下落合からおよそ南東へ1.8kmほどのところ、山手線をはさんだ広大な戸山ヶ原Click!の東側を見わたしていて、ひとつ不思議に思いひっかかっていたことがある。陸軍軍医学校Click!が、なぜ近衛騎兵連隊Click!の敷地まで削って、防疫研究室Click!(石井機関=731部隊の国内本部)を建設できたのか?……という不可解な疑問だ。
日本の軍隊内では、前線で戦闘を行う将兵を擁する部隊=連隊・師団の立場や勢力が強く、その補助的な役割りをになう輜重や鉄道、諜報、医療などの部隊は、相対的に立場が弱い。軍医学校側が、近衛騎兵連隊の用地拡大のためにやむなく敷地を譲渡することはあり得ても、その逆は通常考えられないからだ。ましてや、相手は天皇を警衛する近衛師団なので、なおさら以前から不可解に感じていた。
その疑問が解けたのは、今年(2022年)に高文研から出版された常石敬一『731部隊全史』を読んだからだ。そのキーマンは、陸軍軍医学校の軍医監であり近衛師団軍医部長を兼任していた小泉親彦だ。陸軍部内では、軍医学校の整理・縮小が検討されていたが、これに対し小泉は「軍医学校の満州移動」を提唱していた。1931年(昭和6)当時の小泉は、軍医学校教官で衛生学教室主幹だったが、翌1932年(昭和7)には上記のように軍医監と近衛師団の役職を兼任し、1933年(昭和8)には軍医学校校長に就任している。
このトントン拍子の昇進には、そのバックにもっと上層の意向(軍務局長以上)が働いていたとみるのが自然だろう。「軍医学校の満州移動」の代わりに、小泉は満州国に関東軍防疫部(石井機関=731部隊)の設置に成功している。そして、小泉は1934年(昭和9)に軍医総監、1941年(昭和16)には厚生大臣へと昇りつめている。すなわち、満州で細菌戦の研究開発および実行を推進する石井機関=731部隊の背後には、陸軍の最上層部の思惑が反映されていたととらえるのが当然なのだろう。
1932年(昭和7)に、近衛騎兵連隊の敷地5,000坪超を軍医学校に割譲させたのは、近衛師団の軍医部長だけの力では到底不可能なことであり、そのバックにいる強大な権力をもつ陸軍の最上層部を想定しなければ説明がつかない。このネゴシエーションには、もちろん小泉親彦だけでなく石井四郎が陰に陽に付き添い、バックアップしていたとみるのが自然だ。石井四郎の「根まわし上手」は、軍医学校でもよく知られており、中間の将官職や取次ぎをとばしていきなりトップと交渉することも稀ではなかった。
石井四郎のプレゼンテーションは、敵から押収したと称する自ら捏造した「証拠」を見せ、上層部の危機感をあおるのが常套手段だった。戦後、GHQの尋問に答えた増田軍医大佐の供述調書では、「ソ連の密偵」が所持していたと称する「アムプレ(アンプル)」と「薬壜」を調べたところ、コレラ菌を検出したと供述しているが、その供述表現から石井の言質をまったく信用していない様子がうかがえる。つまり、敵が細菌戦をしかけてきているのだから、日本も細菌戦を準備し積極的に実行しなければならないというのが、石井四郎によるマッチポンプ式の大型予算獲得と組織拡大の手口だった。
また、当時の陸軍には正規軍同士が戦って勝敗を決するのが軍隊の本領であり、石井四郎のような作戦は姑息で卑怯だとする見方の傾向が根強く残っていた。だからこそ、多くの組織を飛び越えた陸軍トップとの秘密交渉が必要だったのだ。
近衛騎兵連隊に5,000坪余の土地を提供させ、石井機関の本部建物が建設される際、1932年(昭和7)7月から同年12月までの間に、施設名称が二転三転していることが『731部隊全史』で指摘されている。対外的にも、細菌戦の研究所を想起させるような名称を避けたかったのだろうが、逆に短期間における名称のたび重なる変更は、ジュネーブ条約違反の組織を強く臭わせる結果になっているように思える。すなわち「細菌研究室」→「戦疫研究室」→「戦疫研究所」→「戦疫研究施設」→「戦疫研究室」と推移し、最終的には「防疫研究室」となった。近衛騎兵連隊では、防疫研究室に敷地を提供するために、兵器庫と油脂庫などの敷地内移転を余儀なくされている。
石井四郎は、そのころ「東郷部隊」という秘密部隊名を使い、ハルビン南方80kmほどの背陰河で極秘の任務に就いていた。この間の詳細は、GHQによる731部隊員の供述調書ではなく、1948年(昭和23)に起きた帝銀事件Click!の取り調べに当たった、警視庁捜査一課の甲斐文助警部がまとめた詳細な捜査手記に記録されている。「東郷部隊」に参加しているスタッフは、発覚するのを怖れて全員が偽名をつかっており、石井四郎は「東郷一」と名のっていた。警視庁の捜査員たちは、石井機関の事業を緻密に記録していくことになる。
もちろん、捜査対象は遅効性の青酸ニトリ―ル(アセトンシアンヒドリン)Click!などについてだったが、731部隊所属の元隊員たちへ片っ端から尋問していった結果、当時の「東郷部隊」=石井機関の行動が浮き彫りにされている。帝銀事件の容疑者にされてはたまらないためか、731部隊の元隊員たちは具体的な実験内容まで次々に供述している。
石井四郎は背陰河で、すでに数々の人体実験を行っていた。付近には研究施設が建ち並び、これらの人体実験を誰が実施し誰が立ちあったのかまで、731部隊の関係者は詳しく供述している。用いられた細菌は、炭疽菌をはじめコレラ菌、赤痢菌、腸チフス菌、ペスト菌、馬鼻疽菌などだった。実験内容は、饅頭に指示どおりの病原菌を入れ、それを摂取した被験者がどうなるかを観察するもので、もちろん被験者の全員が死亡している。
この人体実験中に、コレラ実験棟で20人前後による被験者の脱走事件が発生し、監視にあたっていた予備役看護長の2名が殺害されている。『陸軍軍医学校五十年史』(1936年)では「戦死」とされた、平岡看護長と大塚看護長のふたりだ。そのときの様子を、『731部隊全史』から栗原義雄予備看護兵の証言とともに引用してみよう。
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部隊の敷地は六〇〇米平方と広大でそこにいくつもの建物があり、炭疽やコレラそれにペストなどの研究課題毎に建物が割り当てられていた。各実験・研究棟には廊下をはさんで部屋が並んでおり、そのうちのいくつかには「ロツ」と呼ばれた檻がいくつも置かれ、被験者は二人一組で閉じ込められていた。ロツの広さは六畳ほどで、天井は人が立つと頭が着くかどうかという低さで、端にはトイレが付いていた。/栗原は一九三四年の戦死事件(図表番号略)を覚えており、これは被験者の脱走によるものだったという。コレラの実験棟から被験者二〇人近くが世話係の看守二人を殺害し、逃げおおせたのだった。(カッコ内引用者註)
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このあと、極秘の「東郷部隊」は解散して石井四郎は日本へもどり、関東軍防疫部(のち関東軍防疫給水部)の設置へ向けたプロジェクトに邁進していくことになる。「防疫給水」は名目で、実態は生物兵器と化学兵器の研究開発が事業の中心だった。そして、莫大な予算を手に入れた石井は、母校の京都帝大医学部を中心に各大学から研究者を募る“人集め”に奔走し、1936年(昭和11)8月には正式に関東軍防疫部=731部隊が発足している。
なお、当初は満州へ出向するのを嫌がる医師が多かったが、のちには京都帝大と東京帝大、慶應大学などの各医学部から競いあうように医師たちが731部隊へ送りこまれるようになる。舞台へ着任した医師たちは、尉官・佐官レベルの将校として優遇された。
関東軍防疫給水部=731部隊の本部は、ハルビンの平房に置かれていたが、そこでどのような実験が行なわれていたのかは、あまたの書籍や資料が世の中に出まわっているので、そちらを参照していただきたい。ここでは、近衛騎兵連隊に敷地(現・戸山公園内の多目的運動広場とその周辺)を提供させ、防疫研究室を同部隊の国内本部にしていた石井四郎について、もう少し追いかけてみよう。
1942年(昭和17)4月、ドーリットル隊Click!が日本本土を空襲Click!した直後、陸軍では同爆撃隊がめざした中国の飛行場を破壊するために、浙江省と江西省の拠点を攻撃する「浙贛作戦」を発動した。この作戦で、石井四郎の部隊は実証実験レベルではなく本格的な細菌戦を実施している。軍用機から水源地や貯水池に雨下(撒布)したのはコレラ菌や赤痢菌で、市街地にはペスト菌(PX)が撒布された。その結果、中国側では42人の罹患死者が出たと報告されている。だが、被害は中国側だけにとどまらなかった。
陸軍部隊が占領したあとの惨状を、同書収録の米軍捕虜の尋問記録より引用しよう。
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一九四二年の浙贛作戦で細菌攻撃した地域を日本軍部隊が占領した時、非常に短時間で一〇,〇〇〇人以上が罹患した。病気は主にコレラだが、一部赤痢およびペストもあった。患者は通常後方の、だいたい杭州陸軍病院に急送されたが、コレラ患者は多くが手遅れとなり死亡した。捕虜(防疫給水部隊員)が南京の防疫給水本部で目にした統計では死者は主にコレラで一,七〇〇人を超えていた。捕虜は実際の死者数はもっと多いと考えている。それは、「不愉快な数字は低く見積もるのがいつものやり方だから」。(カッコ内引用者註)
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1万人以上の将兵がコレラなどに罹患し、少なくとも1,700人以上が死亡したということは、1個師団が全滅したに等しい数字だ。「中国大陸で戦死」という死亡公報のうち、いったいどれぐらいの将兵が石井機関による細菌戦の犠牲になったものだろうか。
石井四郎は、この浙贛作戦の大失態がもとで1942年(昭和17)8月、関東軍防疫給水部を追われているが、もうひとつの更迭理由として本来の防疫給水の領域で「石井式無菌濾水機」の虚偽が明らかになったせいもあった。石井が無菌濾水機に採用したベルケフェルトⅤ型フィルターでは、菌がフィルターを通過してしまい無菌にはならなかったからだ。
占領地の井戸や水源へ、コレラ菌や赤痢菌を撒かせて「敵が細菌戦を展開している」と扇動したり、「ソ連の密偵から奪った」アンプルや薬壜にはコレラ菌が仕組まれていたと、自ら捏造した「証拠」をもとに危機感をあおり、膨大な予算や人員を要求してくるほとんど詐欺師のような男に、陸軍部内でもさすがに「おかしい」と感じる将官か増えていく。
それでも、石井四郎は敗戦色が濃くなった1945年(昭和20)3月、関東軍防疫給水部へ復帰している。風船爆弾に細菌雨下(撒布)装置をつけて米国本土へ飛ばす計画(中止)や、ペスト菌(PX)の一斗缶を抱えて敵陣に突撃させる「夜桜特攻隊」計画(中止)と、731部隊員の供述によれば「やけくそ戦法、めちゃくちゃの戦法」の実現に奔走している。敗戦後、いちはやく満州から帰国した石井四郎は千葉の実家で自身の「葬式」を偽装するが、陸軍上層部とは異なり米軍のCICClick!やG2Click!は稚拙なフェイクには騙されなかった。やがて、1943年(昭和18)に金沢医科大学の石川太刀雄教授が部隊から持ち帰っていた、8,000枚におよぶ人体実験のスライド標本が米軍に発見されるのは時間の問題だった。
最後に余談だが、近衛騎兵連隊から敷地を提供された防疫研究室の西隣りには、陸軍兵務局分室Click!すなわち陸軍中野学校Click!の工作室(通称:ヤマ)Click!が建設されている。その施設の存在を秘匿するために、近衛騎兵連隊の馬場との間には「防弾土塁」と称して、高い目隠し用の土手が築かれた。その土手は、現在でもそのまま見ることができる。
◆写真上:1980年代半ばまでそのまま建っていた、石井四郎の旧・軍医学校防疫研究室。
◆写真中上:上は、1923年(大正12)と1940年(昭和15)の1/10,000地形図にみる近衛騎兵連隊と軍医学校の敷地。中左は、1932年(昭和7)7月に陸軍大臣にあて「陸軍軍医学校細菌研究室新築工事ノ件」(のち「防疫研究室」)。中右は、1934年(昭和9)12月の「近衛騎兵連隊兵器庫其他移築工事ノ件」。下左は、2022年出版の常石敬一『731部隊全史』(高文研)。下右は、1936年(昭和11)出版の『陸軍軍医学校五十年史』の内扉。
◆写真中下:上は、1936年(昭和11)に撮影された陸軍軍医学校の校内だが、軍陣衛生学教室の左手(西側)にある防疫研究室は画角から外されている。中は、同年撮影の防疫研究室。下は、防疫研究室で細菌繁殖用の寒天を製造する同研究員。
◆写真下:上は、1946年(昭和21)11月の増田軍医大佐による供述書をはじめ、米軍による731部隊員たちへの尋問・供述調書。中は、戸山公園内の防疫研究室跡の現状。下は、さまざまな記録や資料、証言などから731部隊へ競争するように医師を送りこんだ各大学医学部と軍学コンプレックスの軌跡を追跡したNHKドキュメンタリー資料(2017年)。
★おまけ
国立公文書館に保存されている、1941年(昭和)6月10日付けの陸軍軍医学校長から当時の陸相・東條英機Click!あてに提出された、731部隊の国内本部にあたる防疫研究室に関するスタッフ増員要望書。「特殊研究」などで「将校」(軍医将校のこと)が81名必要なのに対し、現状はその4分の1しか確保できていないとしている。