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以前、このサイトで民俗学的なアプローチから、東日本における「御霊(ごりょう)」と「五郎(ごろう)」Click!との関連性について書いたことがある。それは、鎌倉期の落合地域に隣接する和田山(現・哲学堂公園Click!)に、和田氏の館が存在したこととからめ、鎌倉に散在する御霊社(五郎社)Click!と、落合地域の御霊社との相似について書いた記事だ。
鎌倉の御霊社は、もともとは鎌倉幕府Click!以前から延々と存在してきた、この地域に勢力を張っていた古くからの5つの勢力(すなわち鎌倉氏、梶原氏、長尾氏、村岡氏、大庭氏の5家)の祖霊を奉ったのが起源といわれている。これらの勢力は、江戸東京地方の江戸氏や豊嶋氏Click!、房総地方の千葉氏や相馬氏Click!、あるいは埼玉(さきたま)地方の出雲氏Click!や岩井(磐井)氏、栃木・群馬=上毛野地域の足利氏や世良田氏(のち松平・徳川氏)などと同様に、古墳期からつづく武蔵勢力(原日本の大王家Click!=国造Click!とその一族郎党)の末裔だと思われるのだが、これらの祖先を奉った聖域を当時は「五郎社」と称していたようだ。この場合の「郎」は、おもに平安期から用いられている「郎党(郎等)」の意味であり、今日の表現からすると「5家系」「5族」ぐらいの意味になるだろうか。鎌倉の長谷にある御霊社は、地元で伝承されている社名は権五郎社であり、古来の名称をほぼそのまま現代まで継承している社として名高い。権五郎社の冠につく「権」は、のちに仏教思想による「権現」が習合したものだろう。
この「五郎」という名称が、おそらく平安期ないしは鎌倉期に形成された「五郎」伝説、いわゆる「鉄人」伝説と結びついて別の信仰を集めた時期があったと思われる。この場合の「五郎」とは、全身が鋼鉄でおおわれた不死身の英雄のことであり、どのような戦場(いくさば)へ出ても勝利を得られるスーパーマンのような存在だった。ただし、「五郎」には全身の中でたった1ヶ所だけ弱点があり、それが顔の眉間だったり膝下の脛だったりする。「五郎」の化身といわれた平将門は、鼻上の眉間に弱点があり、無敵だった武蔵坊弁慶は脛に“泣きどころ”があった・・・という、のちの「五郎」伝説と結びついたフォークロアがいまに伝えられている。
これらの五郎社は、時代が下り江戸期あたりから明治にかけ、特に関東において多様な“化け方”をしていると思われるのだ。もともと五郎社と呼ばれていた社は、名称の音(おん)が近いことから近畿圏の「御霊」信仰と習合して「御霊社」と呼ばれるようになったり、あるいはまったく別の社に衣がえされたりしているケースが多いと思われるのは、先の鎌倉のケースを見ても想定できる。特に西日本の「御霊」は、執念深い怨霊のたたりを鎮めるための社であり、近畿圏から見た「将門の怨霊」(関西人の視点であり、関東では怨霊ではなく出雲のオオクニヌシとともに江戸東京を守護する地主神Click!だ)と結びつきやすい土壌が、明治以降さらに形成されただろう。
今日、関東にある多くの五郎社(御霊社)の主神が、まったく場違いな「神々」になっているのは、以前、こちらでも南方熊楠の記事でご紹介した、幕末の「国学」にもとづく「国粋」主義的な思想、あるいは日本古来の神々(多くの場合は古代からの地主神)を抹殺する、明治政府の神社合祀令Click!=“日本の神殺し”に端を発しているのは多言を要さないだろう。
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さて、現在でも周辺域には「和田」(中野区)ないしは「大和田」(豊島区)の字(あざな)が伝わる、和田氏が勢力を張っていた鎌倉期の落合地域とその周辺を見わたすと、御霊社がふたつ存在していることは以前にも書いた。すなわち、中井御霊社(旧・下落合)Click!と葛ヶ谷御霊社(現・西落合)Click!だ。これらは今日、なんらかの怨霊を鎮めるために建立されたという説明がなされがちだが、実はそうではないのではないか?・・・というのがこの記事のテーマだ。南武蔵に勢力を張っていた、5氏の祖霊を奉った社へ、後世に「御霊」信仰が習合したのではないだろうか。
そして、もうひとつ気になっている社が落合地域の北側に、地名とともに現存している。長崎地域の五郎窪(五郎久保)に建立されている、五郎久保稲荷社だ。同社は、創立年代が不明なほど古くからある社だが、江戸期に五穀豊穣の神として大流行した稲荷信仰と習合し、現在の姿にいたっているのではないか? もともとは、和田氏の館が存在した鎌倉期には、南武蔵の祖先神を奉る五郎社として建立されているのではないか。でも、江戸期に付近の農民が稲荷を勧請したため、古くからある社は稲荷社としての性格が強くなり、本来の五郎社がいつしか忘れ去られてしまい、地名としてのみ語り継がれてきているのではないだろうか。すなわち、中井御霊社や葛ヶ谷御霊社と同様に、明治以降まで五郎社としての性格が伝わっていたとすれば、長崎御霊社と呼ばれていた聖域ではなかったか・・・というのがわたしの想定だ。
これにより、落合地域とその周辺域には、鎌倉の市街地や“隠れ里”を含めた地域とまったく同様に、五郎社(御霊社)が3つ存在していたことになる。いつごろに創建されたかは不明だけれど、和田山の和田氏が鎌倉から勧請した・・・と考えるのも、ひとつの可能性だろう。ただし、五郎社の由来はさらに古いと考えられるため、それが3社も存在している好地へ、和田氏があえて「縁起かつぎ」から館を建てている・・・という想定も成立する。どちらが先かは不明だけれど、古墳時代以降の落合地域とその周辺を考えるうえでは、大きなヒントを内包しているように思えるのだ。
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余談だけれど、本来は五郎社だったと想定できる五郎久保稲荷を含め、中井御霊社と葛ヶ谷御霊社を直線で結ぶと、東へ口を開けた大きな三角形が形成される。もうひとつ、おそらく北関東の足利幕府時代ないしは徳川幕府時代に勧請されたとみられ、落合地域にふたつ存在している大六天(第六天)社と、現在の椎名町駅の南側に少なくとも戦前まで存在していた第六天とを直線で結ぶと、御霊社とは正反対に、西向きに開口した大きな三角形が形成される。
なぜ、このような配置をしているのか、以前から不可解に感じていたのだけれど、御霊社が「怨霊のたたり」の鎮めと解釈されはじめていた、少なくとも江戸期以降に大六天(第六天)が勧請されていると解釈するならば、その“結界”の中には江戸期よりもっとも発展した街であり、当時の繁華街を形成し江戸郊外ではめずらしく町名で呼ばれていた、「椎名町」(現在の目白通りと山手通りの交差点付近)が位置することになる。
大六天(第六天)は、おもに病魔除け(病気もなにかのたたりとして解釈された時期があった)として、湧水源近くへ建立されるケースが多かった。これは、「久保」「窪」「玖保」の地名考Click!とも直結してくるテーマだ。下落合の諏訪谷にある大六天Click!は、同谷にあった“洗い場”Click!の湧水源に設置されている。また、六天坂の第六天Click!も、前谷戸Click!から流れ出た渓流に近い斜面にあり、おそらく湧水源のひとつだったのだろう。長崎村大和田2015番地(大正期現在)にあった第六天も、谷端川へ向いた斜面上に設置されているので、泉が湧いていたと思われるのだ。
さて、御霊社(五郎社)の巨大な三角形と、大六天(第六天)の三角形がかたちづくる六角形の真ん中に、江戸期の繁華街だった「椎名町」が位置しているわけではない。江戸期の椎名町は、この“結界”のかなり北寄りにあるのだ。やや不定形な六角形の角から、それぞれ対角へ向けて直線を引くと、その交点が1点に集中する、まん真ん中のポイントがある。旧・下落合4丁目1644番地(現・中落合3丁目)、すなわち第一文化村Click!の西外れ、第二文化村の北外れにあたる区画だ。現在では、同区画の南側は十三間通り(新目白通り)にやや削られていると思われる。
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不思議なことに、この区画は戦前戦後を通じて空地のままであり、郊外住宅ブームだった昭和初期はおろか、戦争が終わり住宅建設ラッシュを迎えた時代でさえ、1軒の家も建っていない。人気が高い目白文化村に隣接した、格好の住宅地だったと思われるのだが不思議な現象だ。ちなみに、佐伯祐三Click!はこのポイントのやや北側にイーゼルをすえ、『下落合風景』シリーズClick!の1作「原」Click!を描いている。この原っぱに家が建てられはじめ、空地も少なくなるのは1960年代も後半になってからのことだ。なんらかのいわれや由来があるとすれば、五郎社が怨霊鎮めの「御霊社」として解釈され、大六天(第六天)社が勧請された江戸時代のことだと思うのだが、ちょっと不可思議な符合であり現象なので、継続して追いかけてみたいテーマとなった。
◆写真上:諏訪谷の湧水源上に奉られた大六天は、敷地が狭く三角形に近い境内になってしまった。佐伯祐三は、曾宮一念アトリエClick!をほんの少し入れて同社も作品Click!に描いている。
◆写真中上:上左は、旧・下落合4丁目の中井御霊社。上右は、西落合にある葛ヶ谷御霊社。下は、旧・長崎町五郎窪にある五郎久保稲荷社の拝殿(左)と神輿蔵(右)。もし、江戸期に稲荷が勧請されなければ、同社は長崎五郎社(御霊社)と呼ばれていた可能性がある。
◆写真中下:上左は、諏訪谷大六天。上右は、六天坂の第六天。下左は、椎名町の第六天があった長崎村大和田2015番地(大正期)あたり。下右は、明治末の地図にみる椎名町第六天。
◆写真下:上は、1909年(明治42)作成の1/10,000地形図にみる、江戸期からつづく下落合と長崎地域にまたがった「椎名町」とその周辺。下は、1921年(大正10)作成の同じく1/10,000地形図にみる、この付近の御霊社(五郎社)と大六天(第六天)の配置と形成ライン。