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以前、大正期から昭和初期にかけての電柱Click!について、あるいは少し前には電柱から引かれる電燈線や電力線のケーブルClick!について書いた。きょうは、さらにその上流にあたる「電力系統網」と呼ばれる、高圧電力の送電塔について書いてみたい。
1932年(昭和7)に淀橋区が成立するまで、落合地域へ電力を供給していたのは公共の電力機関、すなわち東京市の電気局ではなく、私企業である東京電燈株式会社だった。ただし、東京市内でも落合地域に近い牛込区や四谷区、つまり東京郊外に近い市街地では、東京市電気局よりも東京電燈株式会社からの供給量のほうが多かった。
たとえば、1955年(昭和30)に出版された『新宿区史』によれば、落合地域の東に位置する牛込区では、1916年(大正5)現在の「常時燈戸数」(電燈線が引かれた住宅や工場など建物の総数)は23,049戸に及ぶが、内わけをみると東京市の電気局によるものが9,250戸に対し、東京電燈は13,799戸と公営の電力供給を大きく上まわっている。1930年(昭和5)現在でも、東京電燈による電力供給が公営をリードしつづけており、東京市電気局によるものが11,733戸に対し、東京電燈は14,367戸と相変わらず市場では優位に立っていた。
さて、落合地域は東京市郊外(行政区外)の豊多摩郡になるため、東京市の電力系統網は利用できなかった。代わりに進出していたのが東京電燈で、その落合出張所が下落合1386番地に設置されている。この地番は落合第二府営住宅Click!のエリアにあり、第一文化村Click!のすぐ北側にあたる位置だ。1932年(昭和7)出版の『落合町誌』から、電力の普及について引用してみよう。
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本町一般の配電は東京電燈株式会社の独占にて、落合出張所を(下落合一,三八六電話大塚三三一〇)に設置す。現在本町内取付数は(昭和七年五月)使用四万七千八百十二燈、休止九千五百十九燈にして、其の軒数は使用六千五百八十六軒、同休止千百五軒に及べり。
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東京電燈が落合地域(とその周辺域)へおもに電力を供給していたのは、1913年(大正2)から運転を開始した山梨の水力発電所「鹿留発電所」Click!の系統網を通じてだった。そして、大正初期に落合地域へ引かれたのは、目白崖線の麓を通る東京電燈の「谷村線」と呼ばれる電力系統だ。
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それ以前の明治期には、同じ東京電燈の系統網だったと思われる、椎名町(現在の駅名ではなく、その南300~400mのところに江戸期からあった市街地のこと)方面からの支線の供給を受けていた。つまり、東京電燈の落合出張所が置かれた府営住宅が形成されるあたりだ。この系統網は、明治期から計画が進行していた落合府営住宅の建設と無関係ではないだろう。
1917年(大正6)の1/10,000地形図を参照すると、椎名町界隈へ電力を供給していた系統(名称は不明)は北側、すなわち王子方面からの送電によるものであり、系統の終端は長崎村荒井1773番地の北100mほどのところにあった。この終端あたりから、椎名町(現在の目白通りと山手通りの交差点あたり)を経て、目白通り(清戸道Click!)をまたぎ下落合378番地の近衛旧邸Click!まで引かれた電力ケーブルは、「近衛線」と呼ばれて現在にいたっている。
明治期から大正期にかけて、高圧電力の系統網用に建てられた送電塔は、電柱と同様に木製だった。郊外に建設された初期の木製送電塔は、ちょうど「円」の字のような形状をしている。また、送電するケーブルの本数が増えると、「円」の形状が複雑化して支柱の数も増えているようだ。大正初期に妙正寺川沿いへ設置された、東京電燈谷村線の送電塔の姿は、1922年(大正11)に制作された鈴木良三『落合の小川』Click!にとらえられている。
でも、木製の送電塔は台風や落雷などに対して耐久性が低く、また安全面でもいろいろと問題が発生していたのだろう。大正末ごろから、木製の送電塔は鉄塔へと順次建て替えられている。その建て替えられたばかりの谷村線鉄塔が、麦畑の向こうへ1列に並んでいる様子を見て、おそらく絵心を強く刺激されたのだろう、1923年(大正12)ごろから1925年(大正14)の早い時期まで上落合725番地界隈に住んでいた林武Click!が、その様子を風景作品に残している。
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この林武の風景画(無題)は、今年(2012年)に関西の個人宅から発見されたもので、テレビ東京の番組Click!で取りあげられたものだ。大正末ごろに用いられた林のサインから、おそらく「落合風景」にまちがいないと思われる。また、当時の林は作品がたまってくると、関西方面へ「行商」に出かけていた・・・という、本人を含む証言とも一致している。これまで林の作品は、目白文化村の箱根土地本社Click!を描いた『文化村風景』Click!(1926年)しかご紹介できなかったが、近いうちに本作についても描画位置とともに取りあげてみたい。
佐伯祐三Click!も、「下落合風景」シリーズClick!では送電鉄塔を描いている。たとえば、蘭塔坂Click!(二ノ坂)から上戸塚方面を描いた『下落合風景』Click!(1926年ごろ)では、目白崖線の麓にある避雷針つきの高い鉄塔がとらえられている。この鉄塔は、現在の西武線中井駅あたりに建っていたものだろう。描かれた当時、鉄塔の下では鉄道連隊による工事Click!に備えて、線路敷地や駅舎建設予定地の整備が西武鉄道の手で行なわれていたかもしれない。
鉄塔のほかにも、高層の構造物が佐伯の画面にはいくつか描かれているが、火の見櫓あるいは煙突のフォルムなのか、いまいちハッキリしない曖昧な描写だ。そして、遠景には戸塚町上戸塚163番地にあった、谷村線の終端である東京電燈目白変電所Click!と、さらに遠くには関東大震災Click!で建設が大きく遅延Click!していた、早稲田大学・大隈講堂Click!の建設中の姿がとらえられている。
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妙正寺川沿いに連なっていた谷村線の送電鉄塔は、西武電鉄が開通すると間もなく再びその姿を変えている。そそり立つ四角錐の、いかにも鉄塔然としたフォルムは少なくなり、西武線の線路をまたぐように設置された「円」の字に近い形状、つまり明治期に建てられた木製の送電塔の姿へ回帰しているのだ。2007年(平成19)に目白変電所(配電所)が解体されると、同変電所へと通じていた数少ない四角錐の送電鉄塔も廃止になり、いまではケーブルもすべて外されている。
◆写真上:西武新宿線の線路をまたぎ、下落合駅方面までつづく「円」の字形の高圧送電塔。
◆写真中上:上左は、1935年(昭和10)の「淀橋区落合市街図」にみる東京電燈落合出張所。上右は、中井駅の上にかかる高圧送電鉄塔の現状。中は、1921年(大正10)の1/10,000地形図に描かれた目白崖線の麓を走る東京電燈谷村線。下は、大正初期と思われる木製の送電塔。
◆写真中下:上は、1922年(大正11)に妙正寺川沿いを描いた鈴木良三『落合の小川』(部分)。中は、1924年(大正13)ごろの制作とみられる新発見の林武『下落合風景(仮)』(部分)。下は、1926年(大正15)の秋ごろ描かれたと思われる佐伯祐三『下落合風景』(部分)。
◆写真下:上は、1937年(昭和12)に撮影された妙正寺川から眺めた高圧送電鉄塔。下は、戦後の1955年(昭和30)に中井駅の渡線橋から撮影された送電鉄塔群。右へカーブする線路の正面やや左手に見えているのは、上落合863番地の銭湯「三の輪湯」Click!の煙突。