2009年(平成21)12月、4年ほど前の大晦日近くに上落合に残る巨大なサークルに気がつき、大急ぎで記事Click!を書いてアップしたことがあった。改めて計測すると、直径130m超はありそうな、明らかに人工物と思われるサークルが、現在の光徳寺境内にある墓地のあたりを円心として、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にハッキリとらえられている。それが、ずっとひっかかり気になっていたので、改めてサークルとその周辺を歩いてみた。
上落合には、戦前まで「大塚」と呼ばれる字(あざな)が残っていたが、それが早稲田通りと山手通りの交差点付近にあった、直径30mほどの小塚(浅間塚古墳Click!)あたりにふられていた。これは、同古墳(円墳とみられているが、前方部を整地して浅間社を設置した前方後円墳かは未調査で破壊されているので不明)を表現した小字だと考えられてきた。でも、大塚と呼ぶにはあまりに小規模な、まるで陪墳(主墳に寄り添う家臣の墓)レベルの墳丘なのだ。都内に残る大塚という地名に由来し、そこに残る古墳ケースを挙げてみれば、自ずと違和感が生じてくる。
たとえば、世田谷区野毛の小字「大塚」のもととなった野毛大塚古墳は、後円部が直径70m前後の帆立貝式古墳(簡略型の前方後円墳Click!)であり、墳丘の頂上は5階建てビルの最上階に匹敵する高さだ。発掘された周濠域まで含めれば、後円部だけでもゆうに100mを超える規模になる。このクラスであれば、大塚と呼ばれても違和感をおぼえないのだが、上落合の浅間塚は墳丘に富士山の熔岩が積まれて江戸期にかさ上げされ、富士講の信者たちから「落合富士」Click!と呼ばれていたにもかかわらず、大塚にはほど遠い規模のように感じられる。このケースは、「江古田富士」Click!の浅間社とまったく同じ経緯だ。
さて、1936年(昭和11)の空中写真にとらえられたサークルは、なにがこのような黒っぽい写り方をしているのだろう。画面を拡大してみると、別になにかの影が写っているわけではなく、おそらく草原ないしは樹林のような緑地が、濃いグレーの帯としてとらえられているように見える。なぜ、このようにきれいな正円を形成しているのか? ひとつは、ここが湧水池ないしは湧水流の跡で、他の地表に比べ湿潤でぬかるんでおり、草木が繁茂しやすく宅地には適さなかった・・・という想定だ。では、どうして正円形の湧水池ないしは湧水流が必要だったかといえば、それは農耕用水に利用されたからではなく、なんらかの濠と考えたほうが自然だろう。事実、湧水源に近い位置に築造され、その流れを活用した古墳の周濠域にはときどき見られる現象だ。ただし、上落合の現場では、このサークル位置に濠を感じさせる凹地を記録した資料は残っていない。
ふたつめの理由として考えられるのは、この円形のグリーンベルトが土手状に盛り上がっており、農地にも宅地にも適さず、そのまま草木が茂る急段差として残されていた・・・という想定だ。このサークルがあるのは、妙正寺川が流れる谷間へ向け北向きの段丘斜面上であり、その上にさらに盛り土をして正円形の人工構造物をこしらえた・・・ということになる。上落合は、下落合側に比べて宅地開発がやや遅れており、昭和初期までいまだ田畑があちこちに残っていた。ただし、田畑を開拓するには住宅街の造成とは異なり、一面の土地をすべてを規則的に整地して平地・均一化する必要はなく、平地化しやすいところのみを選んで開墾し、自然の段差はそのまま残されるケースが多い。したがって、草木の茂った落差(傾斜)の激しい土手状の段差には手をつけず、江戸期より開墾しやすいところをならして田畑にしていた・・・と考えるほうが自然だろう。
上落合のサークル跡を、実際に歩いて観察すると上記の想定のうち、おそらく後者の可能性が高いことがわかる。現在でも、この急傾斜の土手らしい段差をいくつかの地点で確認することができるのだ。もちろん、現在の地形は戦後のより規模の大きな宅地開発や道路整備を経ているので、空中写真にとらえられた段差と思われるサークルは、多くの場合ブルドーザーで整形され、ならされて跡形もない。だが、北向き斜面のところどころに、残りはわずかながら急に盛り上がる土手状の段差を、いまでも確認することができる。
もうひとつ、面白い考古学的な調査報告書がある。この大きなサークルの北端部分において、1995(平成7)にマンションが道路をはさんで2棟建設されることになり、早稲田大学と新宿区教育委員会の調査団による発掘調査が行なわれている。のちに、「上落合二丁目遺跡」Click!と名づけられるこの遺跡調査で、古墳時代の住居跡が1棟(第15号住居跡)、ナラ時代の土坑(焼き物窯)が5坑(第2~第6土坑)、ナラ時代の住居跡14棟(第1号~第14号住居跡)が発掘されている。その出土位置をみると非常に興味深いのだ。まず、古墳時代の住居跡は、大きなサークルの外側(北西側)に位置している。つまり、このサークルが大規模な墳丘だとすれば、その山の北麓に住居が1棟あったことになる。住居跡は、上落合二丁目遺跡のA地区(上落合2丁目)と呼ばれた発掘エリアの西端にあり、そのさらに西側や南側にも集落がつづいているかもしれないのだが、現在は住宅街の下なので発掘して確認することができない。
つづいて、ナラ時代の遺構がとても興味深い。まず、B地区(上落合1丁目)と呼ばれた発掘エリアの北寄りに2棟の住居跡があり、その周辺には土坑(窯)跡が4つも見つかっている。つまり、ナラ期に入って墳丘と思われる山の北麓(サークル外)に住宅が建てられ、周辺の墳丘斜面に焼き物を焼成する窯がいくつか設置されていた・・・ように見える。ひょっとすると、この2棟の住民は焼き物を専門に生産する土器師(かわらけし)だったかもしれない。土器師と同時期か、あるいはもう少しあとの時代かは不明だが、墳丘の一部を崩して整地し、そのひな壇上に12棟の住宅が建設されている。つまり、ナラ時代には南側にサークル(墳丘)を背負うかたちで、集落(ピンポイント的な発掘なので大規模か小規模かは不明)が形成されていた。
あるいは、この時期に墳丘がすべて崩され、田畑や住居敷地に整形されてしまった可能性もある。上落合二丁目遺跡B地区の南側、すなわちサークル(墳丘)の中心部一帯は、これまで一度も詳細な発掘調査が行われたことはなく、集落が南へ向けて、すなわち斜面の上部へ向けて拡がっているかどうかは不明のままだ。ただし、この地域には戦前のエピソードとして、田畑を耕しているとさまざまな埴輪片や土器片が大量に出土し、それらを取り除くにはたいへんな労力が必要なため、そのまま畝の中へ鋤きこんで埋めてしまった・・・という伝承が残っている。いずれにしても、落合地域の高台や斜面は旧石器時代から現代までつづく、いずれかの時代あるいは通史的な埋蔵文化財包蔵地Click!である可能性がきわめて高い。
また、江戸期に作成された「上落合絵図」には、気になる通俗地名(というか畑地名)が採取されている。光徳寺から少し南下した位置に、「窪畑」と呼ばれた畑地があった。ちょうど、サークルのすぐ南側一帯に接するエリアで、「くぼ」Click!と呼ばれているからには湧水源のある、文字どおり少し窪んだ畑地だったのだろう。では、段丘の北向き斜面であるにもかかわらず、なぜこの部分だけが窪地状にへこんでいたのだろうか? 窪畑は、江戸期までかろうじて残存していたサークル南側の、周濠の痕跡を示唆する地形を表わした名称のように思えてならない。
上落合のサークルは、明らかにリングの東側が切れているので、前方後円墳ないしは帆立貝式古墳だと考えるのが自然だろう。帆立貝式なら200m弱、前方後円式ならゆうに200数十メートルの規模になる。東京では、円墳と伝承されている古墳が、戦後(おもに1980年代以降)の発掘調査で改めて周濠域が確認され、前方後円墳ないしは帆立貝式古墳とされるケースが続出している。その昔、「関東には円墳が多い」といわれていたのは、前方部が破壊された後円部だけを外から観察して「円墳」だと規定されつづけた、結果論的な解釈が多いことも指摘されている。先の野毛大塚古墳もそうだが、近接する御岳山古墳も長い間「円墳」だと規定されてきた。しかし、道路の拡幅工事で改めて周濠域が発掘され、前方後円墳に規定しなおされている。
上落合のサークルが大規模な墳丘だったとして、それが崩された時期はいつだろうか? それを示唆する現象が、実は下落合側の鎌倉街道(雑司ヶ谷道Click!)沿いに観察できる。現在の下落合駅前にあった摺鉢山Click!だが、この墳丘と思われる山を迂回するために、鎌倉街道は南へ幾何学的な半円状のカーブを描いて敷設されている。同様に、中井駅の北東側を通過する鎌倉街道(中ノ道Click!)は、上落合のサークルとほぼ同規模の巨大なサークルを避けるように、北側へ少しはみだした円弧状のカーブを描いている。交通の効率や利便性を考えるのであれば、いまも昔もムダなく直線状に敷かれて当然の街道筋が、あえて幾何学的な円弧を描かざるをえなかったのは、そこに幾何学状の邪魔な“なにか”が存在していたと考えたほうが、むしろ自然だろう。
すなわち、鎌倉時代にはそこに巨大な墳丘が存在していたが、明治期を迎えるころにはすでに跡形もなく消えていた・・・という経緯になる。下落合に残る大規模な墳丘跡とみられるサークルは、おそらく室町期に崩されて農地あるいは住居地にされているのだろう。上落合のサークル痕として残る巨大な後円部の墳丘もまた、江戸期を迎える以前に破壊され、南武蔵勢力の「大王」Click!の存在を示唆する、芝丸山古墳なみの第1級の遺構が消えてしまった・・・と想像できるのだ。さて、大量の房州石Click!が、上落合のどこかに残ってやしないだろうか?
◆写真上:世田谷区に残る帆立貝式古墳(前方後円墳)の野毛大塚古墳を、前方部の周濠底から後円部墳丘を眺めた現状。都内では、めずらしく原形のまま保存・復元された古墳だ。
◆写真中上:上左は、後円部頂上から前方部を眺めたところで高さは5階建てビルほど。上右は、周囲を住宅街に削り取られて「円墳」化したと思われる尾山台狐塚古墳の墳頂。中は、1936年(昭和11)の空中写真にみる上落合の巨大なサークル痕で、円弧の中心には光徳寺がある。下は、サークルから想定した前方後円墳(左)と帆立貝式古墳(右)の規模。
◆写真中下:上は、上落合二丁目遺跡のA地区(左)とB地区(右)の発掘状況。中は、古墳期の第15号住居跡(左)と出土した素焼きの土器(右)。同住居跡からは、ガラスを溶融してこしらえたネックレスなどのビーズも出土している。下は、遺跡とサークルの位置関係および撮影ポイント。
◆写真下:サークル跡の現状で③④には急傾斜が、⑤には明らかに土手状の段差が残っている。下右は、ちょうど玄室があったとみられる位置が光徳寺の墓地。同寺の住職は戦後であり、戦前の無人寺を管轄していた最勝寺Click!は戦災で焼けているので記録は残っていない。