下谷っ子」「築地っ子」「本郷っ子」(森岩雄は雑司ヶ谷っ子)というように、各地域の街ごとに「っ子」を付けて呼ぶ。(同シリーズではほかに根岸、日本橋、渋谷、銀座、吉原、三輪などの町っ子の話がシリーズ出版されている)
江戸東京は、他の都市に比べるとかなり広いので、各街ごとに言語(母語)や風俗文化、生活習慣、食文化、美意識、氏神、果てはアイデンティティまでが少なからず異なっている。「神田っ子」と「銀座っ子」、「日本橋っ子」と「深川っ子」がかなりちがうように、どの街の住人にもそれなりの特色があるので一緒くたにはできないのだ。だから、「オレは江戸っ子だ」などというのは、いったいどこの地域のどのような特色や文化を受け継いだ人物なのか、まったく正体が不明ということになる。
さて、上落合に開業していた公楽キネマClick!や、目白バス通り(長崎バス通り)Click!の入口近くに開業していた洛西館Click!(のち目白松竹館Click!)には、どのような弁士(説明者)たちが活躍していたのだろうか。両館で発行されたパンフレットClick!には、上映映画の解説と出演俳優だけで弁士(説明者)たちの名前は掲載されていない。
だが、無声映画を字幕だけで観るよりは、出演者たちの喜怒哀楽をややオーバー気味に表現する弁士(説明者)の声が聞こえたほうが、当時の映画ファンや大衆には受けたのだろう。欧米の映画館には弁士(説明者)は存在せず、落語家や講談師など噺芸人の下地があった日本ならではの、独自に発達した映画興行の方法論なのだろう。
公楽キネマや洛西館(目白松竹館)では、時代劇や現代劇などジャンルを問わずに上映されていたので、そのたびに弁士(説明者)も交代していたのだろう。また、観客に人気の弁士(説明者)もいて、映画とは別に弁士ファンといったものも存在したのだろうか。さらに、今日の声優のような、たとえば坂妻(ばんつま)Click!にはあの弁士というように、それぞれ専任のアテレコのような仕事をする弁士も出現していたのかもしれない。
大正期の古い映画表現が廃れ、新しい映画の出現について同書より引用しよう。
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(前略)日本映画の形も変化して行くと共に、内容も次第に移り変わり、題材もいつまでも歌舞伎劇や新派劇の焼き直しでは済まされなくなり、新しい題材と新しい俳優を大衆は要望することになった。大正十五年、日本の旧派映画の代表的俳優であった尾上松之助がこの世を去ったことは、その意味では象徴的な出来事であった。もうこの頃は大衆は尾上松之助の英雄主義的な主題は喜ばず、坂東妻三郎や大河内伝次郎のニヒリズム的な物語の映画化を歓迎するように変わって来ていた。
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映画が、芝居や新派の舞台の焼き直しから、映画独自のシナリオや表現に移行しても、弁士(説明者)はいなくならなかった。さらに、トーキー映画が出現したあとも、しばらくの間は彼らの仕事は継続していた。しかし、1935年(昭和10)をすぎるころからトーキー映画が一般的になり、シナリオや俳優の演技も無声映画時代よりははるかにリアルかつ複雑になるにつれ、弁士(説明者)はそろってお払い箱となり、映画館からは軒並み姿を消していった。
◆写真上:早稲田通りに面した、上落合521番地の公楽キネマ跡(右手)の現状。
◆写真中上:上は、大正末に近接する火の見櫓から月見岡八幡社Click!の宮司・守谷源次郎Click!が撮影した公楽キネマ。中は、大正末の正月に撮影された目白バス通り(長崎バス通り)に面した洛西館(のち目白松竹館)。下は、洛西館(目白松竹館)跡の現状。
◆写真中下:上は、公楽キネマのパンフレット(左)と目白松竹館のパンフレット(右)。中は、公楽キネマの映画パンフレット見開き。下は、目白松竹館の同見開き。
◆写真下:上は、弁士(説明者)を代表する生駒雷遊(左)と徳川夢声(右)。中左は、1978年(昭和43)出版の森岩雄『大正・雑司ヶ谷』(青蛙房)。中右は、「シリーズ大正っ子」の広告。下は、1931年(昭和6)公開のトーキー映画『マダムと女房』(五所平之助/松竹)。