三岸節子Click!は、思ったことを歯に衣を着せずズバズバと発言する一本気な性格から、周囲には敵が多かった。特に同性の画家たちの間では、生涯の友である藤川栄子Click!を唯一の例外として、親しい友人はほとんどひとりもいなかったといっていいかもしれない。あるとき、女子美術大学から招かれて出かけ、女学生たちを前にに「あなたたち、こんなとこで勉強してちゃダメよ」という趣旨の講演をし、同校で教鞭をとっていた女流画家協会の森田元子を激怒させた逸話が伝わるなど、例をあげればキリがない。画家仲間にはうとまれた彼女だが、そのかわり同性の作家たちには親しい友人が何人もいた。昭和初期から鷺宮のアトリエClick!で制作していた三岸節子だが、戦後、近くには次々と親しい作家たちが集まるように転居してきている。
藤川栄子は、三岸節子が上鷺宮へアトリエを建てて住むようになってからも、高田馬場駅から西武線に乗ってしばしば彼女のもとを訪問している。その様子を、1999年(平成11)に文藝春秋から出版された、吉武輝子『炎の画家 三岸節子』から引用してみよう。
▼
高田馬場時代から、近所づき合いをしていた藤川栄子は、節子とは気が合い、鷺宮の家にもしょっちゅう遊びに来ていた。がらがら声であけっぴろげな藤川栄子は、陽子の目には気さくなおばさんといった感が深かった。(中略) 表裏のない気質も、男に媚びぬ勝ち気さも、そして極めて短気なところもこの二人は似通っていた。だから数少ないというよりは、唯一人の同業の女友達で終生あり続けたのだろう。/すべて第一号で突っ走ってきた節子への嫉み、妬みは男性画家だけではなく、女流画家の間にも渦巻いていた。男性社会の画壇の中で、女流画家が確かな基盤を作り上げていくためには、男性画家の庇護を必要とした女性も少なくなかったのではないか。
▲
鷺宮の三岸アトリエを頻繁に訪れていた、ほとんど唯一の洋画家・藤川栄子について、実際に何度も接したことのある三岸夫妻の長女・陽子様から、じかに彼女の印象をうかがってみよう。
▼
あの人と、いちばん仲がよかったのね。あの人はね、ざっくばらんな人なのよ。よく遊びに来てました。さっぱりしてるの。子どもへも大人へも同(おんな)しようにしゃべるし、いい人でしたよ。
▲
文学好きという点でも、ふたりの趣味は一致していたようで、藤川栄子が次々と紹介したのだろう、佐多稲子Click!や壺井栄Click!など共通の友人たちが多かった。吉武輝子も書いているが、なにかと競争意識が芽生える同じ画家仲間よりも、三岸節子はまったく異なる仕事をする作家の中に女友だちを求めたようだ。先日、三岸アトリエ2階の資料整理をお手伝いしたとき、画集や図録、美術雑誌のほかに目についたのは、文学関連の書籍だった。特に、佐多稲子と壺井栄の作品には必ず贈呈のサインが入れられており、ふたりは本が出版されると三岸節子へ贈っていたのだろう。壺井と佐多は戦後、上落合あるいは上戸塚(高田馬場)から鷺宮へ移り住んでいるのをみても、その親しさをうかがい知ることができる。
三岸節子は、本の装丁の仕事も数多くこなしているが、中でも佐多稲子と壺井栄の作品は多い。ほかにも、落合地域ではおなじみの檀一雄Click!や林房雄Click!、舟橋聖一Click!、林芙美子Click!、岸田国士Click!をはじめ、太宰治Click!、広津和郎Click!、獅子文六Click!、今東光Click!、大岡昇平Click!、高田保Click!、武田泰淳、川端康成、福田恆存、火野葦平、円地文子、大佛次郎Click!、石川達三、井上靖、司馬遼太郎、宮尾登美子などの作家たちから、多くの場合ご指名で制作を依頼されていたようだ。だから、三岸アトリエは出版関係者の出入りも多かっただろう。旧・下落合4丁目(現・中井2丁目)の目白学園で講師をしていた伊藤整が翻訳し、戦後に「チャタレイ裁判」で話題になったD.H.ロレンス『チャタレイ夫人の戀人』も三岸節子の仕事だ。
三岸節子は、1957年(昭和32)に軽井沢の山荘にこもって仕事をするが、その周辺は女性作家が別荘を連ねるエリアだった。制作上のスランプと、菅野圭介Click!をめぐる精神的なダメージを受けての“山ごもり”だったが、周囲に別荘をもっていた親しい作家たちが気づかいを見せている。
節子の軽井沢山荘は、あめりか屋Click!によって大正の早い時期に建てられた別荘で、当初は後藤新平が住んでいたといわれる、通称「一号館」と呼ばれたモダンな近代建築だった。軽井沢での三岸節子たちの様子を、吉武輝子の『炎の画家 三岸節子』から再び引用してみよう。
▼
避暑のシーズンには、中軽井沢は女流作家村といった感が深かった。戦後は女流作家も、女流画家同様、文学者としての不動の地位を築き上げた人たちが多く、かつてのプロレタリア作家たちも、避暑用の山荘を中軽井沢に建てたり借りたりすることができるようになっていた。/佐多稲子、芝木好子、野上弥生子、壺井栄、林芙美子、まだ当時新人扱いだった大原富枝などの女流作家は、一軒がご飯を炊くと、それぞれがおかずを持って集まり、なにかというと文学論に花を咲かせたり、文学界のゴシップに打ち興じたり、時には夜を徹して花札を打つこともあった。/佐多稲子は、節子のことが案じられてならなかった。いつ行ってもカンバスは真っ白。ベランダの椅子に手足を打ち捨てたように座り、飽かずに浅間山を見ていたり、雉の姿を目で追って行ったり。内に籠もろう籠もろうとする、いささかやつれの目立つ節子を時折強引に、女流作家の集まりに誘った。(中略) 「軽井沢は文学にはなるけれど、あまりにも灰色で、絵にはなりにくい」/と節子がぽつりと呟いたことがあった。/節子に限り無いやさしさを見せたのはロシア文学者の湯浅芳子だった。/おいしい煮物ができたからと届けに来たり、珍しい敷物を持ってきてくれたり、花瓶に山の花を活けて持ってきてくれたり。
▲
三岸節子の文学好きは、晩年までまったく変わらなかったようだ。長女・陽子様Click!は、大磯のアトリエClick!へ出かけるたびに、さまざまな文学作品をクルマに積んで運びつづけている。
▼
あたしが本をもってくと、ほんとうに喜んでね。それで、本をもってくと(読み終えたあとに)、このくらいの小説ならわたしにも書ける・・・とかね。えらそうなこと、いってるの。(笑) こんな簡単なの、できるよね~・・・とかね。(笑) (カッコ内は筆者註)
▲
このときの陽子様は、大磯の代官山にあったお母様のアトリエを夕方ごろ発つと、当時は平塚の病院へ入院していた三岸好太郎の妹で、活花の師匠だった三岸千代のもとを見舞っている。三岸好太郎の死後、「好太郎がよそに女をつくるのは、あなたがいたらないからだ」とか「好太郎が早死にをしたのは、あなたのせいだ」などと、軋轢が絶えなかった義母・三岸イシと義妹・千代を追いだした三岸節子だが、戦後に鷺宮へ訪ねてきた千代とは和解して、絵画と活花のコラボレーション展をデパートで開催したりした。早朝に鷺宮をクルマで出発して、大磯と平塚をめぐり途中のパーキングエリアでつかの間の仮眠をとったあと、夜遅くに鷺宮へと帰宅していた陽子様だが、これも昭和初期の困難な時期に築かれた“女縁”といえるのかもしれない。
◆写真上:鷺宮の三岸好太郎・節子アトリエで、南面する大きな採光窓から見た旧・玄関跡。戦前戦後を通じ、三岸節子を訪ねてさまざまな人びとがこのエントランスを歩いただろう。
◆写真中上:上は、1948年(昭和23)ごろに撮られた女流画家協会の審査風景で前列左から森田元子、佐伯米子Click!、島あふひ(あおい)、遠山陽子、そして手前で中腰の藤川栄子。藤川栄子は、「あんたたち、これを入選させないで、いったいどこを観てるのさ!」と、居並ぶ審査員にハッパをかけていそうだ。下は、三岸節子と特に親しかった佐多稲子(左)と壺井栄(右)。
◆写真中下:上は、1963年(昭和38)に三月書房から出版された佐多稲子『女茶わん』(左)と内扉に書かれた三岸節子への贈呈サイン(右)。下は、1949年(昭和24)に冬芽書房から出版された壺井栄『妻の座』(左)と贈呈サイン(右)。いずれも、三岸節子の装丁デザインではない。
◆写真下:三岸節子が手がけた装丁デザインの書籍類で、1959年(昭和34)の佐多稲子『私の東京地図』(上左)、1960年(昭和35)の壺井栄『どこかでなにかが』(上中)、1957年(昭和32)の檀一雄『光る道』(上右)、1960年(昭和35)の舟橋聖一『ある斜面の夏子』(下左)、1952年(昭和27)の林房雄『妻の青春』(下中)、そして1953年(昭和28)の岸田國士『落葉日記』(下右)。三岸アトリエの資料整理でお借りしている、いずれも2006年(平成18)に開催された一宮市三岸節子記念美術館Click!の主催による「三岸節子と装丁展」図録より。