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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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貴重な外山資料と笠原作品いろいろ。

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笠原アトリエ(昌代様).jpg
 以前、独立美術協会Click!で活躍した児島善三郎のご子孫の方からお送りいただいた写真類や、外山卯三郎Click!のご子孫の方からお送りいただいた結婚式の記帳資料、さらに外山の妻である一二三(ひふみ)夫人が絵を習いに通っていた、笠原吉太郎Click!のご子孫の方からお送りいただいた作品類などを、記事でまとめてご紹介Click!した。
 きょうは、外山卯三郎・一二三夫妻のご子孫である次作様から、引きつづきお送りいただいた戦災で焼け残った結婚式の記帳簿と、笠原吉太郎の三女・昌代様の長女である山中典子様Click!よりお送りいただいた、いまだ紹介されていない作品画像とを併せてご紹介したい。
 下落合1146番地に実家があった、外山卯三郎のご子孫にあたられる次作様からお送りいただいた記帳簿は、前回にご紹介したものの残りの部分ということだが、これでも記帳簿のすべてではないように思える。おそらく、他の部分は空襲で焼けてしまったか、あるいは水をかぶるなど、なんらかの理由で滅失してしまったものだろう。今回お送りいただいた名簿の中には、前の記事でも触れたとおり、やはり1930年協会Click!で親しかった画家たちの署名が見えている。すなわち、前田寛治Click!小島善太郎Click!の記載がはっきり確認できる。しかし、いちばん親しかったはずであり、いっしょに井荻の西武鉄道住宅地へ家を建てて、ほぼ同時期に引っ越すほどの深いつき合いのあった、里見勝蔵Click!の名前がない。
 このことからも、記帳簿には現在まで伝わっていない、ほかの部分が存在していたことをうかがわせるのだ。また、前回の記事にも書いたけれど、外山卯三郎が野口一二三と知り合うきっかけになったと思われる、下落合679番地の笠原吉太郎・美寿夫妻Click!もこの式には出席していたはずだ。笠原家の長男・義男様の連れ合いである笠原光子様の署名が残り、かんじんの笠原吉太郎・美寿夫妻の記載がないのが不自然なのだ。
 ほかの記帳者の名前を見ると、やはり外山の一方の仕事である文学関係者によるものが多いのだが、美術分野に関係のある人物としては、洋画家であり詩人でもある高村光太郎Click!が目につく。1930年協会の小島善太郎は、新宿中村屋Click!の裏にあった柳敬助のアトリエClick!へ絵を見せに出かけ、そこでたまたま作品をもって来訪中だった高村光太郎と、太平洋画会Click!の先輩である中村彝Click!に遭遇して、持参した作品を見てもらっている。また、洋画に関係のある人物としては、マージョリー西脇(二科会/西脇順三郎夫人)と中川紀元(二科会)の名前が見えている。記帳名簿を拝見していると、文学分野(特に詩領域)と美術分野(西洋画)の双方から、当時は最前線で活躍していた人物たちを披露宴に招いた・・・、そんな気が改めて強くしている。
外山卯三郎結婚式01.JPG
外山卯三郎結婚式02.JPG
外山卯三郎結婚式03.JPG 外山卯三郎結婚式04.JPG
外山卯三郎結婚式05.JPG
 さて、山中典子様からお送りいただいた作品群は、フラッシュによる画面の反射もなく、描かれたモチーフを細かく観察することができる。まず、笠原吉太郎・美寿夫妻の三女・昌代様、すなわち山中典子様のお母様がピアノを弾く、『ピアノを弾く少女』(仮/キャンバス)が印象的だ。昌代様が小学生のころ、大正末か昭和の最初期のころに描かれた、下落合679番地(のち680番地)の笠原邸内を写したものだ。(冒頭写真) 昌代様は当時、近くの落合第一小学校Click!へ通っており、同時にピアノも習っていたのだろう。いかにも、山手の家庭らしい雰囲気の作品だ。
 次に、室内を描いたと思われる『室内風景』(仮/キャンバス)には見憶えがある。前回にご紹介した作品の中で、『室内風景』と仮題した画面と同一のものだ。マガジンラックのように見えていた手前のかたちはストーブであり、フラッシュでよく見えなかった天井へとのびる煙突も、はっきり確認できる。やはり、笠原邸内の一室を描いた作品で、籐椅子に座ってなにか熱心に書いているのは、昌代様の妹である四女・妙子(多恵子)様のように見えるとのことだ。妙子様は、成人して結婚したあと、ほどなく嫁ぎ先で早逝している。
 ほかには、海を描いた作品が多い。キャンバスの裏に『房州』と書かれた作品は、浜辺に引きあげられた舟の艫(とも)をアクセントに、岩場の多い房総の海岸線を描いている。千葉県の海岸線は、大正期より多くの画家たちがスケッチしてまわった風景Click!であり、笠原吉太郎も画道具を手に各地をめぐったものだろう。もう1作の『海岸風景』(仮/板)も、岩場の多さや海岸線の雰囲気から、房総半島のどこかの地で写生した可能性がある。海の絵は、いずれも厚塗りだ。
笠原アトリエ(妙子様).jpg
房州.jpg 海岸風景.jpg
 船を描いた、印象的な作品もある。房総へとわたる連絡船上の風景だろうか、サインの下に「31」という数字が見えるので、1931年(昭和6)のスケッチ旅行で描かれた作品だろう。船尾と思われる甲板に、クレーンからロープで吊り下げられた貨物や、球体の大きな物体が描かれている。貨客船と思われる甲板に積まれた、大きな黒い球体は港へ着くと同時に海へ投げ込まれる、船の係留ブイ(浮標ブイ)だろうか? 深海の潜水艇のようにも見えるが、時代からしてそうではないだろう。背景の海面には、船のたてるウェーキーや離れていく陸地(山々)が見えているようで、この貨客船が出航した直後であるような感触をおぼえる。
 もう1枚も船の絵で、入港する貨客船を描いていると思われる。『貨客船』(仮/キャンバス)は、描いたあと一度キャンバスを木枠から外し、丸めて保管された時期があったらしく、厚塗りの画面にタテのクラックが多く生じている。フランスから送られた佐伯祐三Click!の作品群も、ほとんどがキャンバスを木枠から外され丸めて運ばれているが、日本へ到着後すぐに木枠へと張りなおされているため、それほどのダメージは受けていない。『貨客船』(仮)は長い期間、木枠から外されて保管され、絵具が完全に乾ききってから張りなおされたために、クラックが生じたように思える。タグボートに曳航され、接岸する直前の貨客船を描いているが、ひょっとすると国内作品ではなく、中国へスケッチ旅行をした際の情景なのかもしれない。
 最後の1枚は、「満州」旅行の際に街角風景を描いたものだ。『易者』(仮/板)は、中国の街中で占筮(易で用いる細い竹棒)を使って占いをする易者を描いていると思われ、一連の中国シリーズのひとつに位置づけられる作品だと思われる。右側には客がおり、易者はなにか易経の“参考書”を参照しながら、卦で吉凶を占っている最中のようだ。
 数多くの『下落合風景』Click!を含め、すでにあちこちに散逸してしまった笠原吉太郎作品だが、山中様の手もとにまとめて残るこれらの作品は、大正末から昭和初期の絵画表現を知るうえでは貴重な画面だろう。また、笠原吉太郎が出品していた1930年協会展や、朝日新聞社で開催された個展の様子を知ることができる、またとない資料でもある。
甲板風景.jpg
貨客船.jpg 易者(満洲).jpg
 ご報告をひとつ。以前こちらでもご紹介した、林芙美子Click!手縫いの「ちゃんちゃんこ」Click!だが、それを着たご本人であり所有者の炭谷太郎様Click!が、新宿区へ同品を寄贈されることになった。この11月17日から2014年1月26日まで、新宿歴史博物館Click!で開かれる「生誕110年 林芙美子展-風も吹くなり 雲も光るなり-」に出品される予定とのこと。わたしも、夫・手塚緑敏が描いた未知の「下落合風景」が展示されていないかどうか、同展を観にいきたい。
林芙美子展チラシ.jpg

◆写真上:笠原邸内を描いた、大正末か昭和初期の笠原吉太郎『ピアノを弾く少女』(仮)。
◆写真中上:外山卯三郎・美寿夫妻の結婚式披露宴で記帳された名簿で、空襲で焼けた井荻の邸跡からかろうじて回収された。ただし、他の1930年協会の画家たちや、一二三夫人が師事していた笠原吉太郎や美寿夫人の名前がなく、滅失した記帳簿があるように思われる。
◆写真中下は、昭和初期に制作されたとみられる笠原吉太郎『室内風景』(仮)で、描かれている少女は四女・妙子様と思われる。下左は、房総半島の海岸線を描いた笠原吉太郎『房州』。下右は、やはり雰囲気の似た海岸線を描いた笠原吉太郎『海岸風景』(仮)。
◆写真下は、航行中の貨客船の船尾甲板を描いたとみられ、1931年(昭和6)に制作されたと思われる笠原吉太郎『甲板風景』(仮)。下左は、入稿寸前の船を描いた笠原吉太郎『貨客船』(仮)。下右は、中国シリーズの1作で街角の占い師を描いた笠原吉太郎『易者』(仮)。


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