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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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マンガ講義に通う八島太郎の下落合ルート。

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プロレタリア美術研究所跡.JPG
 1932年(昭和7)の秋、八島太郎Click!(岩松惇)は下落合の南側、戸塚町上戸塚に引っ越してきている。地番までは不明だが、戸塚町上戸塚593番地(のち戸塚町4丁目593番地)に住んでいた佐多稲子Click!宅のごく近くにいたらしい。彼はマンガ講師として、この家から下落合を抜け、長崎町大和田1983番地にあったプロレタリア美術研究所Click!(旧・造形美術研究所Click!)へ通勤していたのだろう。この年の12月、プロレタリア美術研究所は東京プロレタリア美術学校と改称し、美術の教育機関であることをハッキリと打ち出している。
 八島夫妻(岩松惇と同じく夫人は洋画家・新井光子)は、この家を拠点にして創作活動をつづけていたが、光子夫人は子育ての真っ最中で思うように絵が描けなかったようだ。八島は九州(鹿児島)出身であり、家事育児は女の役目で男は仕事に邁進し、妻はそれをサポートするのが当然・・・というような感覚を、本人が意識するしないにかかわらず成長過程で身につけていたようだ。このあたり、北海道(札幌)出身で女性には呆れるほどだらしないが(夫人から叩かれ、ときどき顔に痣をつくっていた)、家事育児を進んでこなしていたらしい上戸塚397番地で暮らした三岸好太郎Click!三岸節子Click!夫妻とは、かなり異なる画家夫婦だった。
 八島太郎(岩松惇)の感覚は、まったく時代が異なるけれど、戦後の「愛すとはついに言わねば炊き出しの 飯ぎこちなく吾は受けるを」と福嶋泰樹が詠じた全共闘運動で、「コンクリートに布団を敷けばすでにもう 獄舎のような教室である」バリスト決行中の大学構内でも垣間見える。握り飯をつくり、当然のように口を開けて待っている男子学生へ配布していたのは、ここでも「愛すとはついに」告白できなかった“サポート”女子学生なのだ。光子夫人は、常に夫のサポート(夫を支えるさまざまな雑事)をしなければならず、自身の創作活動が思うようにできない矛盾とDVに悩みつづけ、ついにふたりの結婚生活は米国で破たんしている。
 光子夫人が子どもを背負い、八島太郎(岩松惇)がキャンバスに向かって大作を仕上げている様子を、佐多稲子(当時は窪川稲子)は鮮明に憶えている。それほど、八島夫妻は佐多稲子の近くに住んでいたのだろう。当時の様子を、1981年(昭和56)に晶文社から出版された宇佐美承『さよなら日本―絵本作家・八島太郎と光子の亡命―』から、佐多の証言とともに引用してみよう。
  
 光が子どもをおぶって走りまわり、太郎が大作に専念していたすがたを、ちかくにいた佐多稲子はよくおぼえている。光(子)はおしめをあらう手をとめ、わたしもあんなに自由に絵がかきたいと佐多にもらした。/「淳(岩松惇は当時“淳”のネームをつかっていた)は強引に仕事をすすめる人。そんな淳に光は惚れていました。夫に思う存分、絵をかかせたい。だけど同じ絵かきだから競争心もある。夫が五十号を描けば自分も五十号を描きたい。女には女の仕事が重くおぶさっている時代でしたから、複雑な気もちだったでしょうね。『婦人戦旗』『働く婦人』の表紙やカットを描いてましたね。一生けんめいでしたよ。いい絵でしたよ」 (カッコ内は引用者註)
  
 また、八島夫妻が暮らしていた近くには、佐多稲子の家と頻繁に往来していた洋画家・藤川栄子Click!がいた。佐多邸の近所には当時、教師になって左翼運動に身を投じていた藤川栄子の姉・坪井操の家Click!もあったはずだ。おそらく、藤川栄子も八島夫妻と顔見知りだっただろう。さらに、佐多稲子の家には宮本百合子Click!がよく遊びにきており、八島太郎と宮本百合子はここで親しくなったのかもしれない。八島はいつも、議論では宮本百合子にやりこめられていたようなのだが、ふたりの交流は八島の創作基盤が米国へ移ったあと、戦後までつづくことになる。
上戸塚南北道1.JPG 岩松惇(八島太郎).jpg
 八島太郎が、上戸塚の佐多稲子邸の近くから、長崎町大和田1983番地のプロレタリア美術研究所へ講師として通勤したルートは、おおよそ想定することができる。当時の八島夫妻の窮状を考えれば、省線・高田馬場駅に出て池袋駅まで行き、そこから武蔵野鉄道Click!の椎名町駅で降りて同研究所まで通勤したとは考えにくい。以前、上戸塚866番地の藤川栄子アトリエから、下落合630番地の里見勝蔵邸Click!を訪ねる長谷川利行Click!の下落合コースを想定したことがあったけれど、八島太郎の研究所通勤コースはもう少し西側のルートだ。
 しかも、八島が上戸塚で暮らした時代は、青柳ヶ原Click!が消滅し国際聖母病院Click!が竣工しており、聖母坂(補助45号線Click!)が開通していたので、西へ移転したばかりの下落合駅Click!あたりから一気に目白通りへと出て、長崎町へ向かうにはかなり便利になっていたはずだ。上戸塚593番地の佐多稲子邸を起点にすれば、長崎町大和田1983番地のプロレタリア美術研究所までは1,500mほど、下落合の上り坂を想定しても歩いて15~20分ほどの距離だ。まず、早稲田通りに近い佐多稲子邸のある上戸塚593番地東側の道を、まっすぐ下落合駅方面へ北上する。下落合駅の移転とともに、神田川と妙正寺川の落ち合う地点で整流化工事が行なわれていた当時、八島は新堀橋の仮橋をわたり、つづいて千代久保橋Click!をわたると、極東ランプ工場の先のT字路を左へ折れて、聖母坂(補助45号線)の真下に出る。
 聖母坂を北上し、ほどなく目白通りへ突きあたると左折して椎名町方面へと歩いていく。300mほど歩いたところで、右手(北側)にダット乗合自動車Click!の営業所と椎名町派出所が見えてくるが、八島はできるだけ交番に近づきたくなかっただろうから、その2本手前の路地を北へ右折したかもしれない。その道を北上すると、3つめの十字路の角には「プロレタリア美術研究所」への道案内看板Click!が建っていたはずだ。その手前、ふたつめの十字路を左折して西へ歩くと、すぐに目印となる日ノ出湯の煙突が右手に見えてくる。八島太郎が通勤していた研究所は、その煙突の西側にあった。もちろん、八島の背後には特高Click!の刑事が常に張りついていただろう。
上戸塚1935.jpg
聖母坂1932.jpg
 八島太郎(岩松惇)が、初めてプロレタリア美術研究所の前身である造型美術研究所へ姿を見せたのは、1927年(昭和2)7月のことだった。当時、造形美術研究所は丸の内の三菱赤レンガビル街の真ん中、仲通14号の3の半地下にあった。当時もいまも丸の内オフィス街の中心地で、造形美術研究所に当時、三菱となんらかの関連があるパトロンがいたことを感じさせる逸話だ。その半地下の研究所に、八島がやってきたときの様子を前掲書から引用してみよう。
  
 三間四方のうすぐらいその部屋に「絵をみてください」といってあらわれた美少年・岩松惇のことを当時二十五歳だった岡本唐貴は、いまもよくおぼえている。「未熟なアカデミックな絵だったな」とかれはいう。「アカデミック」とは官制画風ということである。/胸のうちをぶちまける太郎に岡本は「ぼくたちはいまや君の考えているより先へいってるんだよ。ロマンティスムからネオ・レアリスム、さらにプロレタリア・レアリスムへとすすんでいるんだ」とおしえた。その話をきき、ところせましとならんだ矢部友衛の絵や浅野孟府の彫刻をみて太郎は感動する。
  
 それからわずか5年、八島太郎は東京美術学校を退学したあと、長崎町へ移転してほどなく造形美術研究所改め、プロレタリア美術研究所で講師をつとめるほど急速に作画技術が進捗したようだ。新井光子とは造形美術研究所時代に知り合い、1930年(昭和5)に結婚している。
 1933年(昭和8)の夏、八島は特高に検挙され、光子夫人ともども3ヶ月を超える拘留をうける。「転向」手記を書いてようやく出獄すると、光子夫人の実家がある神戸で療養し、1939年(昭和14)にサンフランシスコへ向け島谷汽船の君川丸で旅立っていった。当時の朝日新聞阪神版は、画名が知られはじめていた八島(岩松)夫妻の渡米を次のように報じるが、実質的な亡命だった。
  
 異国へ絵筆巡礼/岩松敦(ママ)画伯夫妻
 “真の芸術道を体験するためには臥薪嘗胆の荊道を歩まねばならぬ”と遠く太平洋のかなたまで貨物船に便乗し、知己もない異国の空で描き自ら売りその糧を稼ぎつつ桂の枝をたおらんという燃ゆるが如き芸術慾を迸らせて憧れの欧米へ彩管巡礼を志す若き画家夫妻がある(後略)
  
上戸塚南北道2.JPG 上戸塚南北道3.JPG
岩松惇(丸の内時代).jpg 新井光子(第4回プロ美展).jpg
 ちなみに、特高から要監視人物として見られていたであろう八島太郎(岩松惇)・新井光子夫妻へ、パスポートをスムーズに発行したのは、光子夫人の姉の婚家に縁のある外務次官・澤田廉三だった。のちに、やすやすと「海外逃亡」を許したと特高警察を悔しがらせた澤田外務次官とは、このサイトでは何度も登場している、戦後に大磯Click!駅前に建っていた岩崎別邸で、エリザベスサンダースホームClick!を創設した「女弥太郎」こと、豪快な澤田美喜Click!(岩崎美喜)の夫だ。

◆写真上:長崎町大和田1983番地にあった、プロレタリア美術研究所(造形美術研究所)跡。
◆写真中上は、上戸塚から下落合方面へ抜ける南北道の現状。突きあたりが早稲田通りで、手前の上戸塚593番地には佐多稲子の旧居跡がある。は、若き日の八島太郎(岩松惇)。
◆写真中下は、1935年(昭和10)作成の「落合町全図」にみる、佐多稲子邸の近所にあった八島(岩松)邸から下落合を通り長崎町大和田のプロレタリア美術研究所へと向かう想定ルート。は、八島太郎が上戸塚に住んでいたのと同時期、『落合町誌』(落合町誌刊行会)出版のために1932年(昭和7)に撮影された開通したばかりの補助45号線(現・聖母坂)。手前右下に見えている坂を右折すると、諏訪谷の谷戸から南へ移動した“洗い場”(プール)Click!がある。
◆写真下上左は、上戸塚593番地の佐多邸跡から早稲田通りへと抜けるあたり。上右は、下落合へと抜ける途中の右手に拡がる「新高田馬場」跡Click!の草原。草原の突きあたりに見えてる家々の左手が、上戸塚397番地の三岸好太郎・節子夫妻が住んでいた旧居跡あたり。は、丸の内三菱レンガビル街・仲通14号にあった造形美術研究所時代の八島太郎(岩松惇)。は、1931年(昭和6)に開かれた第4回プロレタリア美術展記念写真の新井光子。(中央)


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