大正時代に東京市外の別荘地へ豪邸をかまえ、裕福な暮らしをしていたおカネ持ちが、稀代の大泥棒だったという事件があった。当時は閑静な郊外だった、田端202番地に大邸宅を建てて住んでいたのは実は盗賊で、1921年(大正10)ごろから大正末までの5年以上にわたり、東京郊外に建っていた大きめな西洋館ばかりをねらって「仕事」をしている。
こちらのほうが、敗戦直後のかなりドジな「怪盗ルパン事件」Click!よりもよほどルパンっぽいのだが、1926年(大正15)8月21日に発行された東京朝日新聞(夕刊)の記事から引用してみよう。
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大邸宅を構ふる紳士風の大賊
大家のみを襲つて貴金属を専門に/内偵に苦心した滝野川署
市外田端町の一角に紳士紳商連の別荘が点在してゐる中に同町二六三(誤報でのちに二〇二)に住む榎本進(三五)といふ一戸がある、その生活の豪奢なことと主人の風さいの堂々たるとは立派な紳士振りで自分も『株屋である』と称してゐたがその挙動に怪しい点があるのを滝野川警察署で注意し内偵のところいよいよ正体をつかみ同署刑事は十数日前に自称株屋の榎本進を引致した、進は強情に紳士であり正業のあるものだと主張したが警察署で苦心の結果遂に希代の貴金属大泥棒であるとの確証を挙ぐるに至つた、進は大正十二年頃から富豪、紳商の邸を襲うて高価な貴金属を専門に盗みを働いてゐたが堂々たる邸宅と紳士風の風さいとに隠れて巧に世間を欺いてゐたものであつたが進の付近には床次政本総裁、斎藤男その他名士、富豪の別荘が多く時々貴金属類が盗難に逢ふので滝野川署でも怪しいと見た進の周囲に注意してゐたがいよいよ罪跡明白となり取調一段落と共に近く検事局へ送られることになつたが同署長は打合せのために二十日午前十時頃警視庁に中谷刑事部長を訪ひ秘密に協議した/田端の榎本方は進が引致されてから戸締厳重に空家となつているがそれまでは内縁の女房と二人暮しで近所との交際も避けてゐた、内縁の女房は進が引致されると共に向島辺へ逃出したといふのである (カッコ内は引用者註)
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実はこの段階では、容疑者はいまだ田端近辺での盗みを自供しているにすぎず、「仕事」をはじめたのは1923年(大正12)ごろと、それほど以前からではないことになっている。ところが、このあと刑事の執拗な取り調べに観念したのか、次々と東京郊外での盗みを自供しはじめた。
1926年(大正15)8月25日に東京朝日新聞へ掲載された続報では、犯人の住所が「田端町二〇二」に訂正されているのだが、犯行をスタートしたのは1921年(大正10)ごろからと報じられている。また、榎本容疑者から盗品を買って売りさばいていた、日本橋区南茅場町のブローカーも判明して逮捕されている。そして、泥棒を繰り返していたのは榎本容疑者の近所(田端)ばかりでなく、むしろ東京西部の市外地がメインだったことが明らかになった。
続報が掲載された8月25日までに、10件ほどの余罪を自供しているのだが、盗みに入った10邸のうち半分が落合地域(下落合4邸+上落合1邸)であり、ほかに下荻窪2邸、幡ヶ谷1邸、阿佐ヶ谷1邸、世田谷1邸という「仕事」ぶりだった。ちなみに、下荻窪の2邸とは政治家・床次竹二郎別邸と陸軍大佐・小畑巌三郎邸、幡ヶ谷は日本化学肥料の重役・立石花次邸、阿佐ヶ谷は学習院教授・倉敷福太郎邸、世田谷は陸軍中将・白井二郎邸という被害状況だ。
では、同年8月25日に発行された東京朝日新聞の長い続報から、抜粋して引用してみよう。
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西洋館をかせぎ場に五年間に十万円泥棒
大邸宅を構へて納まつてゐた偽株師榎本の自白
田端に大邸宅を構へた希代の怪賊が滝野川署に捕へられたことは去る二十一日の本紙夕刊既報の如くであるが、その後取調べ進むと共に遂に一切の犯行明白となり、これによつて去る十年来右怪賊のため頻々たる被害に無警察呼ばゝりまでした付近一帯の住民がはじめて安心するに至り中野、滝野川両署も又連日の非常警戒を解くと同時に二十四日滝野川署では事件の一切を公表した、(中略) 犯人榎本は十年頃から現在にかけて中野、高円寺、滝野川、落合の一帯を荒し所轄署は全力を挙げて警戒手配中滝野川署の伊澤刑事は田端二〇二に広壮な邸宅を構へてゐる本人に目を付け身許調査を開始した(中略) 不審の点が多いので同刑事は去る七月十日川上、高久の二刑事と共に同家に出張取調べを行ひ翌日再び出張したところ、榎本は早くも風を食つて逃げた(中略) 同人は百姓上りで十年から富豪の邸宅を襲つてゐたもので外出の場合持参する黒かばんにはきり、のみ、はさみ等を容れ、途中印ばんてん等に変装の上窃盗を働くのであつたが多くは西洋館をねらひ、株券あるひは現金のみを専門に盗み、株券は情を明かして前記丸天株式店に売却して居た、しかしてこの五年間同人が襲つた被害件数は約五百件、被害価格十万円に達し、そのうち主なる被害者は左の諸氏である(以下略)
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最後のつづきに、おそらく被害額が大きかったのだろう、おもな被害宅が10軒リストアップされている。襲われた落合地域の5邸には、まず下落合1218番地の村田綱太郎邸がある。村田は、東京砲兵工廠の技師をしていたが1922年(大正11)に死去しているので、榎本容疑者の「仕事」としては早い時期のものだろう。つづいて、村田邸と同番地であり隣家だった下落合1218番地の陸軍少佐・谷儀一邸(旧・谷千城邸)が被害に遭っている。両邸とも雑司ヶ谷道Click!に面しており、外山卯三郎Click!の実家である外山秋作邸Click!や、二二六事件Click!で岡田首相Click!が身をひそめた佐々木久二邸Click!の斜向かいにあたる。
つづいて被害を受けたのが、下落合1367番地に住む父親が発明した「タカジアスターゼ」を継続研究していた医学博士・高峰博邸だ。目白文化村Click!の第二文化村にあった高峰邸は、以前こちらでご紹介した松下市太郎邸Click!の向かいのお宅で、濃い屋敷林に囲まれた瀟洒な西洋館だった。同じく、第二文化村の医学博士・島峰徹Click!邸も被害に遭っている。現在は延寿東流庭園となっている下落合1705番地で、目白文化村では比較的少なかった和風建築の邸だった。
また、上落合583番地の報知新聞の記者をしていた石川寿三郎邸も、榎本容疑者に侵入されている。同邸は、柳瀬正夢Click!宅の道をはさんで真向いの少し奥まったところにある邸で、やはり森に囲まれた瀟洒な西洋館のような風情をしている。周辺には、1936年(昭和11)現在でも濃い樹林が多く、大きめな邸が点在しているような環境だった。
さて、榎本容疑者の検挙と同時に、田端の豪邸で同棲していた、22歳の「内縁の妻」と16歳の女中も検挙されているようだ。妻のほうは、夫の「仕事」を見て見ぬふりをしていた窃盗教唆として、また女中のほうは容疑者と妻との連絡をひそかに取ろうとした逃走幇助の容疑だと思われる。
それにしても、大正期の落合地域はとてもおおらかというか、戸締まりやセキュリティが甘いというのか、次から次へと泥棒の被害に遭っていたのがわかる。以前にも、下落合の泥棒事件Click!をいくつかご紹介しているけれど、同一犯によるこれほど大がかりで、被害額も大きな事件は初めてのケースだ。怪しい物音を聞いて目がさめた満谷国四郎Click!が、若い奥さんに「泥棒」退治をまかせて邸からさっさと逃げ出したClick!のも、このような頻発する泥棒事件が背景にあったからだろう。
◆写真上:かつて谷儀一邸や村田綱太郎邸があった目白崖線の沿いの下落合1218番地。
◆写真中上:1926年(大正15)8月21日の東京朝日新聞(夕刊)に掲載された逮捕直後の記事。
◆写真中下:上は、1926年(大正15)8月25日に同紙へ掲載された続報記事。下左は、下落合1218番地界隈の風情。下右は、島峰徹邸跡の第二文化村にある延寿東流庭園。
◆写真下:上左は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる下落合1218番地の谷儀一邸(旧・谷千城邸)。上右は、1932年(昭和7)の『落合町誌』に掲載された谷千城。下は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる、第二文化村の高嶺博邸(左)と島峰徹邸(右)。