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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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目白駅周辺で目撃された中国兵。

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下落合四丁目バス停前.JPG
 目白通りClick!は、郊外演習を終えた陸軍の中隊あるいは小隊が、行進をしながら帰営するのによくつかわれたルートのようだ。おそらく、第一師団Click!あるいは近衛師団Click!の士官と兵士たちなのだろう。ときどき、騎馬の兵や士官たちも見られ、下落合界隈で大休止Click!や小休止をとっていたようだが、これは戸山の近衛騎兵連隊Click!の兵士たちだろう。また、戸山ヶ原Click!で演習を終えた部隊が、周辺を分列行進しながら帰営することもあったかもしれない。
 1940年(昭和15)ごろ、目白通りを進む陸軍の長い分列行進(大隊・中隊レベルの行進だろうか)を、途中からまっぷたつに横切った女性の話が、2006年(平成18)発行の『私たちの下落合』(落合の昔を語る集い・編)に収録されている。こんな大胆なことをやってのけたのは、こちらでもご紹介したことのある森山周子様だ。森山様には、七曲坂Click!に建っていた巨大な洋館の大嶌子爵邸Click!について取材させていただき、またお祖父様が建築家として所属していた服部建築土木事務所Click!による、下落合の建築作品の取材でも森山崇様ともどもお世話になっている。
 目白通りを分列行進していた陸軍は、騎馬の士官を先頭に日の丸を掲げていたというから、かなりの大部隊だったのだろう。おそらく、先頭にはラッパ手もおり進軍ラッパを吹いていたかもしれない。森山周子様が、「もう、それどころじゃないのよ!」と分列行進を横切ったのは、アイロンをちゃんと始末したかどうか気にされていたからだ。森山様は、ちょうど行軍部隊の真ん中を突っ切っているのだけれど、彼女の豪胆さもさることながら、横切られた部隊の兵士たちはさぞかし面食らっただろう。でも、その理由を聞いたらもっとビックリしたかもしれないのだが。w それでは、同冊子に収録された、森山周子様ご本人による「目白通りでのある出来事」から引用してみよう。
  
 昭和十五年の頃と思いますが、たまたま現在の下落合四丁目バス停の向こう側(北側)の歩道からこちら側(南側)へ渡ろうとして足を踏み出したところ、右手方面(椎名町のほう)から軍隊が行進してきました。国旗を右手に高く持ち、馬に乗った兵士が一人先頭を進み、その後を少し離れて百人か、二百人かはっきり分かりませんが、かなりの数の兵士が隊列を作って後から後から続いてきます。/それを見送っているうちに私はふと、家を出る前にアイロンを使っていたことを思い出しました。後始末をきちんとしてきたかどうか、気になりだすと、しだいに不安になりました。しかし、長い兵士の列はまだまだ続き、不安はますます高まります。ついに心配でたまらなくなった私は、軍の行列の隙間をさっと駆け抜けました。とたんに、「バカヤローッ」と大声で怒鳴りつけられましたが、立ち止まることもなく、そのまま家に飛んで帰りました。/家に帰ってみると、アイロンは間違いなく後始末してあり、何事もなくほっとしました。しかし今度は、軍隊の行列を横切って通り抜けたことが気になってきました。/「お国」の軍隊が通っていく行列を遮ったのです。「国」とか「軍隊」といえば、ふつうの人間が、それに逆らったり、その邪魔をしたりするなんて考えられないような時代です。もし見つかったらとんでもないことになるのではないか、何か罰を受けるのではないかと心配で、心配でなりませんでした。それから十日ほどは家から一歩も出ないでおりました。/何事もなく日々が過ぎ、一か月ほどたって、やっと心がのびのびして、ふつうに外に出掛けることもできるようになりました。
  
目白通り1935頃.jpg
旧目白駅階段.jpg 旧目白橋欄干.JPG
 どうやら、警察も憲兵隊もやってこなかったところをみると、行進部隊からその行為を通報されなかったようだ。ただし、兵士の間では、目白通りを行軍すると若い女性が部隊を横切る・・・というエピソードが、帰営してからもしばらくは語り継がれたかもしれない。どなたか、そのような風聞を憶えておいでの、元陸軍関係者はいらっしゃるだろうか? 余談だけれど、うろ憶えで恐縮だが向田邦子Click!のエッセイにも、陸軍の行進を横切った話がどこかに登場していたかと思う。
 さて、その陸軍の作戦中枢である市ヶ谷の参謀本部に勤務していて、その“神がかり”的な精神論と非論理性や組織的な腐敗から、陸軍という存在自体を「いつさい無価値」であり、「責任を問うべき醜悪」な集団であると断罪する日記を書いていた、当時は東京帝大生の中井英夫Click!は戦後、作家として旧・下落合の西部へ住みつくことになる。
 陸軍が武装解除され解散したあと、目白通りには中国軍の兵士の姿が目につく時期があったようだ。特に、目白駅周辺ではよく目撃されている。戦後しばらくして、旧・下落合4丁目2123番地(現・中井2丁目)に住み、代表作のひとつである『虚無への供物』Click!を執筆した中井英夫は、戦後もつづけていた日記Click!へ、当時の目白駅界隈の様子を記録している。『続・黒鳥館戦後日記-西荻窪の青春-』(立風書房)から、1947年(昭和22)10月6日の記述を引用してみよう。
  
 十月六日 ゆふべより雨
 (中略) 昨夜、目白駅、妖艶なる支那美人ふたり、化猫のごとき支那兵とあり。/目白風なインテリ、といふものがあるらしい。みな、横顔端麗なり。/発見ひとつ、高田の馬場はタカダノババとよむらしい。/高橋義孝先生宅。べつだんの御話なし。千枚の「生命」なる原稿あり。
  
中華民国公使館官舎1926.jpg 中華民国公使館官舎1938.jpg
 中井英夫もまた、高田馬場駅Click!を徳川幕府の練兵場である「たかたのばば」と同じ発音で呼んでいたものが、それとは無縁の「たかだのばば」であることを、このとき初めて認識している。それはともかく、ここに記録された「支那兵」とは、日本を占領するために進駐してきた連合軍の一員である、中華民国軍の兵士たちだろう。なぜ、中国軍兵士の姿が目白駅とその周辺で見られたのだろうか? おそらく、近くに連合軍が接収した施設があったと思われるのだが、もうひとつ、下落合には戦前から気になる施設が存在している。
 旧・下落合326番地(現・下落合2丁目)には、おそらく大正時代の早い時期に、中華民国公使館官舎の大きな建物が建設されている。中国人学生の留学先である目白通りの東京同文書院Click!目白中学校Click!や、上屋敷の宮崎滔天邸Click!、その南にあたる下落合538番地の川島邸(別邸?)から、池袋駅西口の豊島師範付属豊島小学校へ通っていた「東洋のマタ・ハリ」こと川島芳子Click!(愛新覚羅顕紓)など、なにかと革命前後の中国とのつながりが濃い下落合とその周辺なのだが、その関係が機縁となって中国軍が進駐していたものだろうか? この公使館官舎は、1944年(昭和19)に撮影された空中写真には見えているので、1945年(昭和24)5月25夜半の山手空襲Click!で焼失していると思われる。
 七曲坂の庚申塚Click!に隣接する、この中華民国公使館官舎について地元の方々へうかがっても、はっきりしたご記憶をお持ちの方はおられない。昭和初期に落合第四小学校Click!へ通われており、権兵衛山(大倉山)Click!の近くを通過され、取材でお世話になっている堀尾慶治様Click!斎藤昭様Click!杉森一雄様Click!などのご記憶もはっきりしない。これはわたしの想像だが、1931年(昭和6)の「満州事変」以来、下落合の同公使館官舎は機能しておらず、日中戦争の激化とともに廃屋同然になっていたのではないだろうか。空中写真で見ても、その屋根の規模からして大きな建物だったことがわかるのだが、地付きの方にうかがっても同館の印象はきわめて薄い。
中華民国公使館官舎1936.jpg 中華民国公使館官舎1944.jpg
 本国で弾圧されていた、民主主義者Click!社会主義者Click!など革命の亡命者たちも含め、なにかと中国とのつながりが濃い落合地域とその周辺域(新宿地域)なのだが、目白駅周辺で進駐してきた中国兵の姿が見られたのも、なにか戦前からの深い機縁やつながりを強く感じるのだ。

◆写真上:森山様が陸軍の分列行進を突っ切った、下落合四丁目バス停あたりの目白通り。
◆写真中上は、ときどき陸軍が行進していた1935年前後の目白通りで小川薫様Click!のアルバムより。は、旧・目白駅のコンクリート階段()と駅前に保存された目白橋の欄干()。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」に描かれた中華民国公使館官舎。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる同官舎。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる中華民国公使館官舎。は、1944年(昭和19)の空襲直前に撮影された同官舎。現在は、宅地と落合中学校のグラウンドになっている。


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