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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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落合地域とご近所地域の怪談いろいろ。

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 この春から、古墳にまつわる怪談Click!タタリ譚Click!、仏教雑誌に掲載された不思議譚Click!などをご紹介してきたので、なんだか怪談の当たり年のような雰囲気だが、夏もまっ盛りなので、恒例の地域にまつわる怪談について書いてみたい。
 以前、大久保百人町の岡本綺堂Click!が書いた『池袋の怪』Click!をご紹介しているが、この怪談は江戸中・後期に勘定奉行や南町奉行だった根岸鎮衛『耳嚢』Click!に収録された、「池尻村の女召使ふ間敷事」が元ネタになっている。江戸で聞かれた怪談や不思議話などを集めた『耳嚢』は、あまりにも有名で関連書籍なども数多く出ているので、今回はあまり知られていない1749年(寛延2)に出版された『新著聞集』の中から、落合地域やその周辺域に関係がありそうな怪談をご紹介してみよう。
 『新著聞集』は、俳人の椋梨一雪が著した『続著聞集』がベースになったといわれ、その説話集の中から恣意的に話を抜き出して構成しなおしたのが、徳川紀州藩の神谷養勇軒だとされている。つまり、既存の説話集の中から特に面白い話を選んで再編集されたものが、寛延年間のはじめにベストセレクション『新著聞集』として出版されたという経緯のようだ。中でも、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)Click!がチョイスして『怪談』Click!に収めた「茶碗の中の顔」が、同集でもっとも知られた怪奇エピソードだろうか。
 同書は18巻あるが、1巻につき近似したテーマの話を多く集めた1篇(章)のかたちをとって出版されており、ぜんぶで18篇(章)の構成となっている。中でも怪異や怪奇、不可解、不思議な話などを収録したのが、第10巻の「奇怪篇」、第11巻の「執心篇」、第12巻の「冤魂篇」となっている。まず、第10巻「奇怪篇」に収録された、落合地域の南東側に位置する牛込地域で起きた怪談「雲に乗った死骸」からご紹介してみよう。原文そのままだと読みにくいので、2010年(平成22)に河出書房新社から出版された、現代語訳の志村有弘『江戸の都市伝説』から引用することにした。
  
 寛文七年(一六六七)閠二月六日、にわかに雹(ひょう)が降り、雷が騒がしいおりふし、江戸牛込の者が死んで高田の貉霍(むじな)の焼き場に送られた。そのとき黒雲がひとむら舞い降りて龕(棺)の上に掛かったと思うと、死骸をその中に提げ入れた。両足が雲の中からぶらぶらと下がっていたのを、諸人が見たという。
  
 今日の眼から見ると、明らかに日光雷か大山雷Click!の雷雲とともに気圧が急激に不安定化し、強力なつむじ風か竜巻が起きて棺桶を舞いあげた自然現象のように思えるが、この中で不可解なのは「高田の貉霍(むじな)の焼き場」という箇所だ。江戸期の下高田村にも、また上高田村にも火葬場はないので、これは上落合村の焼き場(現・落合斎場)Click!のことではないか。同火葬場は、上高田村と上落合村の境界にあり、地元に不案内の人物が語ったとすれば、「高田の」と表現してしまった可能性がある。
 ただし、「貉霍の焼き場」という名称は初めて聞く。当時は、近郊の丘陵地帯に展開する森林の奥にあった焼き場なので、誰彼ともなくそのように呼ばれていたものだろうか。また、以前にご紹介した怪談「雷ヶ窪」Click!と同様に、特異な自然現象にはなんらかの神意や霊意がやどっていると、江戸期に生きた人々は受けとめたのだろう。
 さて、次は落合地域の東に位置する雑司ヶ谷村に伝わった怪談だ。『新著聞集』の第11巻「執心篇」に収録された1篇だが、雑司ヶ谷村の名主の子どもたちが登場してくる。江戸前期(寛文年間)のエピソードなので、この名主とは後藤家のことだろうか。江戸後期に記録された新倉家Click!や柳下家、戸張家ではないと思われる。
 当時、雑司ヶ谷村の名主には子どもが4人おり、嫡子(長男)は出家して真言宗の学匠(教師格の僧侶)になっていた。この僧がいる寺(寺名は不明)に、ある夜、強盗が押し入って住職が殺されてしまった。寺には多くの金銀財宝が残されており、寺社奉行所の出役(代官)が住職の兄弟にあたる名主の子どもたち3人へ公平に分配したところ、次々に怪異現象が起こりはじめた。同書より、再び引用してみよう。
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 ある朝、弟の馬屋の中が火事になっており、娘がそのことを親に知らせた。驚いて見に行くと、早くも軒に燃え移り、馬屋は焼失してしまった。その次の弟の家には昼夜火の玉が飛び回った。それを必死に防いだところ、次には壁のあいだから燃え出てきた。これを消す作業が夜のうちに八、九度となり、遂に燃え上がってまた焼けてしまった。また、次の弟の家にも火の玉が飛んだので、捉えてみると熱いことはまったくなかった。
  
 江戸前期から、すでに坊主Click!の蓄財や財宝への執着がとりざたされ、怪談として伝わっているのが面白い。財産が、弟たちに分配されてしまったことが気に入らないのか、殺された坊主が火の玉となって化けて出て弟たちに嫌がらせをするという経緯は、仏教や寺院への多大な皮肉や揶揄がこめられている怪談だ。
 その後、近隣の神社仏閣に願掛けして、殺された僧の供養をねんごろにしたところ、怪異現象は収まったとされている。人々は、「あの僧は財宝にひどく執着していたので、その一念が火災を起こし」たとウワサしあった。解脱(げだつ)しているはずの坊主が、蓄財となると血眼になるのは別に時代を問わないようだ。
 次は、少なくとも延宝年間(1673~1681年)から、下落合村の北側に接して下屋敷があった上州高崎の大名・安藤但馬守(のち江戸中・後期からは対馬守を受領)の家臣にまつわる、第12巻の「冤魂篇」に記録された怪談だ。安藤但馬守の下屋敷から、江戸市街地へと出るのに神田上水をわたる橋が必要だが、下落合の田島橋(但馬橋)Click!は安藤家にちなんでつけられた橋名だといわれている。
 『新著聞集』では「安藤対馬守」として語られているが、この怪異が起きたのは江戸前期から中期にかかるころ、元禄年間(1688~1704年)の出来事と記録されているので、いまだ安藤家の受領名は但馬守時代だったのではないだろうか。以下、安藤但馬守(対馬守)の下屋敷について、1852年(嘉永5)に作成された『御府内場末往還其外沿革圖書』の「雑司ヶ谷村/下落合村/高田村之図」に記された添書きから引用してみよう。
  
 右五拾七人屋舗の地所延宝年中は南手下落合村百姓地ニて其外当初より東手え続一円安藤但馬守下屋舗(此下屋舗の内当初より東手地続は前二部に有之。右二部の内前々一部の地所は天和三亥年中上ヶ地ニ成、右残地当所并前一部の地所共天保五午年中当所同様上ヶ地ニ成)に有之候処、天保五午年五月安藤対馬守(元但馬守)右下屋舗一円御用ニ付被召上(本所押上吉川四方之進屋敷の内被召上為代地被下)感応寺境内ニ成、
  
 安藤家の下屋敷は、江戸前期の但馬守時代から中・後期の対馬守時代へとつづく1834年(天保5)まで、下落合村の北に接して建っていたが、その敷地を感応寺Click!建設のため幕府に召し上げられ、代わりに本所押上に代地をもらって転居している。つまり、この怪談が人づてに広まったのは対馬守時代になった江戸中期以降のことなのだろう。
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 同家の家臣だった横田という人物は、かなり閑職だったものか自分の仕事にあきたらず、江戸で医師の修行をして横田保菴(ほあん)と名のるようになる。常勤の家臣からは外されているので、けっこう下落合村に接するさびしい下屋敷あたりが舞台だったのではあるまいか。向上心が強かったとみられる彼は、医師の修行が終るとそのまま安藤家の藩医になったようだ。国許の高崎に妻を残したまま、江戸勤務をつづけているうちに人から勧められるまま新しい妻をめとってしまった。
 それを伝え聞いた高崎の留守宅にいる妻は、嫉妬で怒り狂って江戸へと出てきたが、横田保菴は妻に三下り半(離縁状)をつきつけて高崎へすげなく追い帰している。やがて、江戸の新妻との間には3人の子どもが生まれたが、次々と育たずに死んでしまった。前後して、高崎の元妻が死んだことを知らされると、さすがに気がとがめたのだろう、保菴は元妻の執念深い怨念やタタリを怖れ、国許に一度もどって墓参りをしようと家中(かちゅう)の者を数人連れて出かけていった。高崎郊外にある墓前に立ち、保菴がていねいに供養をしていると、さっそく怪異現象が起こりはじめた。その様子を、同書より引用してみよう。
  
 すると不思議なことに確かに固めておいた石の卒塔婆が俄かに崩れ、大地が音を立てて二つに破れると思われた瞬間、保菴の顔色が変わって、/「やれ苦しや、助けてくれよ」/などと言って激しく狂ったので、連れの人たちは、(これは妻の怨霊だ)と心得、怨霊に向かって、/「いやいや、ここで保菴を殺しては、我々の一分が立たない。まず高崎に帰ってのことにされよ」/と道理を尽くしてなだめたので、霊の心も融和した。保菴もすぐに普通の状態になった。/高崎に連れ帰るとすぐに、またあの霊が取り憑いて、保菴は日夜狂い暴れた。このことが江戸にも聞こえてきたので、親しい者が高崎まで様子を見に行くと、その霊はその人たちに向かって、/「よくも保菴に同心し、新しい妻を迎える仲立ちをしたな。お前たちも生かしてはおくまい」/とののしった。
  
 保菴に付き添ってきた家中の者や、江戸から様子を見にきた友人たちは早々に江戸へ逃げ帰ったが、保菴はほどなく1697年(元禄10)に狂い死にしたと伝えられている。
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 この怪談で面白いのは、保菴に随行した家臣たちに元妻の怨霊が説得され、素直にいうことを聞いている点だろう。墓場で保菴が死んでは、随行した家臣たちが責任を問われかねないので、「われわれがあずかり知らぬところで祟ってくれ」という頼みを、もっともなことだと聞きとどけている。してみると、元妻は単に嫉妬にたけり狂って死んだのではなく、けっこう道理のわかる厳格でクールな女性だったのではないかと思えてくる。

◆写真上:盛夏を迎えるころから、なんとなく怪談が恋しくなってくる。
◆写真中上は、1749年(寛延2)出版の編集・神谷養勇軒『新著聞集』の扉と目次。下左は、『新著聞集』第1篇の表紙。下右は、『新著聞集』の現代語訳が掲載された2010年(平成22)出版の志村有弘『江戸の都市伝説』(河出書房新社)
◆写真中下:怪談には欠かせない、道具立てやグッズいろいろ。
◆写真下は、1852年(嘉永5)の『御府内場末往還其外沿革図書』にみる安藤但馬守下屋舗(敷)とその添書き。は、安藤家下屋舗(敷)の敷地だった一画の現状。
おまけ
 三鷹での展覧会「The Creation at JANUS 2022」(ジェーナスクリエイション公募展)で、いちばん気に入ったのがこれ、ami大久保美江氏Click!の『あなただったのね』。
 わたしに取り憑いてたのは「あなただったのね」、家の中でいろいろな音をさせたりモノを動かしていたのは「あなただったのね」、喫茶店で水のグラスがふたつ出される原因も「あなただったのね」、夜道を歩いているといつもあとを尾けてきてたのは「あなただったのね」、そして寝ているときに身体の上に乗っていたのも「あなただったのね」……。
大久保美江「あなただったのね」.jpg

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