先日、新井薬師の近くを歩いていたら、昭和の初期、東京郊外の人口が急増したときに創立された上高田小学校にぶつかった。野方町で4番目にできた小学校なので、「野方第四尋常小学校」と呼ばれた時代もあったようなのだが、設立された時期は落合第四小学校Click!より7年も早い。上高田小学校の校庭では、子どもたちがサッカー遊びをしていたのだが、そこに小学校があることにまったく気づかなかった。近くに学校があれば、道を歩いていると必ずチャイムの音色が聞こえたはずなのだが、最近は近隣騒音になるということで、かなり音を絞っているようだ。小学校のチャイムは、いつからこんなに小さくなってしまったのだろうか?
校庭に流す音楽のサウンドが、やたら大きくても困るClick!のだけれど、まったく聞こえないのも寂しい。以前は、落合第四小学校のチャイムがよく聞こえていたはずなのに、最近はほとんど聞こえなくなった。その音が、どれほど下落合の住宅街に響いていたか、1970年代のドラマである『さよなら・今日は』Click!の録音を聴くと、改めて確認することができる。家の中にいても、かなり大きく聞こえたチャイムは時計がわりで、生活のひとつのリズムのようになっていただろう。
そういえば、落合第四小学校が運動会を開催する数日前になると、子どもたちが演技をする際に校庭で流す音楽を気にしてか、「何卒ご理解をいただければ・・・」というようなチラシがポストに入るようになった。きっと、学校のチャイムの音や放送、音楽などに苦情をいう住民の方がいたのだろう。家の中にいたのでは、いまやチャイムはほとんど聞こえない。
上高田小学校にバッタリと行きあたったとき、「かみたかだしょうがっこう」と口に出してつぶやいたのだが、そのとたんになにかがひっかかった。なんだか、懐かしい気がして記憶をたどってみたのだが、とんと思いだせなかった。このところ、落合地域の西隣りである上高田地域の資料Click!をいろいろ漁って調べる機会が多いのだが、なにがひっかかったものか、昔の上高田資料を調べていてもまったく思いあたらない。こういう気持ちの悪い感触は、これが初めてではなく何度となくあるのだが、たいがい心当たりの資料を読み直してみると、ひっかかった原因がやがて明らかになる。でも、上高田小学校にはまったく心あたりがなく、漠然としたひっかかりだった。
上高田小学校ができた当時の様子を、1982年(昭和57)に出版された細井稔・加藤忠雄・中村倭武共著による『ふる里上高田の昔語り』から引用してみよう。
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更に続く関東大震災後の人口の急増、住宅の増加で、(野方尋常小学校の)折角の新校舎も収容能力の限界に達した。そこで大正十四年、町会で次のように決議された。/第四小学校は、予算とし七萬四千四百二十八円、用地は東光寺の所有地、上高田の現在地に。(中略) 第四小学校は、当時の上高田三七二番で、敷地、運動場共二三二八坪〇三勺、総建坪五七九坪、この工事金七万五千円弱であった。当時、校庭植樹用に、我々土着の家がら(ママ)、多くの木々が寄贈された。校門の門かぶりの松をはじめ、桜や外の木々も、当家で寄付させてもらったのが、相当大きくなった。(カッコ内は引用者註)
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ある日、突然、上高田小学校のなにに引っかかったのかがわかった。わたしは駅を利用するとき、地下鉄へ連絡している高田馬場駅まで歩くことが多いのだが、JR高田馬場駅Click!の発車チャイムは、もちろん『鉄腕アトム』だ。駅が近づくと、チャイムの音が徐々に大きくなる。目白駅の横断歩道を、「♪と~りゃんせと~りゃんせ」と唄いながらわたる某俳優ではないけれど、わたしもつい「♪心やさし~ラララ 科学の子~」と口ずさんでしまう。そして、「あっ!」と気がついた。『鉄腕アトム』の主題歌は、上高田少年合唱団が唄っていたのだ。いや、『鉄腕アトム』ばかりではない、『スーパージェッタ―』も『宇宙少年ソラン』も、戦後のラジオやTVから流れていた子ども向け番組の主題歌は、その多くが上高田少年合唱団だった。
外出先では、打ち合わせそっちのけで上高田小学校のWebサイトを確認すると、1953年(昭和28)から1958年(昭和33)まで、さまざまな音楽コンクールの受賞歴が掲載されている。これらのコンクールは、すべて「合唱」部門での受賞なのだろう。同校のサイトから引用してみよう。
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昭和28年11月03日 全国唱歌ラジオコンクール全国大会優勝
昭和29年11月03日 全国唱歌ラジオコンクール全国大会優勝
昭和29年11月15日 第8回全日本学生音楽コンクール全国大会優勝
昭和33年03月22日 日本放送主催学校音楽コンクール優勝
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上高田小学校を母体にして、上高田少年合唱団は結成されていたのだ。この学校へ1948年(昭和23)に赴任した、奥田政夫という教諭が同校の生徒を集めて合唱部をつくり、1950年(昭和25)の「全日本学生音楽コンクール」でいきなり東日本1位になっている。つづいて、1953年(昭和28)に「NHK全国唱歌ラジオコンクール」で全国1位になった。
このころから、合唱団に目をつけた放送局が、ドラマの主題歌を上高田少年合唱団へ依頼する機会が増えていったようだ。吉永小百合も出演していた、「♪剣をとったら日本一の~」のラジオドラマ『赤胴鈴之助』をはじめ、「♪ぼ、ぼ、ぼくらは少年探偵団~」の『怪人20面相』、『笛吹童子』、『流星王子』、TVドラマ『まぼろし探偵』、『鉄腕アトム(実写版)』・・・などなど、当時の少年向きラジオ・TVドラマの代表作は、ほとんど上高田小学校ないしは上高田少年合唱団の仕事だ。これらの番組は、わたしの一世代前のものだけれど、わたしの世代では先に挙げたアニメのほか、『ビッグX』、『レインボー戦隊ロビン』(後期)、『わんぱく探偵団』、『キャプテンスカーレット』・・・と、当時の人気番組をほとんど片っぱしから総ナメなのだ。
上高田小学校の合唱団は、その歌声がビジネスとして成立するとともに上高田小学校児童という名前を用いるわけにはいかず、「上高田少年合唱団」として仕事をしていった。数年ののち、奥田教諭が異動で練馬区の小学校へ移ったあとも、合唱団は解散せずに転勤先の小学校生徒たちも含めて、上高田少年合唱団はその後もずっと存続し活躍をつづけていった。
JR高田馬場駅では『鉄腕アトム』の発車チャイムが鳴り響き、早稲田通りのガード下には、手塚プロダクションによる手塚治虫が産んだキャラクターたちの、大きな壁画が描かれている。いまもアトムの銅像がある手塚プロダクションは、早稲田通りに面したビルから少しだけ移転し、戸山ヶ原の西側、第一次世界大戦の塹壕戦を意識したものか、筋状の塹壕Click!がいくつも掘られていた陸軍の演習場跡(1917年現在)で健在だ。当時の上高田小を卒業した生徒たちは、新井薬師駅から西武線に乗り高田馬場駅で降りるとき、いまでもどこか誇らしい気分になるのだろう。
◆写真上:新井薬師駅の近くにある、今年で創立87周年を迎えた中野区立上高田小学校。
◆写真中上:上高田小学校は戦災で全焼したが、戦後に新装なった藤田校長時代の校舎。
◆写真中下:上は、高田馬場駅のガード下に描かれた手塚治虫のさまざまなアニメキャラクターたち。下左は、懐かしい『ビッグX』(1964年)のクレジットにみる「上高田小学校」。同小学校と並んで、作詞が谷川俊太郎で作曲が富田勲のクレジットがにわかに信じられない。下右は、『わんぱく探偵団』(1968年)のクレジットにみる「上高田少年合唱団」。
◆写真下:左は、旧・上戸塚の藤川栄子アトリエClick!や横井礼似アトリエClick!の裏にある現在の手塚プロダクション。右は、以前は早稲田通りの歩道脇にあった鉄腕アトムの像。